十勝村梨実のブログ  -8ページ目

『鏡王女物語』 (六) 飛鳥の都 一貴王子との別れー2

『鏡王女物語』 (六) 飛鳥の都 一貴王子との別れー2


多賀が教えてくれるところでは、舒明天皇は、このところご病気がちで、外出もままならぬご様子とのことでした。



しばらくたって、知り合いの御殿の女中頭から聞いてきた、と、額田王のその後の様子を教えてくれました。額田王が出仕してからは、舒明天皇さまは、筑紫の話、大和までの道中の話、和歌の話、と、額田王がいないと日も暮れないといった感じだったそうです。



それもしばらくの間で、ご病気が進み、欽明天皇のお相手より、中大兄皇子や、時には海人皇子の、お話のお相手をすることの方が多くなったようです。



中大兄皇子は、舒明天皇の嫡男ではありませんので、後継ぎはどうなることか、と都雀の噂がかまびすしいものがあるそうです。元の名、葛城王子は、そのような噂に巻き込まれるのを嫌がり、嫡男ではありませんよ、と強調するように、呼び名を「中大兄皇子」とされたわけです。弟君も、「じゃあ、僕も変えよう、同じく大をいれよう、」と、大海人皇子とされたそうです。

ところである日のこと、屋形に中大兄皇子が見えました。名目は、鏡王が、筑紫の珍しい品をお持ちと聞いたので、見せて欲しいとのことであったそうです。由緒ある鏡や矛などを、ご覧になっていらっしゃったようですが、その中でも筑紫琴(注606)に目をとめられたそうです。

どのように弾ずるのか、など詳しく父上に聞かれていました。「久し振りにわが亡き妻、息長を偲ぶとしよう」、と父上は仰られて、琴を爪弾かれ、お歌いになられました。



琴取れば 嘆き先立つ けだしくも 



琴の下びに 妻や籠もれる。(注607



十勝村梨実のブログ -筑紫琴 筑紫琴 ノリキオ画


また、唐国から伝わった時計(ときばかり 注608)の絵図も、興味深くご覧になっておられたそうです。欲しそうな思いがお顔に出ていた、と後で父上は苦笑いされていました。大和で世話になる身故、手土産として差し上げた、とも仰っていました。

 父上は、日を定めて舒明天皇一統の方々に、この国の成り立ちやら、国を治める方策、都の測量・縄張り、水漏れせぬ築堤、星占い、和歌の道などを屋敷で講話されることになりました。
その屋敷でのお父様の講話の折、時に私も手伝いにお呼びになられます。特に和歌のお話しの時には、「安児、こういう情景の時、どのように詠むか」とご質問があります。

一生懸命考えていると、講話を受けている公達は、自分たちは考えないで、私の考えている姿ばかりを注目しているように感じられて、面映(おもはゆ)い感じもしました。「額田王の次、誰が鏡王女を妻問いするのだろうか」という噂が、飛鳥では高くなっていると、心配して、鏡のお殿様に何度もご注進申し上げた、と後で多賀が話してくれました。


「中大兄皇子はからくりが好きじゃ、おまけに負けぬ気も強い」と、父上はそうも仰っていました。額田王が宿下がりで屋形に見えた折、「中大兄皇子が早速、琴も筑紫に負けぬものを、時計も唐国に負けぬものを、と工匠頭(たくみがしら)に命じられた」と、話してくれました。

しばらく経って寶女王から、「中大兄が大和琴を作ったので、是非鏡王殿にお越しいただきご覧に入れたい」、と、使いがあり、出かけられました。

お帰りになってのお話では、「負けぬ気が良く現れた琴、であった」そうです。弦を増やし、胴も長さも一回り大きく、綺麗な蒔絵(まきえ  注609)が施してあったそうです。しかし、本当のお話は、琴にコトよせて、と駄洒落ではなく、別の話だったそうです。

寶女王のお話は、「額田王を中大兄夫人に」、ということだった、そうです。つまり、鏡王の養女額田王を、中大兄皇子の正夫人として迎えたい、という話であったそうです。父上は、それは喜ばしいこと、とご返事されたそうです。

ご婚儀は舒明天皇のご病気中でもあり、ごく内輪でなされ、父上も「もう、そちらに差し上げた姫なのですから」とご列席になられませんでした。こちらはこちらで、忙しい毎日が続いていたこともあったのですが、お父上は、額田王が中大兄皇子のものになることを、見たくないお気持ちも少しあったのではないか、など思ったりもしました。


         (つづく)


(注606)筑紫琴 福岡の沖の島遺跡から雛形が出土しています。正倉院に保存されているそうです。5弦が特色で『隋書』俀国に五弦の琴あり、とあるのに符合します。


(注607)筑紫琴の歌 この歌は、万葉集巻七第一一二九 作者不詳 ほぼそのまま借用 意味は 琴を手に取ると、嘆きが先にたつ  おそらく、琴の表の下の胴の中に亡き妻が隠れているのだろう


(注608)時計(ときばかり)天智天皇が水時計(漏刻)を作った、と日本書紀にある。容器に水が流入・流出し、その水面の高さの変化で時刻を知る仕組み。奈良飛鳥寺近くの水落遺跡がその遺構といわれる。


(注609)蒔絵 うるし塗の技法の一つ。漆が生乾きのうちに金粉や銀粉を蒔くやりかた。

















『鏡王女物語』 (六) 飛鳥の都 一貴王子との別れー1

『鏡王女物語』 (六) 飛鳥の都 一貴王子との別れー1


住吉の津に着き、そこから輿に乗って、陸路を大和の都に向かいました。アバケが先触れで歩き、道案内と大きな声で何度も聞き返したりしています。



「まるで外っ国(とつくに)に来たみたいで言葉がわからん」父上の話では、ここは田舎だからで、都に行けば、言葉は筑紫とそう違いはない、ということで安心しました。和歌も、使う言葉は全く同じといって良いそうですから、言葉が分からない時には和歌問答をすれば良いのじゃ、など笑っておっしゃいます。

大和の都、飛鳥に着きましたが、太宰府とは随分違う趣(おもむき)です。舒明天皇のお宮も、甍(いらか 注601)ではなく板で葺いてあります。緑の苔も生えていて、それなりに趣きは感じられますが、瓦屋根を見慣れた目には、少し重みが薄いと思いました。



けれど、思ったことをすぐ口に出すのははしたない事、という父上の戒めを思い出し口には出しませんでした。

額田王はこっそりと、「なにか田舎に来たみたい、御笠(みかさ)が懐かしい」、と、私にささやきました。



父上に瓦屋根のことをお聞きしました。「瓦で葺く方が火事にも強いのだが、それだけ費(つい)えも嵩(かさ)む。御笠では瓦を焼く窯(かま)も沢山あり、お宮や御殿は瓦が普通となっていて、ほれ、鬼瓦という魔よけの瓦を載せることまで流行りだしたりしている。

最近になって、段々と豪奢(ごうしゃ)なものになってきて、幸山(さちやま)大君も禁止令を出されているのだが、”これだけは例外に”と願い出てくるのが多くてなかなか止まらない。」



十勝村梨実のブログ -ノリキオデザイン鬼瓦 ノリキオデザイン鬼瓦

そして、言葉を継がれておっしゃいました。「大和の国々は、死後の世界のお墓の方に注力してきたので、街つくりには日本に遅れているが、お墓の方はなかなか立派なものだ。鬼瓦と同じように、段々と豪勢なお墓造りが流行したが、これも舒明殿以降、薄葬令(はくそうれい 注602)を守るようになられて、いわば無駄な費えも減ったにや聞く。

そのうちに連れていって、見せてあげよう。」



何にしても、しばらくは夢に出てくる御笠の都が懐かしく、次のような歌が自然とこぼれて来たものです。



朝(あさ)な朝(さ)な 筑紫の方(かた)を 出で見つつ


         哭(ね)のみそわが泣く いたもすべ無み(注603



額田王(ぬかだのひめみこ)は大和についてすぐ、予定されていたように、舒明天皇の御殿に出仕することになりました。

父上は、「ここの者たちを、田舎者と思う心は、なくすように。それさえ守れば、御身〈おんみ〉の立振舞を目にすれば、この国の男どもはみなひれ伏すのではないかな。妻問い(注604)にくる男には、充分注意して吟味(ぎんみ 注605)するのじゃぞ」と、軽口のようにおっしゃいながらも、目には涙が光っているのが見え、妬ましく思う自分が恥ずかしく思われました。



「お言いつけ胸に刻み込みます。長い間有難うございました」と、しおらしく、額田王も涙ぐんで、お迎えの輿(こし)に乗って、舒明天皇の御殿に向かいました。



私は、昨夜、額田王が私のところにお別れを、と言って寝間にきました折の、思いがけない出来事の驚きがまだ残っていて、何もお別れらしい言葉も掛けられませんでした。お話するには、あまりにも恥ずかしいので、これ以上のお話は止めておきます。ただ愛しい妹という気持ちは、より以上のものになった、ということだけは言えますが。


    (つづく)


(注601)甍  瓦(かわら)のこと。



(注602)薄葬令 身分に応じて墳墓の規模などを制限した勅令



(注603)朝な朝な の歌 この歌は、万葉集巻十一第三二一八番 作者不詳 ほぼそのまま借用 意味は ”毎朝家を出て筑紫の方角を眺めては、どうしようもなく私は泣きに泣きます”です。



(注604)妻問い 女性に妻になってくれと非公式にやってくること。



(注605)吟味 調べること。




『鏡王女物語』(五) 風雲急・大和へー6


『鏡王女物語』(五) 風雲急・大和へー6



明石の浦から船旅最後の港の住吉までは本当に鏡の上を滑るかのような穏やかな海でした。 住吉の津には社が祭ってあり、筑紫の住吉宮を分社して祭られたそうです。



「同じ名前なのは懐かしい」と、独り言を言いましたら、父上がこのように教えてくださいました。



「住吉だけではない、沢山の山や川など、筑紫と同じ名前があるのを知って驚くことじゃろう。春日、み笠、平群、山門、飛鳥・・・と数え切れぬほどじゃ。と申すのも、舒明天皇の曾祖父に当たるお方が、事情あって筑紫で育たれた。大和に帰られて、一統の長(おさ)になられたわけだが、昔を懐かしみ名前を筑紫風にかえられたというわけじゃ。われらが住まう大和の都も、名は、飛鳥という。安児も知ってのように、朝倉の宮の近くに飛鳥という地がある。(注521)」


「名前を変えられたその土地の人々は、悲しんだことでしょう。」

「そう、一方の喜びは、他方の悲しみじゃ。安児は、松浦の鏡の里の名前は、出雲に由来(ゆらい)している、ということを聞いたときはどうじゃったな?」



そう言われてみますと、確かにそのときには鏡の里の人々が、今まで親しんできた土地の名を、勝手に鏡と変えられたときの、人の気持ちのことまでは、考えが及びませんでした。なんとなく、世の中は難しく、いろんなことが絡(から)み合っていることは分かりましたが。

この半月あまりの旅で、今までにないほど父上と一緒に過ごさせていただきました。和歌についても、ぬか姫ともどもいろいろと教えていただきました。

時々、父上がぬか姫の方に力を入れて教えてあげているように思えるときもあり、そのように感じる自分がちょっと情けなく思ったりしたこともありました。



先日も、私たち二人に、「二人ともよく勉強しているな。もう二人ともこっそりと、恋の歌の勉強もしていることと睨んでいるがどうじゃな。さて、長い旅の徒然にお前たちに問題を出そう。そうだな、若き、やんごとなき御曹司(おんぞうし 注522)の訪れを待つ乙女心、を歌にしてみよ。まず、額田が先じゃ、そして、安児がその歌に返す、という趣向じゃ。よいな。」と、お言いつけになりました。


次の朝、額田王が、「では一首仕(つかまつ)ります」、と低い声で、次のように詠みました。



君待つと あが恋ひおれば  


     わが宿の 簾(すだれ)動かし 秋の風吹く(注523



父上の顔が、紅潮というのはこのようなことか、と教えてくれるように、お顔に朱が差してきました。「う~む。見事じゃ。大君が”王(ひめみこ)の位”に取り立てたのは、眼狂いではなかったということか、見事見事。」



「さて、安児もお返しをせねばならぬが、・・・」と、大丈夫かな?というような感じの父上の物言いです。母上から教わったように、うろたえないための呪文を心の奥底で唱え、深く静かに大きく息をついて、「しばしのご猶予(ゆうよ)を」とだけ口に出し、瞑目(めいもく)して考えをまとめました。



額田王の詠んだ歌の光景を思い浮かべ、部屋の簾を通り抜ける風の気配(けはい)などが心に入るまでに、どれくらいたったのか分かりませんが、思いがけなくすら~と三十一文字が出てきました。



風をだに 恋ふるはともし 風をだに 



来むとし待たば 何か嘆かむ(注524



「いや~。お前達二人には恐れ入った。額田も舒明殿のところに、いずれ出仕(しゅっし 注525)せねばなるまいが、これなら心配いらぬ。いや心配かな。大和の男共が驚くのが、目に見えるようじゃて。」と、大仰(おおぎょう 注526)に褒めて頂きました。


         (つづく)


(注521)朝倉の飛鳥 福岡県小郡市に「飛島」という小字名が残り明治以前は「飛鳥(ヒチャウ)」と呼ばれていた。その飛鳥は飛び立つ鳥の形をした池であり、近くには明日香皇子を祭神とした神社もある。


(注522)御曹司 曹司とは元々古代官庁に付属した部屋の意味であり、そこに住む貴族の子供を御曹司と読んだことに始まる。現代では、有力者の息子、特に二代目となる息子をいう。


(注523)君待つと の歌 この歌は、万葉集巻 額田王の歌そのまま 意味は ”あなたが私の部屋に来るというので、今か今かと、静かに待ってるのにあなたはなかなか来ない。あなたが来ずにただ秋風だけがスダレを揺らして来てくれている”です。


(注524)風をだに の歌 この歌も、万葉集巻 鏡王女の歌そのまま 意味は ”風を恋しいと思うとは羨ましいものです。風を恋しいと待つ心を持てるならば 何で嘆く事がありましょう 私にはそういう心さえ持てないのですから”です。


(注525)出仕 官庁に勤めること。


(注526)大仰 おおげさ。