柳川の夏も東京に匹敵する暑さである。
北原白秋(1885~1942年)は、ここ柳川市沖端町(旧・福岡県山門郡沖端村)で生まれた。
「水郷柳河(のち柳川と改字)はさながら水に浮いた灰色の柩である」――白秋は27歳の時に発表した『思い出』のなかで、こう書いている。そんな柳川を8月6日、7日と訪ねてみた。
地元の人たちに「柳川とはどんな町?」と問えば、「農業と漁業の町」、あるいは「白秋が生まれたところ。白秋祭はよかよ」、そして「水路があり、その視線から見ることのできる町」などと語ってくれた。
なにより印象的だったのは、縦横に流れる堀割の、その多さである。
赤レンガの三つの倉が並んで建っている並倉と呼ばれる所へ足を運んだとき、いくぶん涼しい風を感じた。この倉は明治後期に建てられたもので柳川特産の味噌と醤油の製造工場である。川面には赤レンガが映し出され、柳川風物のひとつといわれている。
白秋にとって柳川は、静かな、廃れゆくかつての城下町であった。『思い出』には、少年白秋がみた柳川の堀割、夕日、夜、海などの風景を恐れや怖じ、そして性の官能がないまぜとなって描かれている。次の詩のように……。
水 路
ほうつほうつと蛍が飛ぶ…………
しとやかな柳河の水路を、
定紋つけた古い提灯が、ぼんやりと、
その船の芝居もどりの家族を眠らす。
ほうつほうつと蛍が飛ぶ……
あるかない月の夜に鳴く虫のこゑ、
向ひあつた白壁の薄あかりに、
何かしら燐のようなおそれがむせぶ。
ほうつほうつと蛍が飛ぶ…………
とある家のひたひたと光る汲水場に
ほんのり立った女の素肌
何を見てゐるのか、ふけた夜のこころに。
とはいえ、白秋がなぜ「水に浮いた灰色の柩である」と断定したのかを、僕は『思い出』からも柳川の町からも見つけることができないでいた。
しかし、生家の近くにある白秋公園にある「帰去来」の詩碑を読んだときに、ここに白秋の思いがあるような気がした。
帰 去 来
山門は我が産土 雲騰る南風のまほら、
飛ばまし、今一度。
筑紫よ、かく呼ばへば恋ほしよ塩の落差
火照沁む夕陽の潟。
盲ふるに、早やもこの眼見ざらむ、また葦かび、
籠飼や水かげろふ。
帰らなむ、いざ、鵲かの空や櫨のたむろ、
待つらむぞ今一度。
故郷やその子ら皆老いて遠きに、
何ぞ寄る童ごころ。
この詩は白秋が亡くなる前年の昭和16年、最後の帰柳の折に詠まれた。ここには故郷への思慕が痛いほど込められている。
白秋は九州でも有数の旧家である海産問屋に生まれ、豊かな幼年時代を過ごすものの、17歳の時(明治34年)に沖端の大火により生家は没落の憂き目にあうことになり、25歳の時には母の手紙によって破産したことが知らされる。
白秋は『思い出』を出版したことを「今はただ家を失ったわが肉親にたつた一つの贈物としたい為め」であると述べている。
青年白秋は故郷柳川に育てられたことを肯定しながらも、帰りたくても帰ることのできない地となった故郷と自分とを無理矢理に引き裂こうとした葛藤の結果、「水郷柳河はさながら水に浮いた灰色の柩である」と表現したのではないだろうか。
帰去来の詩には、20年もの間帰らなかった白秋の原風景・柳川への郷愁があふれている。
帰 去 来
【私の意訳 】
山門柳河は私の故郷、
雲は湧き騰り南風がここちよく吹く
まほろばの地だ。
ああ、もう一度だけでいい、
あの地へ飛んで帰りたい。
筑紫よ、
おまえの名をよべば、干満の差が激しい、
まるで砂漠にいるような錯覚を覚える海を思い浮かべるのだ。
夕映えのなかに光る、
あの有明の海が恋しい。
私の目は冒され、水辺に揺れる葦や、籠飼や、そして水かげろうも、
もう見ることはできない。
それでもいい。
さあ、帰ろう、
鵲が空に舞い、そして櫨の木が待っているあの地へ、
帰りたくても帰れなかった柳河へ、
今一度帰ろう。
故郷やそのころ一緒に遊んだ子らたちも老いてしまった。
二十年間も故郷に帰らず、疎遠のままであったのに、子どものようにこんなに思いを馳せるの はどうしたわけであろうか。
2001.8 記