八月五日、五時十八分。
東の空に立ちこめた雲の一群が橙の色に染まりだした瞬間、海面がまるで遠い町並みの灯りを思わせるかのように光り出した。まもなくすると北東の空にも赤の帯がかかった。
水平線はライトブルーのラインで引かれ、線上は湯気がたちこめたように白くぼんやりとしている。そんななかで、帯状の光だけが潮に流されたかのように対岸に向かって動き出した。すると、まるで溶岩が溶けたようにどろんとした塊が、みかん色の強い光線を放ちながら東の空の一点をつき破るかのように姿を見せた。小さな点が形をつくり、そして半球と一気に育つのだった。
たったいま、いのちを授かったように、まわりの赤の帯を消して、その光は上へ上へと上昇する。太陽だ。その中心が黒く見えるのは雲がかかっているのだろうか、それとも黒点なのかどうかはわからない。
太陽は海から浮き出ると意志を抱き空へ発つ。まわりの光をのみこむと、足摺岬の海を照らした。静かな海の朝を感じながら、断崖にちかづき下に視線を移すと怒濤がしぶきをあげる荒々しい海だ。
一人の学生が孤独のなかで「一途に死にたい思いに誘われつづけ……ふらふらと死場所にえらんだ足摺岬に辿りついていた」。しかし、岬に降りつづけるよこなぐりの雨に、死ぬ機会を失う―十代の時に田宮虎彦の「足摺岬」を読んだ。小説を読んで、足摺岬に必ず行こうと決めていたことが達成することができた。
灯台近くに「足摺岬/田宮虎彦先生文学碑」があり「砕け散る荒波の飛沫が/岩肌の巨巌いちめんに/雨のように降りそそいでいた」との一文が彫ってあった。田宮は、「足摺岬その他について」のなかで「この時代の背景は、私自身が青年時代に体験したものと同じものであり、太平洋戦争前夜の異常な時期であった。(略)青年たちの具体像をとおして、あの異常な時期をも書き残したいと思った」と述べている。
短い旅ながら土地の人の話を伺うことができた。
土佐清水で出会った八〇歳になるという女性はこう語る。「足摺岬にはロマンがある。苦しいときに岬に立つと、自分の悩みが小さくなり、生きようとする希望がわくし、励まされてきた」。小説・「足摺岬」について質したが答えは得られなかったが、岬に住む五〇代の男性は「田宮虎彦はたいした作家だと思うが正直迷惑している」とこう語った。
「自殺者が出るとサイレンが二度なった。子どもの頃からそうだった。大人になってからは消防団の一員として何人もの遺体をロープで引き上げたことか。今は警察がクレーン車であげるから(かかわらなくて)良くなったが……。岬にはほとんど行かない。いろんな人の顔が思い出されて気分が悪い」。「最近自殺者が多い。先月は土地の人が死んだ。自殺しても新聞には出ない」。「前はあんたのように『足摺岬』を読んで、ここへ来たという人が多かったが、いまはほとんどいないな。」
彼と話した翌朝、岬の展望台から恋人岬(天狗の鼻)に行き、そこを引き返して灯台へ向かった。いくつかの石碑がある。そこから見る眺めはどこもすばらしい。「ここで身を投げたのだろうか」と思いつつ、僕は立入禁止区域に足を踏み入れていた。
「数十丈の断崖の下に逆巻く怒濤が白い飛沫を上げて打ちよせ、投身者の姿を二度と海面にみせぬという、いつか誰かに聞いた言葉が、私の心のどこかにきざみこまれていたのだろうか」
「足摺岬」の一文を思い出しながら、断崖の下を見ようとしたら、クマゼミが一斉に激しくなき出した。まるで「やめろ、やめろ」と言わんばかりに。たまらず僕は姿を隠すセミたちに「自殺しに来たんじゃないから安心しなよ」と言って後ずさりしたら、セミの鳴き声は通常にもどった。不気味に感じた僕はこの動作を繰り返した。やはりセミは鳴き、そして静かになった。これは決して誇張ではない。
足摺岬には四国霊所三八番札所の金剛福寺がある。そこではお遍路さんの姿に出会う一方で、大きなジョン万次郎の銅像の前では多くの若者の姿を見た。そこで「写真撮ってください」と二人の若者に声をかけられた。カメラの前で彼らは力こぶをつくった。「逞しく撮れたとおもうよ」と言ったら微笑みが返ってきた。僕にはそんな逞しさよりも、田宮虎彦が描いた、悩む学生の姿こそ、この岬にはふさわしいと思った。
(2000.9 記)