ときたび日記 -6ページ目

ポンペイの邸宅

ファウヌスの像
 ポンペイの話が長くなっていますが、ポンペイが一夜にして火山灰に埋まってしまったことは、ローマ帝国全体にとって大したことではなかった様です。ポンペイが埋まってしまった紀元79年と言えば、ローマ時代最大の歴史家タキトゥス(55年頃~120年頃)が生きていた時代ですが、彼の著作にはポンペイのことは一言も書かれていません。
ポンペイの悲劇も関東大震災の様な大事件ではなく、豊かな地方都市での地震と言った出来事でした。

 と言う訳で、ポンペイは帝国有数の大富豪が住む町ではありません。でも、とんでもない大邸宅も残っています。
上の写真はファウヌスというローマの牧羊神というか豊饒の神様の像です。これだけ見ると小さなブロンズ像なのですが、実はこの周りのくぼみは小型プールの様な水盤になっており、しかも屋内の装飾なんです。
 因みに、ファウヌス(Faunus)は2月(February)の語源になった神様で、バレンタインデーの起源とも関係があります。話が飛んでしまうので、これで止めますけど。
この像のある住居は、「ファウヌスの家」と呼ばれ、ポンペイ最大の邸宅です。

鳥の絵
室内装飾も豪華だった様で、イラン旅日記の最初に紹介した「アレクサンドロスとダリウスの戦い」のモザイクは画は、この家の床にありました。
美術館のメインの展示になる様なお宝が、個人の家の床の装飾ですよ。
ポンペイで見つかった主な美術品は、今は、ナポリの国立考古学博物館に展示されています。今日のブログの最初にあるファウヌスの像も、皇帝ティトゥス苦悩で紹介した「弓を射るアポロン」の像も実物は博物館の中。今ポンペイの街においてあるのは、複製です。
でも、今でもちょっとしたモザイク画はポンペイの街に残っています。上の鳥の絵なんて可愛いでしょ。

ペリステリウム
この家のもう一つの凄みはは、庭の広大さです。噴水の周りに庭木が植えられ当時の趣を再現されていますが、中庭の広さ1300坪とか。

犬に注意
話が豪華すぎて、溜息が出ますが、最初に書いた様にポンペイはそれほど重要な街ではなく、住んでいたのはローマの普通の市民です。
もっとも、初期に建てられた住居は広く、時代が下るにつれて家の大きさは小さく、その分装飾が豪華になる傾向があります。土地の値段が上がったんでしょうね。
この「CAVE CAMEM(犬に注意)」と書いたモザイク画は、さほど広くない中間階級の典型的な家の入り口にあります。家の中も、演劇や神話の場面を描いたフレスコ画で飾られており、家に付いた愛称が「悲劇詩人の家」。
地方都市の中間階級の家が、至る所フレスコ画で飾られている???
やっぱり、結構豊かな生活をしていたようです。

犬
  犬と言えば、ポンペイの遺跡には、野良犬が一杯います。のんびりした暮らしをしているらしく、人を警戒しません。
 遺跡の管理、発掘をしている人は、野良犬たちと友達の様で、犬にはみんな愛称が付いていて、「マリオとテレーザは、恋仲だよ」とか「ジョルジョは最近振られたんだ」(以上、あくまでも犬の話です)と言うのが、楽しい日常会話のようです。
 この犬との関係は、現代人も、ローマ時代の人も同じかも。

ポンペイの人々の生活

雨水の処理
 ポンペイはローマ時代の典型的な一地方都市がそのまま封印されて、2000年後に再び姿を現したとはよく言われます。そこでの人々の生活は、かなり快適そう。

 まずは、インフラ(社会資本)。ローマと言えば、「全ての道はローマに通ず」と言うくらい、インフラ、特に道路を大事にした国でした。雨の日にポンペイに行ったので、道路の立派さを感じることが出来ました。
上の写真は、カリゴラ門からメルクリウス通りを撮ったものです。結構な雨が降っていたのですが、道の真ん中には水溜まりがありません。ローマの道の特色の一つ、道の両脇には排水溝が走っているのです。
排水溝
そして、道路からの水は、ここに流れ着いていました。

ローマ帝国にとって、道路は格別に重要なものでした。ローマ帝国の街道は、ローマの兵士が征服した後に、同じローマの兵士が、剣をつるはしに持ち替えて敷くのです。もちろん、費用はローマが出して。

何故に道路がそんなに大切なのか。ローマ人は、征服した土地に占領軍を常駐させて征服された敗者と摩擦を起こす様なことはしません。何か事が起これば、基地から兵士を移動させる。つまり、道路はまず、軍団が、なるべく早く、安全に目的地に着くためのものでした。
街道のもう一つの役割は、征服した土地を同化して、繁栄させ、敗者と勝者が運命共同体になること。
ローマの街道は、平坦で、舗装され、雨が降っても荷馬車の轍が水溜まりの泥の中にはまりこむ事はありません。そして、この街道は街の周りを迂回せずに、街の中央を通り抜けています。こうすることで、人と物の行き来が盛んになり、周辺の人々の生活水準も向上しました。
アッピア街道などのローマの道を、徒歩や馬車で行き来する事、それは「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」を
生きることでもあったのです。

と言う訳で、ローマの街道は、表面を弓形にした上で両脇に排水溝が走っていました。道が水浸しになる状態は何としても避けたかったのです。
ローマのエンジニアのモットーは「岩は味方だが水は敵」です。

バール
こちらの写真は、今のイタリアで言う「バール(イタリア式喫茶店)」。喫茶店と居酒屋を一緒にした様な店で、全体がカウンター。穴の部分が鍋をのせて煮炊きものをする所です。奥の方に見えるのはワインの壺かな。
このままお店にしても、お洒落という感じもします。
窯
こちらは、どう見ても窯です。美味しそうなパンかピザが出てきそう。ただ、円盤状の生地の上にトッピングを乗せて焼くピザが出来たのは、16世紀にトマトがイタリアに伝えられてからなので、当時の人は、ピザは無し。
でも、壁に残る絵に平たいパン、今イタリアで食べられているフォッカチャそっくりのものが出てくるので、これに何か乗せて食べてはいたかも。

この他に、屋外劇場と屋内劇場、円形闘技場に、大体育館、大浴場と、公共施設は下手な現代の地方都市より豊富そう。
更に、ルバナーレと呼ばれる娼館があり、結構エロティックな壁画が残っているらしいのですが、修復中で見られませんでした。
「また今度おいで下さい」と言うのが、ガイドさんの弁です。残念・・・・。

ポンペイ  ; ローマ皇帝ティトゥスの苦闘

ポンペイの街路
今度は、南イタリアに行ったときの話をしたいと思います。私のお目当ては、カプリ島。
長靴状のイタリア半島の足の甲あたりにあるナポリ。その少し下で半島状につきだしたソレントの街のすぐ向こうにある「ひょっこりひょうたん島」の様な島です。

古代ローマ時代からのリゾート地で、「青の洞窟」という観光名所があります。これをお目当てに、一日だけカプリを訪れる日本人観光客が多いのですが、天気が悪いと洞窟に入れないません。せっかく船に乗ってカプリ島まで来たのに洞窟に入れず、お葬式に出席した様な暗い顔をして帰っていく人もいます。

カプリ島に行くなら、是非お泊まりを。
私は、天国ってこんな所かなという気分で過ごしました・・・。

と言っても、カプリ島を知っている人は少ないと思いますので、有名なポンペイの話から始めたいと思います。
ポンペイはローマ時代にヴェスヴィオ火山の噴火で埋もれてしまい、19世紀頃発掘されて、今でも発掘作業が続いています。
上の写真は発掘現場の一部ですが、一夜にして埋まったと言うだけ有って、当時の生活がそのまま残っているので有名です。ところが、ポンペイが埋まった時代がどんな時代だったかは、「ローマ時代」と言う以上の説明をあまり見かけません。
で、少し時代背景を説明します。その方が、後の写真もリアリティが出ると思いますので。

噴火が起こったのは、紀元79年8月24日午後1時。
この時、シーザー暗殺から既に123年が経ち、ローマ帝国は安定期に入っていました。

カリグラ、ネロと言った暴君として悪名高い皇帝達が去って既に11年が経ち、17年後には「ローマ帝国盛衰記」の著者イギリス人エドワード・ギボンが「人類が最も幸福であった時代」と評した五賢帝の時代に入ろうとしている頃の事件です。

この時代、ローマ帝国は暴君ネロの暗殺に伴う混乱をやっと乗り切ったばかりでした。時の皇帝は、噴火の2ヶ月前に39才で帝位についた、ティトゥス。
父、ヴェスバシアヌスが軍隊のたたき上げからのし上がり、皇帝となって平和と秩序を回復するのに協力し、父の死後、皇帝に就いたティトゥスは、共同住宅の借家に生まれた真面目な人でした。
若いときに心底惚れ込んだユダヤ王女ベレニケとの恋を民衆の猛烈な反対を受けて諦め、生涯独身を通した程です。国民が望まないのであれば、生涯の恋も諦めると。

矢を射るアポロ像
紀元79年8月24日午後1時、地震が始まりました。ただ、ヴェスヴィオ山は900年の間噴火しておらず、今とは違って、木々に覆われていました。温泉の湧くのこの地に住む人々は、いつものことだと思っていました。
ところがこの日、熱した火砕石が降り注ぎ、屋根が崩れ落ちてきて、人々はやっと逃げ出す気になりました。
時既に、午後の7時近く。日が落ちて既に暗くなった中を、人々は頭部を衣服で守りながら、カンテラの火を頼りに逃げ始めました。
ところが、避難する人々の上に音もなく降ってきた、火山灰を大量に含むガス雲が、人々の息の根を止めました。ポンペイから5キロ離れたスタビアエまでも覆い尽くしたガス雲からは、どこまで逃げても逃げられなかったのです。犠牲者のほとんどは、窒息死だったようです。
残念ながら、悲劇の説明の上に掲げたアポロン神殿のアポロン神の聖像も、人々を守る力はなく、火山灰の中に埋もれました。

埋没した人
この悲劇は、翌25日の朝には終わっていました。ポンペイは火砕石と火山灰が積み重なって出来た4メートルの土砂の下に埋まってしまったのです。それも、最後の方に灰混じりの雨が降ったので、この4メートルの土砂はセメントの様に固まっていました。
犠牲者は、二千とも、五千とも言われています。当時のポンペイの人口は、一万五千から二万の間。膨大な被害です。

フォーロの列柱
この知らせが、ローマのティトゥス皇帝の元に着いたのは、2日を経ない26日前後。余震の続く中、ティトウスは、対策本部を現地に置き、陣頭指揮に現地に乗り込みました。
しかし、既にボンベイは神殿や円形競技場の上の部分が地表に顔を出すばかりで、4メートルの深さに埋まり、雨で固まってしまった町も村も、放置するしかなく、遺体の収容すら不可能でした。
ただ、ポンペイの位置するカンパーニア地方は、豊かな地方で、当時イタリアでは最も人口密度も高く、逃げ延びた被災者向けにやるべき事は限りなくありました。

翌年紀元80年4月に首都ローマで大火災が発生して、その対策にローマに帰らざるを得なくなるまで、皇帝ティトゥスは、この地に留まり、陣頭指揮を続けます。
そして、ローマに帰るや私財をなげうって、火災で消失した公共施設の代わりに、体育館、図書館、ゲーム室、庭園までを備えた公衆浴場を建設。また、災害続きで気落ちした市民を励まそうと、当時完成したコロッセウムのこけら落としを盛大に挙行。
不幸は続くもので、翌年紀元81年夏、イタリア全域に疫病が発生。皇帝ティトゥスは対策委員会を設置し、医者を総動員しました。このおかげか、秋になると疫病は収まりました。

しかし、疫病にかかった訳でもないのに、皇帝ティトゥスは病に倒れ、故郷の温泉につかりたいとの望み通りに、その地に運ばれ、息絶えました。紀元81年9月13日のことです。
41才もならない前の死でした。2年と3ヶ月の治世でした。

当時のローマの人々は、この実直な皇帝の死を心から嘆き悲しんだようです。ただ、皮肉好きのローマ人らしく、こんな言葉を残した同時代人もいます。
「治世が短けりゃ、誰だって善い皇帝で居られる」

うーん、書いていて悲しくなってきたので、続きは、次回に。

ハーヴィス・アマンダの像

ハーヴィス・アマンダ
この写真は、ヘルシンキの港の側に立っているハーヴィス・アマンダの像です。1906年制作。「バルト海の乙女」と言うニックネームなのですが、ヘルシンキ自体の愛称が「バルト海の乙女」ですので、街のシンボルの様な像です。

ちょっと目は、見返り美人という感じの愛らしい像で、19才のフランス人女性をモデルに作者がフランス滞在中に制作。
結構、面白い話の多い彫刻です。

まず、ハーヴィス・アマンダは海の精だけど、陸へ上がって生きていくことを決心したという話になっています。人魚姫みたいですね。
この像は、海から陸への最初の一歩を踏み出そうとする瞬間の姿。そして、彼女が振り返っているのは、ふるさとの海。
こういう像を、街のシンボルとして置くヘルシンキの人は、よほど海が好きなのでしょう。

もう一つ、この像に学生が白い学帽を被せるのがメインイベントの、恒例の祭りがあります。
「え、何、それだけで祭り」と言いたくなる様な話ですが、5月1日をフィンランドでは、「Vappuヴァップ」と呼び「夏の訪れ」として祝う日です。その前日に毎年6時頃行われます。夏の節分の祭りという感じです。
氷に閉ざされた冬を送るフィンランドの人々にとって、夏は嬉しい季節で、大はしゃぎする一日のようです。

これを見るために、大勢の人が詰めかけ、屋外ステージでロックが演奏され、風船売りがあちこちに立つとか。
しかも、帽子を被せるのにクレーン車が使われ、人が集まった後、大量のゴミが出るので一千万円くらいの清掃費用がかかる。
信じられない様な、平和な話です。

Old market
ハーヴィス・アマンダの像の有る港のすぐ側に「Old Market」の建物があり、中になんとお寿司屋さんがありました。
実は、上の写真の向こうの方にある黄色い建物です。冬でなければ、屋外市場がでて、にぎわう一角らしいのですが、出張で写真が撮れるときは希ですので・・・・。
提灯など下がっていて、すっかり日本風(?)なのですが、店員もお客さんもフィンランド人。
ネタが大きい割りに、一個250円くらいで、割と気楽に食べられる食事として根付いているようです。

フィンランドは、ヨーロッパの北の国では良くある話ですが、食べ物のバリェーションにはやや乏しいです。
ご馳走として出てくるのが、トナカイの肉とザリガニ。

トナカイの肉が珍しいのは事実ですし、そこそこ美味しいですが、サンタクロースの国でトナカイの肉を食べるのはちょっと気が引けます。
出張に同行していた人が、日本に帰ってトナカイの肉を食べたことを子供に話すと、子供が急に涙目になって、「じゃあ、サンタさんはもう来れないの」と聞いたそうです。
焦って、「お父さんが全部のトナカイ食べちゃった訳じゃないからね。来れるよ。」と否定したそうですが。

Cafe
洒落たカフェとか、レストランはあるのですが、建物が洒落ている割りには、食べ物は普通な感じです。

フィンランドの人からの、一番の歓待は、サウナに招待して貰うこと。
企業の中にまで、お客さんを招待するのに使うサウナがあります。

当然、そこに裸で入って、歓談する訳です。ちょっと、面食らいますけど。
ビールを飲んで、サウナに入って歓談。素朴な歓迎で素敵だとは思いますが、思いっきり、アルコールが回ります。
この上、ほてった体を冷やすのに、冷たい湖に飛び込むなどという話を聞いた日には、「死ぬかも」と言う思いも・・・。

出来れば、仕事関係なしで、夏に観光客として来てみたい国ではあります。

フィンランド人はアジア起源 ?

ロシア皇帝アレクサンドル二世像
前回と同じく、ヘルシンキ大聖堂を含んだ写真なのですが、その前に建っている像は、ロシア皇帝アレクサンデル二世像です。
イランで自国の皇帝の像が革命で引き倒されたのを見てきましたので、何で、よその国の皇帝の像が、フィンランドのような先進国に建っているのかなと気になっていました。

ところで、フィンランドに行って気がつくのは、変わった名前が多く、言葉の感じが周りのヨーロッパの国と違う事。
フィンランドの言葉は、英語やドイツ語が属するインド=ヨーロッパ語族とは違った語族に属しています。

語族の話は結構めんどくさいのですが、大体で言えば、同じ語族に属する人は、同じ起源を持っていると考えられています。
要するに、祖先が同じで同じ言葉を話していたから、今使っている言葉が似ているという理屈です。
フィンランド語は「ウラル語族」に属していて、学者によっては「ウラル=アルタイ語族」とまとめている人もいます。
アルタイ語族には、モンゴル語やトルコ語が属していて、日本語もこの語族に属すると言う学者もいました。

要するに、フィンランド人はアジアが起源と取れる様な学説があったんです。
それで、私は、フィンランドの人たちはフン族がローマにまで攻め込んだ様にアジアから入り込んできた人たちの子孫かなと、思っていました。
だとすると、アジア起源の国がロシアに征服されていた気の毒な時期があんだ思って、このアレクサンドル二世像を見ていたんです。

でも、そうだとしたら、昔はフィンランド人の王国があったはず。
そこで、「フィンランドの建国は何時ですか」と何回かフィンランドの人に聞いてみたのですが、答えは「1917年」。
ロシア革命が起こって、フィンランドがロシアから独立宣言した年です。

凍った港
変だなと持って調べてみたら、実態は全然違って、完全に私の勘違い。

紀元前3000年頃から、フィンランドの地にフィン人は住んでいたというのが、今有力な説だそうです。
フン族のヨーロッパ侵入は紀元後5世紀頃ですから、フン族とは関係なし。フィン人が自分だけで作った国は、歴史に残っていないようです。
12世紀にスウェーデンの遠征によってスウェーデンの属州になったのが、フィンランドが国らしい形を整えた最初。
以来、1808年にスウェーデンがロシアに敗れて、フィンランドがロシア皇帝を元首とする「フィンランド大公国」
となるまでフィンランドはスウェーデンの一部でした。
「フィンランド大公国」となってから、開明的な啓蒙君主、ロシア皇帝アレクサンデル二世のもとでフィンランドは「自由の時代」を楽しんだようです。
1808年は、ナポレオンを封じ込めようとイギリスとロシアが共同戦線を張っていた頃ですから、フィンランドにもナショナリズムが目覚めました。フィンランド国歌「我が祖国」が作曲されたのもこの時期。民族叙事詩「カレワラ」が出版されたのもこの時期です。
これが、ロシア皇帝アレクサンデル二世像がヘルシンキの中心に建っている理由ですね。

それに、「ウラル=アルタイ語族」と一つにまとめると言う説は今はあまり信じられてないようです。フィンランドの人々は、特にアジアと関係がある訳ではないみたい。

少し離れてしまいましたが、フィンランドの人々は上の写真にある凍り付いた港の様な、厳しい歴史を過ごしてきたのは事実のようです。
15年くらい前、初めてヘルシンキの港に連れて行って貰ったとき、案内してくれたフィンランドの人が「この海のむこうにソ連がある」と言ったときの表情が、今も忘れられません。

ムーミンの母国、フィンランド

ヘルシンキ大聖堂
いつも旅行している訳ではないので、少し脱線しないとネタが尽きてしまう。
そこで、出張で訪れた国のことを書かせて貰います。
と言っても、海外出張というのは、空港に着いて、相手先のオフィスに行って、ホテルに戻るの繰り返し。
写真なんて普通無いんですよね。
と言う訳で、数少ない、写真のある出張のお話です。

最初の出張日記は、フィンランド。上の写真は、首都ヘルシンキのシンボル、ヘルシンキ大聖堂。
見て分かる様に冬に行ったんですよ。
「寒いすっね、何度ぐらいですか」と聞いたら、「零下18度かな。今日はこの時期としては暖かいよ。」てな、時期です。

日本からヘルシンキに行くのに一番便利なのは、フィン・エアー。エコノミー・クラスの顧客としてしか乗ったことはありませんが、あんまりお勧めではないです。
去年乗ったのですが、今時の飛行機なのに座席の背に液晶テレビが付いていない。しょうがないから、共用の大きな画面の映画見ていたのですが、これが下らない。
日本からヨーロッパに行く時は、十二時間ぐらい飛行機の中ですから、映画の善し悪しは大事なことですよ。
フィン・エアーさん、改善してね。

ヘルシンキ駅前
この写真は、ヘルシンキ駅前の人混み。
といっても、ヘルシンキはこぢんまりした、静かな街ですから、東京みたいな喧噪はありません。
因みに、駅の側に郵便局がありまして、ムーミンの絵葉書売ってました。ムーミンの母国だけあって、種類が豊富で、お土産に最高。

「時間が余ったら、どこに行くと面白いですか」と、駐在している日本人の方に聞くと「冬ならオーロラの見えるラップランド。サンタクロース村も、そこにある」とのこと。
ヘルシンキは最初の写真からも分かる様に、ヨーロッパらしい建物のある綺麗な街なのですが、あんまり大きくはなので見る所はそんなに多くないそうです。
見るものではないですが、サウナ風呂の本場でもあります。
フィンランドと言えば、思いつくのはこんな所でしょうか。

挙げ句の果てに、「夏なら、高速船でエストニアに行けるよ。」と言われて、良いな、夏だったら良かったのにと思ったくらい。

ムーミン、サンタクロース、オーロラ、サウナ風呂、位ですかね。
初めてフィンランドに出張に来て、お客さんの所に向かう車の中で、フィンランドの人に、「森と湖しか無くてゴメンね。」と言われたのを思い出します。

で、仕方なく、街をうろつくと、ほんの1、2時間しか居られなかったのに、結構面白い所でした。
続きは、次回です !!!

現代イラン:パフラヴィー朝、モサッデク、そして、イラン革命

ホメイニ師
 イランの核開発問題が話題になっていますし、アメリカが最も危険視する国がイランと言う報道もありました。

でも、20世紀のアメリカとイランの関係を見ていると、イランに同情したくなってしまいます。
因みに、私はアメリカ好きです。パソコンも、ずっとマッキントッシュだし(説得力無いかな・・・)。

まず、イスファハンの紹介の時に説明したサファビー朝が18世紀に崩壊した後、どうなったかを簡単に説明しますね。
サファビー朝の後、トルコ系のカージャール朝が20世紀の初めまで続きます。
この時期、イランは、ロシア、イギリスに領土を削り取られ、半植民地化が進行。
中国の清朝と同様な有様ですね。

20世紀初めになると、ロシア、イギリスが勝手にイランの一部を支配したり、地方で勝手に自治政権が成立を宣言するなど、国としては末期状態。
この時、コサックの旅団長だったレザー・ハーンが各地の反乱を制圧し、1925年にパフラヴィー朝を創始しました。
日本で大正天皇が亡くなる一年前の出来事です。

レザー・ハーンは、国王となって、レザー・シャーと名乗ったのですが、イランの独立確立と近代化を進めました。
まず、ロシア、イギリスに依るイラン支配を排除。いわゆる民族主義です。
イスラム以前のイランの歴史を讃え、近代教育のために大学を新設。これは、イスラム聖職者の権限の縮小を伴い、
イスラム聖職者が近代化に反対する原因になりました。

レザー・シャーが1941年に退位した後、イランは「デモクラシー期」と呼ばれる時期に入ります。
この運動の中心人物が、1951年に首相になったモサッデク。
この時期にイランの人が独立のシンボルと考えたのが石油国有化。
イランの石油を独占したアングロ・イラニアン石油会社は、モサッデク政権により国有化されました。

でも、これがアメリカの介入を招きました。
モサッデク政権の石油国有化により石油の利権を得られなかったアメリカは、1953年にCIAによるモサッデク政権崩壊計画を実行。
まあ、石油労働者のストが頻発するので共産主義拡大の危険を感じた、というのが一番の理由らしいのですが、イランの人から見れば迷惑な話だ思います。

この後、アメリカは親米的な国王に入れ込みます。モサッデク政権崩壊前には、5900万ドルだったアメリカのイランへの援助は、1953年から1957年に5億ドルに急増。
あげく、1957にアメリカは秘密警察の設立を援助。
イランの人が、アメリカに親しみを持つのは無理だと思いませんか。

倒れた象
この国王が有能なら話が違ったんでしょうけどね。国民は貧しいままだし、賄賂は横行するしで、ひどいもの。

この王様、武器集めが趣味で、1977年には国家予算の40%が軍事費。当然、アメリカへの支払いです。
この武器の維持のために、アメリカ人顧問団も大量にイランに駐留。あげくに、顧問団目当ての、キャバレー、ディスコ、B級ポルノ映画が流入。
少なくとも、イスラム聖職者の思いは凄いものがあったでしょう。

結局、国王の暴政への不満が、イラン革命を引き起こしました。そして、国王を支えていたのが、アメリカだったと言う構図です。

テヘラン
イランの若者は反米的な教育で育っているので、ちょうど、反日教育で育った中国の若者の様に、刷り込まれたアメリカ嫌いの傾向があるかもしれません。
若いガイドさんはいつもは穏やかなのに、「アメリカこそテロリストだ」という説明には、妙に熱狂的な感じがしましたし。

でも、首都テヘランでも、上の写真みたい当たり前の街です。
戦乱の傷の癒えない国の様に、荒れている訳でもない。
逆に、周辺国を脅かすはどの発展を遂げている国の様に、新しいビルと自動車にあふれかえっている訳でもない。

ごく、平穏な、日常生活が送られています。
この物騒な時代に、平穏な生活を送れる国というのは、結構良い国だと思うんです。
2600年の時の流れを楽しむ旅に出かけるには、とても良い国だと思います。

そして、この国の人たちが、自分らしく、次の時代を築いていくのを応援したくなる様な国でもある、と思ってます。

ゾロアスター:「初めに二霊ありき。二霊は光と闇なりき。」

ゾロアスター
拝火教と言う言葉は聞いたことがあると思います。この宗教を創始したのが、ゾロアスター。
上にあるのが、ヤズドのゾロアスター神殿に掲げられていた彼の肖像です。
紀元前630年頃の生まれ。お釈迦様より170年程前の時代の人です。

ペルシャ帝国の特徴の一つが、ゾロアスター教。特に、ペルシャを名乗った三つの大帝国の内、真ん中に当たるササン朝ペルシャの国家宗教がゾロアスター教でした。

この宗教は、多くの特徴的なアイデアを持っていて、後の宗教に大きな影響を与えています。

まず、世界を善神アフラ・マズダと暗黒と邪悪の神アンラ・マンユの永遠の闘争の場と見て、善悪二元論を創始したこと。ユダヤ教が悪魔の存在を認めたのは、バビロン捕囚の頃、ゾロアスター教の影響を受けたからだという意見があります。
そして、拝火教と言うぐらい火を神聖視したゾロアスター教では、世界の終末に彗星が落下して大火が発生し、全てを焼き尽くし浄化するとします。キリスト教の「最後の審判」の元になった思想です。
天使の光輪も、ゾロアスター教で、大地を支配する者にアフラ・マズダから与えられるクワルナフが起源。

神殿
書いていたらきりがない位の様々な影響を、後の宗教に与えたゾロアスター教。
でも、ササン朝ペルシャが7世紀半ばにイスラム教徒に滅ぼされて以来、消滅してしまいました。滅んでから既に、1300年。
ところが、ヤズドの山の中腹に、上の写真の様な神殿があり、なんと、ゾロアスター教徒の崇拝する炎がまだ燃えていたんです。
何も知らなかった私にとっては、驚異の一語です。
初めの炎がともってから2600年、戦争で滅んでから1300年ですよ。

アフラマツダ
この羽根を持った神が、ゾロアスター教神殿に祀られる、光と善の神、アフラ・マズダです。
この神様は、辿っていくと、面白い話が幾らでも出てきます。

まず、アフラというのは、日本で言う阿修羅に相当する神様です。
イランの神様はインドの神様と同じ起源を持っているのですが、インドではインドラなどの新しい神様が主流となったのに、イランでは、古い神様が崇拝されていました。

これに一役買ったのが、ゾロアスター。
新しく勢力を増してきた戦士階級、そして、戦士階級の神を祀る僧侶達の暴虐を非難して、アシャ(正義)による救済を説き、数々の奇跡を通じてアフラ・マズダを宇宙創造神とする宗教を確立しました。

ゾロアスターの名は、ギリシャ人が伝えたので有名ではあったのですが、その実態が分かったのは、18世紀になってから。ゾロアスター教の聖典「アヴェスタ」が、フランス人デュペロンによって翻訳されてからです。
この中の「ガーサー」と呼ばれる詩の中にゾロアスターの生涯が描かれていました。

若き日のさすらいと修行。
大天使に導かれて光と善の神、アフラ・マズダと出会い。宇宙の創生や善、悪についての神との対話。
布教を決意してからの戦士階級、そして、戦士階級の神を祀る僧侶達との苦しい戦い。
数々の奇跡を示し、ウィシュタースバ王をゾロアスター教に改宗。
ウィシュタースバ王の王国の国家宗教となり、強力に布教を進める途中で死亡。
布教のために同行した戦争で敵軍に殺されたされています。
荒野で狼に引き裂かれたとか、天火に焼かれたと言う伝説、もあります。
いずれにせよ、ゾロアスターは、その激しく、戦闘的な生き方にふさわしい死を迎えたようです。

誰か、ゾロアスターの生涯を映画化しませんかね。
凄いスペクタクルになることは、間違い無しです。

ヤズドの「沈黙の塔」

沈黙の塔
最初は全然期待していなかったのに、行ってみたら凄く印象に残る場所って有りますよね。
イランの旅で、私が出会ったそんな場所、それがヤズドです。

上の写真、なんだとおもいます。山の上にある、平たい建築物。
これ、葬儀場なんです。ゾロアスター教で行われる「鳥葬」と呼ばれる葬儀を行う場所。
その名も「沈黙の塔」。

沈黙の塔(拡大図)
遺体を山の上にあるこの塔の中に持って行き、鳥についばませて、霊魂を天国に運んで貰おうとう儀式です。
現在では、伝染病が広がる原因になると言う理由で禁止されているそうです。

でも、霊魂が実際に有ると信じて、それをどうやって天国に届けようかと真剣に考えるとこんなやり方を思いつきそうです。
このあたりで鳥葬にされた人々の霊魂が、周りに居る様な気分が。
ここに居たとき、私は、昔聞いたラジオドラマを思い出しました。霊魂が風になって、今でも世界中を飛び回っているという話。
そんな、雰囲気一杯の場所です。

ヤズドの街
ヤズドは、バサルガダエと違って、今でも普通に人が住んでいる街です。上の写真の様な美しい建物があります。

この街で、普通の人の住むお家を見せて貰うことが出来ました。
砂漠の厳しい暑い夏にも、そして、冬の寒さにも対応できる様に、季節によって、主に住む部屋を変えるなど、工夫の施してある洒落た住居。
暖かい感じのご家族で、利発そうな女の子が居ました。

やっぱり、こういう機会があるとし、イランという国の人に親しみが湧きます。
日本では、外国人観光客を家に招きませんが、やってみると、日本に親しみを持つ人が増えるかも。

この方達は、イランの方としては、普通にイスラム教徒でした。
でも、ヤズドには、今でもゾロアスター教が生きています。
正直な所、イラン旅行で、一番びっくりしたのは、ゾロアスター教の神殿でした。
長くなるので、明日にしますね。

「我は王なり、我が名はキュロス」

キュロスの石碑
イラン旅行で立ち寄る街の一つに、パザルガダエと言う街があります。

この街はペルシャ帝国初代皇帝キュロスが定めた首都です。
キュロスの出身部族で、ペルシャ全部族の中で、最も威信のあったパザルガダエ族の本拠地のようです。

と言っても、何せ2600年前の街でして、遺跡が所々あるだけの何にも無い所と言っていい。

キュロスの死後、まもなく、首都はスーサに移されたので、ペルシャ帝国の首都と言うより、キュロスの都でしかない運命だったようです。
まあ、何もないのもごもっとも、という寂しい話ですね。

ただ、キュロス王は、欧米では有名人です。

一つには、ギリシャ人の歴史家ヘロドトスが彼の著書「歴史」の中で紹介していること。
ヘロドトスは、歴史の創始者と見なされている人で、彼の著書「歴史」は世界最初の歴史書。
その世界最初の歴史書の中で、世界最初の大帝国の建国者として紹介されれば、有名にもなりますわな。

もう一つは、キュロスが帝国を建国する途中で征服した新バビロニア王国にユダヤ人が捕らわれていて、このユダヤ人を解放したこと。
ユダヤの国難の一つ「バビロン捕囚」からの解放者がキュロス王で、キュロス王は旧約聖書では救世主扱い。

西洋文明の根本、ギリシャ・ローマ文明と聖書の両方で大王扱いですから、鬼に金棒。超有名人です。

で、「かの有名なキュロス王ゆかりの地」と期待して行ったのに、残っているのはキュロス王を讃える石碑が幾つかだけ。

最初の写真の石碑について、ガイドの人になんて書いてあるのか聞いたら「私は王様です。私の名前はキュロスです。」と説明を受けました。
「我は王なり、我が名はキュロス」と置き換えて、「なかなか、格好いいじゃん」と気に入り、抜ける様な青空をバックに写真を撮って、自己満足に浸ってます。
格好いい石碑だと思いませんか・・・。

ペルシャの領土
キュロスは、2600年も前に、こんなに大きな帝国をわずか25年で作ったんですよ・・・。
因みに、この地図は吉川弘文館の世界史年表・地図に載っている物です。
写真の色合いのせいで見にくいですが、エジプトはキュロスの死後に征服されてます。

でも、エジプトが無くても十分巨大ですよね。
イラン人の誇りの理由の一つに、2600年も前にこれほど巨大な国を築いた人の子孫だ、と言うのがあります。
ごもっともな巨大さだとは思います。

ついでに言えば、秦の始皇帝が中国を統一して大帝国を築くのは、300年程後です。

キュロス大王墓
「不死身の1万人」と呼ばれた軍団を率い、「諸王の王」として君臨したキュロスは、アジア奥地の遊牧民マッサゲタイ族の女王トミュリスの軍との戦闘中に戦死したとヘロドトスは伝えています。

上に載せた写真がキュロスの墓です。
大王の墓と言っても、これほど分かりやすいのは珍しいです。小型のピラミッドみたいな感じ。
写真のバックにするには、最適ですね。

ペルシャ帝国の建国者だけあって、キュロスの墓は、一団の祭祀に守られ、毎日馬が生け贄として捧げられたそうです。
アレキサンダー大王も、表敬のためにこの墓に訪問したと伝えられています。

パザルガダエは地味な所ですが、強者達の夢の後と思えば、味わい深い所でもあります。

2600年前と言えば日本は縄文時代ですから、遙か昔も度が過ぎるかもしれません。
でも、砂漠の真ん中で、2600年前の帝国の興亡を思うと、日々のストレスが小さな物に思えてくるのだけは、保証付きです。