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『鏡王女物語』 (五) 風雲急・大和へー2

『鏡王女物語』 (五) 風雲急・大和へー2


ある日、松浦から玉島兄が、ご機嫌伺(きげんうかが)いに御所に出てきた、と云って三条の屋形に顔を見せに寄られました。久し振りに親子三人で、松浦の話をあれこれお聞きしました。

最近の変わった出来事の話の中に、“松浦沖の鷹島に船が流れ着いた出来事“の話しがありました。



「越の津を出て荒津に向かうところで、潮に流され松浦に来てしまった、というのだけれどどうも新羅か高麗に向かう途中であったようだ。小さな船で水手(かこ)三人と乗客が一名。荒津からどこに向かうのか聞いても答えませぬ。


少し手荒く責めましたら、何も答えないまま死んでしまいました。水手頭に改めて聞いたら、越の津から高麗へと命じられていたが、潮を読み間違えた、というので、唐津の水手頭に奴(やっこ)として使え、と墨を入れて下げ渡しました。


客が身につけているものは、銀銭銅銭の入った袋と手拭い、と暑さしのぎのカラスの羽根を細工した扇だけです。衣服や草鞋(わらじ)など調べましたが、なにも変ったところはありません。」


すると父上の顔が変ります。「その扇はどうしたのじゃ?」

「執事の玖珂男(くがお)が欲しがったのでくれてやったのですが、なにか?」

「ともかく、玖珂男めに持ってこさせるように」

 四日ほどの後、玖珂男が扇を持ってきます。「これは安児、他言無用だぞ」とおっしゃって、多賀に手伝わせて、まず炉の火を強くして土鍋に湯を沸かすようお言いつけになりました。

次に米の粉を水に溶いて黒い扇に塗られます。

お父上は、その扇を湯気にしばらく当てさせます。

するとどうでしょう、黒い羽の上に白い文字が浮かび上がってきたではありませんか。しばらくじっと何かお考えをされていました。


十勝村梨実のブログ -からす羽の扇 からす羽の扇 ノリキオ画


わたしがあまりにも怪訝そうな顔をしていたからでしょう、「安児、これはわしもはじめて見るが、話に聞く烏文(からすぶみ 注506)じゃ。この扇を水で洗って、何かの松浦への便で久我男に返すように」と、多賀にお言いつけになり、「玉島にも誰にも、この烏文のこと申すでないぞ。」と念を押されました。

 しばらくして、鎌足どのに、「ご用手空きの折にでも、百済のお土産話しを聞かせて欲しい」、と使者を出されましたが、烏文と関係があることかどうかわたくしには分かりませんでした。


三日の後、鎌足どのがお見えになりました。最初の内はお二人で、穏やかにお話になられていましたので、「百済の国のことなどの見聞のお話しだった、くらいのことしか分かりませんでした」、と湯茶の接待を指揮した多賀の話でした。


しかし、お酒が入りましたら声も自然高くなり、おおよそこんな事をと、多賀が教えてくれましたが、最後の鎌足どのの祝儀の話にはドキッとしました。


 父上がおっしゃるには、「どうやら大和の内の、いずれかの若頭一派が密かに高麗と密使をやり取りしているのは間違いない。たまたま、潮の加減で露見(ろけん)したが、このような連絡は以前からやっていることは間違いない。

他でもない鎌足殿に打ち明けるのだが、百済での唐軍船などの装備なども見てこられたであろうが、勇気だけではわが日本も危ない。

じゃが、そのまま意見を言上すれば、先だっての蹴鞠の折の鎌足殿の二の舞になる。何としてもこの日本を、戦火にまみれさせることは避けたい、と思うのだが。ともかく、舒明どのに気に入られたようだから、その懐に飛び込み、大きな意味でこの国の行く末を案じてもらいたい」


「いや、実はご報告なのですが、舒明天皇が、姪御を妻に貰い受けて欲しい、と仰られ、否応なしの進めようで、」と、鎌足どのが言われ、「さて、それは重畳、めでたしめでたし。じゃがこの話、だれぞやには聞かせたくないものじゃて。」

と、父上がおっしゃられたそうです。


「と、仰せられますと」と、鎌足どのがお聞きになられ、「ほれ、うちのの字じゃ」と、父上が返されたそうです。そして、そのあと、義慈王殿の末っ子の豊章王子が、質(むかはり)として日本へお見えになる、という話になったそうです。

こちらからも百済に出さねばならぬし、舒明天皇なり寶の女王が、こちらに来て陣を構えるのであれば、大和にも当方からもだれぞやを、と言ってきているらしい、なども、千切れ千切れにお話しになられていた、と多賀が心配そうに話してくれました。

その多賀の話を聞きながら、終夜燈のゆれる光の中で、鎌足どのの姿を見かけたように思いました。



かがり火の 光におどる 現身(うつしみ)の 



微笑む如き 面影ぞ見ゆ (注507


(つづく)



注506 烏文) 『日本書紀』敏達元年五月 の記事に「高麗からきた文が烏の羽に書いてあった。羽が黒いので字が読める人がいない。船史王辰爾(ふねのおびとおうじんに)が羽を米飯の蒸気にあて、絹布に押し付けるとその字を写し取ることができた、とあります。


注507 かがり火の 歌  元歌は、万葉集巻十一第2642番 詠み人知らず “燈(ともしび)の 影にかがよふ 現身(うつしみ)の 妹が笑まひし 面影に見ゆ”です。これを女性が詠んだ歌に変えてみたものです。

『鏡王女物語』 (五) 風雲急・大和へー1

 『鏡王女物語』 (五) 風雲急・大和へー1


早耳の額田王が聞き込んできました。百済の武大王が亡くなられて、義慈王が跡をお継ぎになる、というので唐国からも皇帝様からのご使者もみえる。

わが方も一貴皇太子がお祝いを述べに行かれるとか。

 お父上に確かめましたら、その噂は本当のようです。

「お祝いに行くだけでなく、お亡くなりになった武大王さまのお墓の手入れや、作りかけの弥勒寺とやらの造作で、わが国も応援の手を出すことになった。

軍兵や弓矢などだったら諸国に応援を頼めばなんとかなろうが、仏師をはじめ造作職やら瓦職、諸職の手集めに頭が痛い」、と、仰っていました。

 父上は、またこんなことも心配されていました。

「義慈王は、孔子様の教えが気に入って実践される真面目な良い大王だ。

特に親に対して孝を尽くされる。ただ、親の敵に対しては徹底的にやっつける、まあ、幸山大君と良く似た方だ。一貴皇子もウマは合うだろうしその意味では問題は無いだろうが・・・・」


 「なにかご心配が?」と、お聞きしましたら、
「今のところ新羅は、ごたごた続きで百済に押されているが、このままでは済むまい。新羅という国の人々は、力ずくでは治めきれないところ。随分昔、当時大倭国といったわが日本が、宋朝廷から、新羅の国を治める御璽(注501)を頂いたのだが、結局かの国の人々を治めきれなかった。」


 「なぜできなかったのですか?」
「力が強いということだけでは、人は心から信頼してくれない、そのあたりが不足していたということ。」
「義慈王さまが、孔子のお教えを守られたら、新羅の人々も治められるのでは?」
「そういけばよいのだが?言葉の取り方には、表裏があるものだて」

と、仰って、言葉を継がれます。


 「何はともあれ、此度は唐国の使者も見えるのだから、一貴殿も唐の軍船や供揃えを見ていろいろ考えることもあろう、百聞は一見に如(し)かず、だ。わしも昔、かの地で、弩(ど)というカラクリ仕掛けの大弓を見たときには驚き呆れたものだ。

此度は、鎌足どのも通詞も兼ねて同行ということだから、安心だ。」


 「ご無事でお帰りになれるのでしょうか」と、思わず口に出しますと、「おや、これはこれは、どちらの殿御をご心配か」
「まあいやなお父上」、と、顔が知らずに、火照(ほて)っていました。

 しばらくして、一貴皇子たち、百済へのお使者一行の歓送の宴が、改装がちょうど終わったばかりの、荒津の長柄宮(注502)で行われました。

御所から遠いし、夜宴になるというので、女抜きの宴であったそうで、随分と騒々しい宴だったそうです。


十勝村梨実のブログ -雲行き悪い月見 雲行き悪い月見 ノリキオ画


月見の宴という名目で行われたそうですが、生憎(あいにく)雲行きが慌しく、なんとなく、三条のお屋敷で見上げた月も心なしか常にないような感じでした。


宴席では、「義慈王様は二十人以上の子沢山のこと、あれなら他国へ人質に出す王子に困らない、わが幸山君も頑張っていただかなければ、」と無礼講をよいことに、大君さまお気に入りの智興(注503)様が、大はしゃぎであられたとか。


智興さまが、「下手だが一首」と



残(のこ)の浦(注504) 夕波小波 きらめきて 



財(たから)の国へ いざ罷(まか)りなむ(注505

 と、だみ声を張り上げて歌われ、みんなの喝采をお浴びになられたとか。




「あれも、てて親の亡くなったところを、おまいりしておく良い機会にありついたものだ」と、多賀は表面では強がりをいっていました。
しばらくして、多賀のところにも知らせてくれる人がいて、山鹿の工人にも徴用がかかり宇佐岐も海を渡ることになったそうです。




        (つづく)


注501)宋朝廷の御璽 宋書に倭の五王と云われる王たちが受けた数々の官職名が書かれています。都督、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王に任じられた、とあります。



注502)荒津の長柄宮 難波の長柄宮とも云われます。福岡市西区の愛宕神社あたりに存在した、とされます。


注503)智興 韓智興といい日本から唐への使節の一員と思われる。日本書紀が伝える伊吉連博徳書や中国の史書に名が見えるが、詳しいことは分っていない。筑紫の王朝が派遣したとする説が」有力です。



注504)残の浦 博多湾に浮かぶ残の島(のこのしま)まわりの海。


注505)残の浦 夕波小波 の歌 この擬似万葉調の歌の元歌は、歌謡曲 山上路夫作詞  平尾昌晃作曲 小柳ルミ子歌 で大ヒットした『瀬戸の花嫁』より想を得たものです。




『鏡王女物語』 (四) 額田王と共にー8 

第三十一回


『鏡王女物語』 (四) 額田王と共にー8 


三条のお屋敷に、ぬか姫じゃなかった、今では額田王となった妹と一緒に帰り、今度は本当の姉妹として過ごすことになりました。

御所と違って気楽に、お父上がお暇の折には和歌の手習い三昧の、和やかな日々が続きました。

 おんなの子には皆訪れるものが来ました。まず、年下の額田王、すぐにわたくしと、否応無く乙女になり、与射〈よさ〉女房があか飯を配りましたので、都ではちょっとした評判になったようです。

外に出るのには衣笠〈きぬがさ 注423〉を被るようになり、供を付けないといけないなど今までのように気ままな外出は許していただけなくなりました。

普段見ていると、前と変わらないお茶目な額田王です。しかし、額田王は前と違って、嬉しい時と悲しい時の現れ方が大きくなっていっているようでした。

あるとき、御所に一緒に出かけて時の出来事をお話ししましょう。

お客人の接待のお手伝いに上がるように達しがあり、多賀が私達を引き連れて御所の控えの間にて御用を務めることになりました。

近頃カラの国から渡来した茶の湯が客人に振舞われます。

額田王とわたしが、椀に入れてお持ちしますと、お付の方が受けてお匙で毒見をされて、初めてお客人がお飲みになられます。折角の湯加減がぬるくなってしまう、と多賀はぼやいていました。



「目を上げてはならぬぞ、つまずかないようにすり足で歩め」との指図でした。

その通りにしましたので、どのようなお方に茶の湯を差し上げたのかも知りませんでした。額田女房殿が、このような接待の席で異国の客人に見初められた、という前例がありますし、なるたけ顔を見られぬよう、そればかりに気を取られていて、終わってほっとしました。

しかし、額田王は違ったようです。「あの飛鳥の王子様は利発〈りはつ〉そうだ、安児姫が差し上げた寶〈たから〉女王さまは、あまりお元気がないようだ」、など云います。どうやら、おぐしの合間からちゃんと見ていらしたようで、驚きました。

またあるとき、「満矛〈みつほこ〉大君さまが、それぞれ位を決められて、位に合った冠を被るようになり、殿方の髪姿が昔とは随分ちがってきた」などと父上がお話しをされました。


すると額田王が、ちょっとの間に髪をみずらに編んで、「昔はこのように?」、

と顔を見せました。両耳脇にふっくらと髷〈まげ〉を結い、花簪〈かんざし〉が挿してあり、何とも云い表わしようのない美しい姿でした。「そのような姿二度としてはいけませぬ、女子が男のなりをすると災いを招く」と父上がおっしゃいました。


私は昔、息長〈おきなが〉女王といわれたお方は、韓〈から〉の国に男姿で出征された、とお聞きしているのにな、と思いましたが、口には出せませんでした。

先ほど言いましたように、 外出のさいには必ず男衆と共に出かけるよう注意を受けていました。牛車〈ぎっしゃ〉に乗るほどの距離でもないので、以前は、よほどの時でなければ歩いて御殿にも出向いていました。


最近は都も荒れてきて、野伏〈のぶせり 注424〉とやら山賤〈やまがつ 注425〉とやらの得体〈えたい〉の知れない奴輩〈やつばら〉が、明るい内から徘徊〈はいかい〉するようになり、お父上も男衆を増やされました。


松浦の玉島王に頼んで男手を集めようとされましたが、思うような手下が集まらず、多賀の伝手で当麻一党から五人ほどきてくれました。なんと久慈良との再会です。

久し振りにみる久慈良はいっぱしの若武者気取りです。しかし、久慈良は、顔を見ても目を背けてしまい、なぜか話したがりません。きっと恥ずかしいからだろう、と思いましたら、「当麻一統〈たいまいっとう〉は衆道〈しゅうどう 注426〉だから、兄貴分たちが怖いのだろう」、と額田王が教えてくれました。


彼女はどこでこんなことを覚えてくるのだろう、と不思議でした。しかし、わたしは額田王の気持ちは、本当はそのように、明るいものではないことを知っていました。それは、あるとき、彼女の和歌の下書きを見てしまったからです。


始まりの句、どうでもよいようになれ、という言葉で始まる歌など始めて知りました。



よしゑやし うら嘆げき居る ぬえ鳥の 



わが念(おも)へるを 告げる如くに(注427


お父上も額田王の気持ちの振れの大きいのを感じられたとみえ、そのようなぬか姫の気持ちを沈めようと思われてでしょう、私達によく仏様のお話をしてくださいました。

額田王のお父様がいらっしゃる、夕日が沈む西の浄土(じょうど)の方へ、次の歌のように二人でよくお祈りをしたものです。




心わび なじかは知らね 身に沁みて 



             入り日に山も 茜にぞ映ゆ(注428


十勝村梨実のブログ -夕日に祈る姉妹 「夕日に祈る姉妹」 ノリキオ画


                      (つづく)


注423)衣笠(きぬがさ) 身分の高い人にさしかける柄の長い絹の笠

注424)野伏(のぶせり) きまった住居がなく山野に野宿する者たち

注425)山賎(やまがつ) 山の中で生活している賎民

注426)衆道(しゅうどう) 「若衆道」(わかしゅどう)の略男性による同性愛・少年愛の名称および形態。

注428)心わび の歌 この擬似万葉調の歌の元歌は、文部省唱歌 ローレライ (なじかは知らねど心わびて・・・)の想を借用したものです。



注427)よしゑやし の歌 元歌は、万葉集巻十二第〇三一番 詠み人知らず (よしゑやし 直ならずとも ぬえ鳥の うら嘆け居りと告げむ子もがも)を借用し少し変えたものです。