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『鏡王女物語』(八) 鏡王女 母となるー2


『鏡王女物語』(八) 鏡王女 母となるー2


この五年の間、百済の義慈王も、国内の治世に意を注がれたそうで、百済・日の本連合と新羅の間には小競り合いはありましたが、小康状態(しょうこうじょうたい 注818)を保った平和な、束(つか)の間(注819)であったにせよ、世に戻っていました。



 幸山(さちやま)大君も一貴(いき)皇子がなくなられた時の興奮も収まり、後の、政治・軍事の体制を整えられ、兄の玉島王も一廉(ひとかど 注820)の将軍位を承った、鬼太も徒兵頭(かちがしら 注821))に取りたてられた、とお父上からお聞きしました。
 新羅の方も戦争好きの王家で、ゴタゴタ続きでしたが、金春秋(きんしゅんじゅう 注822)という傑物が摂政となってから、落ち着いてきたそうです。

 その金宰相が幸山大君と話し合いをしたい、と言って来たけれど、一貴皇子の戦死の一件があるので、使者を追い返されたそうです。



 その話を鎌足どのが聞かれて、中大兄皇子と相談して、大君に「話を聞いてみても損はないでしょう、こちらも戦力を蓄える時間が必要ですから。もし何かあれば、その金春秋を質で押さえたら良いわけですから」と、了解をいただいて、金宰相を飛鳥に呼ばれることになったそうです。



お父上の言葉ですと、「中大兄の日本に追いつけ追い越せ策は実った」そうです。

 満矛大君さまの時代は、モロコシに追い付け追い越せと、学問僧を送って学ばせ、父上もその一人であったわけです。

 その後は、加羅の王家の争いに巻き込まれたというのか、出しゃばったというのか、その方面に力を注ぐ有様。というようなことを、鎌足どのは、金宰相の渡来話にかこつけて、珍しくわたくしに愚痴(ぐち)っぽくおっしゃいました。



 新羅の金宰相が飛鳥に来る話を聞かれて、父上の鏡王は、何も仰いませんでした。もう私の役目は終わったようだ、と安心されたのか、最近の不摂生(ふせっせい)がたたったのか、床に着かれることが多くなり、山城の里にお見えになることもなくなりました。



 「薬師(くすし 注823)の見立てでは胆(きも)の病ということで、牛黄(ごおう 注824)をお飲みになられていくらか顔色も良くなられた、のだけれど、ご飯は召し上がらずに、お酒ばかりで、日に日に痩せていっておられる」という与射女房(よさのにょうぼう)殿から連絡がありました。

 お見舞いに行かねば、と思っているところに、追っかけて、また、与射どのから「中大兄皇子様がお見舞いにくるとおっしゃっている」という連絡もありました。


久し振りに飛鳥に出かけることにし、もう数えの六歳になった定恵(じょうえ)も伴い、初お目見えもさせようかしら、と連れて行くことにしました。

 考えてみると、この五年間はまるでアワビのように、殻(から)に閉じこもって、定恵にへばりついて生きていたような気もします。


十勝村梨実のブログ -あわび あわび ノリキオ画


 久し振りに見る飛鳥のお父上の屋形は、苔むした庵(いおり)に似てきて、物寂(ものさび)しくさえ感じられました。昔、若公卿(わかくげ)たちが、集って放歌高吟(ほうかこうぎん 注825)した時代があったとはとても思えない趣です。

 父上は見る影もないほど面(おも)変わりされていて、私は、涙が出て止まらず、お父上の方が私を気遣ってくださいます。



 「心配するな、寿命は尽きる時に尽きる。幸い宇佐岐が帰って来てくれたのも、天の配剤(はいざい 注826)というものであろうて。中大兄殿もいろいろと気遣ってくれて、遠い国からの底野迦(テリアカ 注827))とかいう秘薬を届けてくれた。これを頂くと病気を忘れて、天人になったような心地がする。中大兄殿に頼んで今、墓を宇佐岐が工人頭となって造らせているところじゃ。大まか出来たら、蓮台(れんだい 注828)にでも乗せてもらって一度見に・・・」

 「何故又そのようなお墓を?」

 「知らぬかの?生前に墓を作るのは寿墓(じゅぼ)といって、造ることで長生きするという言い伝えがあるのじゃ」ということです。


           (つづく)


(注818)小康状態 いったん悪くなったものが、やや回復ぃて落ち着いている様子。


(注819)束の間 ほんの少しのあいだ。「束(つか)」は四本の指の幅の意味。


(注820)一廉 ひときわ優れていること。


(注821)徒兵頭 歩兵のかしらの意味で著者の造語。江戸時代には徒士頭の職があった。


(注822)金春秋 新羅の王族で、外交手腕にすぐれていた。のち第29代新羅王(在位654~661年)となる。三国を統一した王として評価されている。


(注823)薬師(くすし) お医者のこと。語源は仏教の薬師如来からきている。


(注824)牛黄 牛の胆石から製する漢方薬。強心・解熱・鎮静などの作用があるとされる。

(注825)放歌高吟 あたりを気にせず大声で歌うこと。

(注826)天の配剤 蟹さまは人々や物事を適切に配するものだ、という意味。

(注827)底野迦 シルクロードから三国時代の中国にもたらされたといわれる医薬品。アヘンが含まれていた、といわれる。

(注823)連台 二本の棒に板を渡し、その上に人を乗せる座席を設け、人力で担ぐ乗り物。












『鏡王女物語』(八)鏡王女 母となる -1

『鏡王女物語』(八)鏡王女 母となる -1


 やがて月が満ちて、ややこが生まれました。幸いお乳はたっぷりと出て、乳母も必要でなく、はしためが近づこうものなら、盗られるのではないか、と思ったり、ムツキ(注801)替えも自分でしようとして女中頭から窘(たしな)められたりもしました。


 天からの恵み、と思って「メグミと勝手に呼んでいましたら、鎌足どのが、鏡王殿に名付け親になっていただいた。名はサダメとメグミで定恵(じょうえ)ということになった」と仰いました。きっと私が恵みメグミと呼んでいるのをお聞きになって、お父上と相談されたのでしょう。


 それにしても、まだ当歳にもならぬミドリ児に定恵とは、と訝(いぶか)しく思いましたら、中大兄皇子殿のご意見で、僧籍に将来入れたい、その時は定恵(じょうけい)とのご沙汰だったそうです。 今の世は、明日の命も定まらぬ戦乱の世ですから、仏門に入るのもこれも定めかもしれないと思いました。


 鎌足殿にお願いして、都の匂いのしない、山城(やましろ 注802)の田舎に小屋を建てていただき、定恵と多賀に奴(やっこ)たち五人、の生活をさせていただくことになりました。

 子供は勝手に育つものか、と簡単に思っていたのですが、いざ生まれてきたら、可愛くて可愛くて、本当に目に入れても痛くない、という気持ちがよくわかりました。又、狼は子供を育てているときには、何が近づいても、たとえ父狼でも容赦なく噛み殺す、そうですが、そのような気持ちになっていたように思い出します。


 鎌足どのも政(まつ)り事でお忙しいのでしょう、滅多にはお見えになりません。まれに父上が訪れて頂くくらいが変化といえば変化です。

 多賀が飛鳥に出かけた折に、与射(よさ)女房から聞いた話では、父上は部屋に閉じこもって、書き物をしたりお酒を飲まれたりで、昼夜の区別もつかない生活をされている、ということでした。

 是非山科(やましな 注803)の里にお出かけになるよう伝えましたら、喜んでお出かけくださいました。


 少しお痩せにはなりましたが、昔と変わらぬ瀟洒(しょうしゃ 注804)な父上です。 それから三カ月に一度くらいは、お見えになるようになりました。

 しかし、私が定恵を他人に触らせたくないような様子を見て取られると、何もおっしゃらず、私たちを見守るかのように、穏やかにひと時ほど過ごされて帰っていかれます。


 和歌の道の修行も何処へやらに飛んで行き、定恵定恵であっという間に、三年の月日が流れました。

 定恵はわが子ながら賢い子供でした。足がシッカリしてくるころには、私も定恵定恵一筋に血道(ちみち 注805)が上った状態ではなくなり、お父上が足を組んで定恵を胡坐(あぐら)の中に入れ、千字本(せんじほん 注前出)などであやしますと、驚いたことにすぐ覚えてしまいました。

 お父上は、安児の子供の時以上だ、と仰って、いらっしゃるたびに、定恵に、私に教えて下さった時以上の熱心さで、五経(ごきょう 注806)を中心に教えてくださいます。

 また、定恵も難しい文言(もんごん 注807)を嫌がりもせず、おとなしく聞いているのにも驚かされました。


 お父上は時折、筑紫や加羅のお話をされることもありますが、殆どは和歌の選集のお話で、父上と大伴家基様とで、和歌集を選歌されていらっしゃるようです。最近は、戦いの歌や挽歌(ばんか 注808)が多い、と嘆いていらっしゃいます。

 どうやら宇佐岐(うさぎ)は、中大兄皇子にもお目見えして、その才能を認められたようです。中大兄皇子は、からくりとか細工とかがお好きなので、宇佐岐の向こうで得た智識を知りたかったからでしょう。

 飛鳥の都の話は、多賀が時折仕入れてきて話してくれます。

 

 額田王も中大兄皇子の元に入って三年も経ち、筑紫の朝廷のご意向で、王位を返すことになり、無冠位となられたとか。それでも、みなは額田王と呼び名していて、御殿内の歌人としての評判は、ますます高くなっているそうです。

 前にも言いましたように、額田王は、賢く立ち回っていましたが、蘇我大夫の孫娘の、御智(おち)姫(注809)が夫人として入内されてから、どうも大奥内では以前のようには、しっくりいかなくなったとか。 それで、中大兄皇子の弟御の大海人皇子が同情されている、と人口に膾炙(かいしゃ 注810)している、とか聞きました。


あかねさす 紫野行き標野(しめの)行き


野守(のもり)は見ずや 君が袖振る (注811




紫草(むらさき)の匂える妹を 憎くあらば


 人妻ゆゑに われ恋めやも (注812



 なかでも、この相聞歌(そうもんか)はちょっと歌いすぎではないか、と御智姫が柳眉(りゅうび 注813)を逆立(さかだ)てられ、「額田王」と、以後は呼ぶことはならぬ、「采女(うねめ 注814)」とせよ、と寶女王に、ねじこまれたそうです。


 御智姫の宥(なだ)め方に弱っていたところ、大海人皇子の方から、「兄殿のために働いている褒美(ほうび)を、おねだりしてよいか」と、采女の額田の所望(しょもう 注815)があったそうです。どうやら、機を見るに敏(びん)の額田王が、今ならチャンスとばかりに、大海人皇子に入れ知恵したものと私には思われます。


 ともかく、私の五年後に、同じように、ぬか姫も中大兄皇子の元から外に出ることになりました。これも何かの所縁(ゆかり)で結ばれているからなのでしょう。その後、御智姫もめでたく懐妊(かいにん)され、悋気(りんき 注816)も以前より収まり、月満ちて「ささら姫(注817)」を出産されました。


 その「ささら姫」は、後に大海人皇子のお妃になられるわけですが、まさかそのようなことになろうとは、お母様から教わった易占(ふとまに)の方術(ほうじゅつ)でも知ることはできませんでした。               


                  (つづく)



(注801)ムツキ 襁褓 大小便を洩らさないように腰の下に当てるおむつ、おしめ。


(注802)山城 現在の京都府中南部にあった国。ヤマシロの語源は、大和(ヤマト)の背(ウシロ)の国で「ヤマシロ」といわれます。


(注803)山科 京都と大津の間にある地名。現在の京都市山科区。


(注804)瀟洒 あか抜けしておしゃれ。


(注805)血道 出産前後や月経・閉経時に表われる頭痛・めまい・悪寒などの症状。


(注806)五経 儒教の易経・書経・毛詩・礼記・春秋という基本的な五つの経典のこと。


(注807)文言 一般の言葉とかけ離れた文章用語。


(注808)挽歌 もともとは使者の棺の車を引く時に歌う歌。転じて、使者を悼む詩歌をいう。


(注809)御智姫 中大兄夫人として蘇我遠智媛の名が日本書紀にあります。

(注810)人口に膾炙 人々によく知れ渡っていること。「膾炙」は「なます」と「あぶり肉」でどちらもおいしく人の口に合うことから生まれた言葉。


(注811)あかねさす紫野行き の歌 これは、万葉集巻一第二〇番に出ている、天智天皇一行が蒲生野に遊んだ時に、という前書きの後にこの歌と次の二首が載っている。大海人皇子に額田王が詠んだ大胆で有名な歌です。


(注812)紫草の匂える妹を の歌 この歌は、万葉集巻一第二一番 前掲の歌の返歌で、大海人皇子が額田王に返した歌。男女間の交際がおおらかな時代の歌の典型とされます。どちらもそのまま使わせてもらいました。


(注813)柳眉 柳の葉のような美しい眉。


(注814)采女 宮廷の下級の女官。


(注815)所望 物が欲しい、こうしてほしい、と望むこと。


(注816)悋気 男女間の女のやきもち、嫉妬(しっと)。


(注817)ささら姫 のちの持統天皇。諱(いみな)は鸕野讃良(うののささら)と日本書紀にある。




                 







『鏡王女物語』(七) 中大兄皇子、そして鎌足のもとへー3

『鏡王女物語』(七) 中大兄皇子、そして鎌足のもとへー3


これからお話しするのは、後々、わが夫鎌足どのからお聞きしたことです。


 「後宮に入れたをなごが、他所の種を宿していた、それもやんごとなき(注715)一貴皇子の種を、となれば、それこそ飛鳥雀のさえずりも、ひと際騒がしいものになるだろう。また、筑紫との関係もこじらせるわけにもいかぬしな。どのように始末をつけるか、本当にあの時は頭を抱えたぞ」、と、仰いました。


 「このようなことで収められないでしょうか」、と、鎌足どのは、中大兄皇子に申し上げたそうです。ここは一つ、寶女王様に一役買っていただくことで如何でしょうか」と。

 「具体的には、どういう方策があるのか」と、皇子がお聞きになられ、「寶女王様に、三輪明神(みわみょうじん 注716)の夢のお告げがあった。陰陽師(おんみょうじ 注717)の夢占いで、このたびの妻問いはなかったことにしなければ、災いが、うがや一統全体に及ぶ、という筋では如何?」と、鎌足どのが考えたところを申し上げたそうです。


 「ふむ。だが、筑紫に返すわけにも行くまい。もう一工夫必要だろう。」と、仰って、言葉を継がれたそうです。

 「おおそうだ。汝の妻人が半年前に難産の末、亡くなったという不幸があったな。まだ嫡子(ちゃくし 注718)も出来ずにいる、鎌足が私、中大兄に、御殿の女性のどなたか是非わが元へ、と願出でたことにしようぞ。うむ、これは良い、これは良い、鎌足、異存はなかろうな!」と、話は進められたそうです。


 時々、妹分の額田王のところに遊びに見える、「鏡王女の安児姫」の才色兼備ぶりは有名だったと、多賀が後々まで言いました。その王女が、中大兄皇子の後宮(おおおく)に入られた、と聞いてがっかりした大宮人(おおみやびと 注719)も多かったし、それを下賜された鎌足はなんという果報者よ、と評判になったことなども、後で多賀が教えてくれました。

流石の知恵者の父上も、今回は、「もしや、と、思わぬでもなかったが、所詮(しょせん 注720)男の見る目で、女子の微妙な体の変化までは見とれなかった、申し訳ない、逆に中大兄殿に借りができた。」と、中大兄王子と鎌足どのに頭を下げられたそうです。




十勝村梨実のブログ -花嫁姿 花嫁姿 ノリキオ画


 早速、飛鳥の鎌足どのの屋敷では、盛大な宴が開かれました。屋敷に父上のお話を聴講に見えていた、若公卿衆も大勢見えられ、冷やかしともお祝いともつかぬ言葉を掛けていただいたりで、騒々しいかぎりでした。


鎌足どのは、一人ではしゃいで、みなさんにお酒を勧められ、ご自分でも何度も同じ歌を歌って、嬉しさを皆に示しました。その歌は丸で、子供が欲しい玩具(おもちゃ)を手に入れた、というような、あからさまな歓喜(よろこび)の歌でした。


  われはもや 安み児得たり みな人の 

   

         得難(えかて)にすとふ 安み児得たり (注718



 お酒の匂いを嗅ぐのもいやで、気分優れぬと一通りのお目通りを済ませて、座を引かせていただき、閨にこもっていますと、多賀が気分は如何と部屋に来ました。 本当に多賀の顔をみるだけで、ほっとさせられました。


 多賀が四方山話のついで、という感じで思いがけない、宇佐岐(うさぎ)の話をしてくれました。

 百済での仕事も一段落して故国に帰ってきて、鏡のお殿様にお会いしたいと、飛鳥へ下ってきたそうです。父上はお喜びになられ、屋敷に二人を留め置かれて、毎日のようにあちらの国のお話を聞き穿じっていらっしゃる、と話してくれました。


 「二人?」と聞き返しますと、彼の国で良き女性に出会った、と、嫁を連れてきました。」

 「どんなひと?」

 「宇佐岐には勿体ないほど可愛らしいひとです。」

 「どんな感じのひと?」と、重ねてききますと、

 「昔の、まだお化粧も知らないころの、安児姫みたいな。」


 もっともっと話を聞きたかったのですが、宴も終わったようで、鎌足どのが見えました。

 先ほどまでの酒宴のときの状態でなく、きちっと相対されると、頭を下げられ次のようなことを仰られました。

 「安児どの、この度の一貴様のご不幸お悔やみ申し上げます。ゆっくりとお話できませんでしたが、此度の無礼千万な振舞いよう、なにとぞお許しあれ。中大兄殿、鏡王殿が、これが一番の上策、とされ、私めが舞台に上って、ひとさし舞う役をおおせつかった次第。ともかく、今は、御腹のやや児の無事出生を第一に念じられることが、一貴様への良い供養になることでしょう。 一応世の中の雀共の目を逸らすにも、夫婦の形は整えておかなくてはなりませぬ。そこのところを無礼と思われませぬよう、御心得おきくだされ。」


 「何を仰せです。私は中大兄どの後宮に一度入った女です。本来なら、身籠りを隠していたと、成敗されても致し方ない身です。思いがけなく、鎌足さまに拾い上げられ、やや児も産めと仰せられる、この上の幸せはございません。」

 

 薄暗い閨のともし火の中で、鎌足どのは「では大事にされよ。」と、言い置かれて、すっと出て行かれました。いましばし、ゆっくりとお話をしていただきたい気持ちでしたのに、・・・。 寝間の褥(しとね 注721)に包まれて、鏡の里で忘れ貝をくれた宇佐岐や、七山での一貴皇子との出会い、父上の肩車の上での鎌足どのとの出会いなど昔のことを、終夜燈が、丸で走馬灯のように、影を浮かび上げてくれるのを感じながら、眠りに落ちました。


                 (つづく)



(注715)やんごとなき  身分や家柄の高い・高貴な・貴重な


(注716)三輪明神 奈良県桜井市の三輪山のふもとの大神神社の主神 大物主大神のこと。


(注717)陰陽師 陰陽道という方法を用い、全ての吉凶を占う宗教家。律令に定められた官僚でもありました。


(注718)嫡子 正妻の長子のこと。


(注719)大宮人 宮中に仕える人。


(注720)所詮 結局は、の意味。


(注721)安み児得たり の歌 この歌は、藤原鎌足が中大兄皇子から妻を下賜された喜びを歌った、とされます。万葉集巻二第九五番にあります。意味は、「私はやっとヤスコを自分の物にできた。みんながとても得がたいと言うあのヤスコをだぞ。」です。


(注722)褥 柔らかい敷物・寝具。