「リチャード3 世」(劇団アンティック・ディスポジションロンドン、2017)
RichardⅢ
RichardⅢで注目すべき点は主人公の性格描写に重点が置かれていることであろう。その性格は第一幕冒頭の40行にわたる独白に最もよく示されており、その性格は劇の最後まで変わることがない。この作品では主人公の苦悩は殆ど描かれていない。ただAnneの口を通して主人公の苦悩が語られているに過ぎない。その意味で悲劇的作品ではあるがShakespeareの後期の悲劇とはおのずから性質を異にしている。Macbethと比較してみるとその違いは歴然である。RichardⅢは主人公の外面の行動を強調して描いた一種のメロドラマであり、この劇が暴力で充満している点はTitus Andronicusに似ている。数々の欠点があるが、劇構成が優れており、種々の面でShakespeare初期の代表的作品の一つとなっている。[1]
[1] 作品の背景:「史実のリチャード三世は悪党ではなく、所謂「テューダー朝神話」によって悪党に仕立てられたといわれている。ジョセフィン・テイ作『時の娘』にも史実のリチャード三世は悪党でも“せむし”でもなかったとあるが、2012年8月にレスター市で発見され翌年2月にDNA鑑定の結果リチャード三世の骨と判定された骨には、脊柱の強い弯曲が認められる」(河合祥一郎『あらすじで読むシェイクスピア全作品』p176)
RichardⅡ
歴史劇であるが同時に悲劇でもある。この作品はバラ戦争の主原因となったRichardⅡの退位をめぐる事情(1398-1400)を扱った作品である。Shakespeareは劇構成の都合から歴史上の事実に多少の変更を加え、またRichard王の性格にも適当な粉飾をほどこしている。この作品においては、Shakespeareは主人公のRichardとその対抗者ともいうべきHenry Bolingbrokeの中に二人の対照的な統治者の姿を認め、この両者を意識的に対抗させている。両者は性格上も、統治者としての資質の面からも比較され、劇全体が二人の劇的対照の上に構成さているからである。
E.M.W.Tillyardが指摘するように、二人の人物が二つの相対立する生活様式を象徴していることは確かである。すなわち、Richardni関しては彼が中世のプランタジネット王朝の最後の君主として、崩壊しつつある中世社会を象徴し、一方Bolingbrokeはそれに対立する新しい生活様式を象徴しているのである。Richard王が神授権を有する合法的は君主のみならず、王権に関するチューダー王朝の政治的原則を代弁するものであることは、彼が度々「太陽」にたとえられていることからも明らかである。これは当時のエリザベス朝人が中世から継承した世界観であった。すなわち、宇宙には秩序があるとする世界観である。宇宙には神の主宰する大秩序があり、人間界には国王を頭首とする秩序があり、更に動物界、植物界にもそれぞれの秩序があって、それ等の秩序が相互に連関しながら大きい一つの組織を構成しているのである。もしこの秩序が覆されるならば、どのような災禍が、またどのような暗黒の混沌が襲ってくるかも知れない。それが当時の人々の伝統的な宇宙観であり、世界観であり、また政治的哲学でもあった[2]。
この作品におけるRichardは優柔不断で自己中心的な人間、すこぶる偏狭な人物として描かれている。一方Bolingbrokeは王に欠けている統治者としての優れた資質を備えた政治家であり、現実主義者である。彼はRichard王を退位させることによって自ら王位につきHenryⅣとなる。Bolingbrokeは偉大な政治家ではあったが、Richardを退位させ排斥したことで致命的な罪を犯したのである。ひとたば強者が神権を有する者の王座を奪えば、あとには混沌とした無秩序が襲ってくる。エリザベス朝人が恐れていたのはまさにこうした危険であり、彼等は王位簒奪という行為を諸悪の根源と考えていたのである。Shakespeare自身彼の犯した罪を許してはいない。しかし、一方彼の政治家としての卓越した能力をも無視できなかったのである。HenryⅣ第2部でShakespeareはHenry自身にRichard王から王位を継承したときの彼自身の心境を語らせている(HenryⅣ、PartⅡ、Ⅲ.ⅰ.69-74)。
ここでHenryは王位簒奪が主たる意図ではなく、政治家としてあえてその罪を犯さざるを得なかったその必然性を訴えている。ShakespeareがBolingbrokeの政治家としての優れた資質、卓越した職能を無視できなかったことを物語るものではなかろうか。
その結果として中世最後の王としてのRichard王個人の受難の劇であるという印象を受ける。Bolingbrokeという一人の簒奪者によってではなく、むしろRichard王自身の個人的欠陥、神授権を持った正当なる王としての資質の欠如から生じた個人的受難である。注目すべきは没落しているRichard王を描写する作者の筆致が次第に同情的色彩を帯びてくることである。後半に至っては、それまで優柔不断で女性的あった性格が次第に男性的で直截な性格に変わり、また彼の人間性が比較的明瞭な形で提示されるようになる。王権を離れた一個の人間としてのRichardにShakespeareは深く心を動かされたのかも知れない。その同情は究極的に国王の人間性と統治者としての資質の間に存する両立し難い矛盾をShakespeareが痛切に感じていたことを示唆するものであり、それはまた極めて漠然とした形ではあるが、彼が王権の価値をその王たる人間の資質に求めていたことを意味するものではなかろうか。ある意味でRichardⅡに始まるShakespeareの一連の歴史劇は国王の職能と、その地位にある人間との完全な調和への模索をその主要なテーマとしているといえよう。いずれにしてもRichardⅡはShakespeare が克明に描いた優れた人間像の一人であり、また恐らくは悲劇の主人公としても最初のものであろう。そしてShakespeareの次第に深まっていく人間性探求は、彼の初期の歴史劇の際立った特質をなすものであった。
[2] チューダー朝神話:優れたシェイクスピア学者であったE.M.W.Tillyardは、その"Shakespeare's History Plays"『シェイクスピアの歴史劇』(1944)において、Shakespeareの史劇、特に『リチャード二世』から『リチャード三世』に至る連続した時代を背景とする8篇の作品において、一つの明確な歴史観が貫かれていると分析している。それはホールの歴史書にうかがえる、一種の「因果関係・摂理」による歴史のとらえ方である。いわく、「秩序が乱されることによって偉大なるものは衰え没落し、同じように秩序が回復されることによって偉大なるものは再生し繁栄する」。ホールはこれを、当時の王家(チューダー朝)の正当性を確かにするものとして提出したらしい。権力者にとって都合の良い考え方に合わせて歴史が書かれるということは、古今東西を問わない。一般に「チューダー朝神話」とも呼ばれる。(神澤和明)
本論稿は、池上忠弘、石川実、黒川高志、金原正彦共著『シェイクスピア研究』(慶應義塾大学出版会)の大要をまとめたものです。私自身の学習を目的としたものですので、論文・レポートなどでの本文からの引用はお控えください。