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『鏡王女物語』(四) 額田王と共にー4

第二十七回


『鏡王女物語』(四) 額田王と共にー4


七夕の節句休みで、久し振りに宿下がりの時のことです。

最近、笹に短冊を掛けると願いが叶(かな)うとかで、恋心の和歌などに思いを託(たく)すことが都でははやっているそうです。


父上は、「そのようなことは世が厳しいからかえってはやるのだろうな。」とおっしゃって、この屋敷では七夕飾りは不要とおっしゃいます。

与射女房や多賀などと、久し振りに鏡の里から届いた長芋で作った、芋粥(いもがゆ)をいただこうとしているときに、突然のお客様です。

「断りも入れずにお訪ねして申し訳ない。」
「これはこれは鎌足どの。いやいやこちらも笹(ささ)の葉も酒(ささ)の相手もいず無聊(ぶりょう 注416)をかこっていたところ、こちらへどうぞどうぞ。これ与射の、酒の支度をお願いしますぞ。」
「いやいや、お構いなく、鏡どののお顔を拝見すれば気も落ち着くか、と参上した次第で申し訳ありません。」と、声は奥の間にと、遠ざかっていきました。

仕方なく、多賀を相手に芋粥をいただき、寝間に下がろうとした折でした。奥の間からお酒が入ったせいなのでしょうか、父上が珍しく声を高くしておっしゃったのが聞こえてきました。

「確かに、おのれの申すことが理に適っていよう。兵を引けば人々も楽になろう。しかし、われら天(あめ)一統は古(いにしえ)より大君がおっしゃることは神の声。たとえ青鷺(あおさぎ)を、鶴(つる)、と大君が言われたら、その鷺は、鶴ということになる。これが、天一統の下のわれらの運命(さだめ)というもの。」

「しかし、新羅がモロコシと組むと分かって勝てますか?」
「くどい、もう申すな。そのようなこと、滅多に他人に洩らすでないぞ。」あとは声も納まり、どうなることかとちょっと驚いた私でしたが、安心して休みました。

翌朝与射の女房が、「おととい、松浦から長芋と一緒に届いた姫様への小箱」と、言って渡してくれました。 包みを開くと、なにやら貝殻(かいがら)が沢山入っています。


女房が申すには「鏡の宇佐岐(うさぎ)なるものが、自分で拾って作った貝合わせだそうで、安児姫に届けて欲しいとのことです。あまりきれいとも見えず、捨てようかと思ったのですが。」と、言います。


折角遠路届けてくれたのだから、と受け取り、あとで貝を一つ一つ開いて見ますと、びっくりするのは、その内側の綺麗なことです。このようなきれいな絵の具を、宇佐岐はどうやって手に入れたのでしょうか。最近は百済からの渡来人(とらいじん)が多いと聞くので、おそらくその方面から、でありましょう。

昔もらった桜貝よりも、数段上手な絵でした。二十ほどの、ハマグリ貝の片方の内側に、いろいろときれいな花やら虫などの絵が書かれています。 ハマグリ貝は、皆同じようでも、一つ一つが少しずつ違っていて、きっちり合うのは一組きりありません。誰が一番早く合わせられるか、競うのが貝合わせです。

けれど、このように絵が描いてある、綺麗な貝合わせは、初めて目にします。 なぜか、アワビの貝も一つだけ混じっています。 アワビはハマグリよりも数段大きいので、そこの書かれている絵も飛びぬけて大きいのです。おまけに、その女の人の顔は、自分と似通っているようにも見え、なぜかドキドキッとしました。

あわびの貝は片方きりありません。いつぞやお父上から教わった歌を、思い出しました。

伊勢の海人の 朝な夕なに 潜(もぐる)るとう 

       あわびの貝の 片思いにて  (注417)    


十勝村梨実のブログ -貝合わせ 「貝合わせ」 ノリキオ画

             (つづく)


(注416)無聊 (ぶりょう)退屈・心が楽しまない・気が晴れないなどのこと及びその状態。


(注417)あわび貝の歌  元歌は、万葉集巻十一の「物に寄せて思いを述べた歌」の内の一首、第二七九八 番。作者は不明。

“伊勢の白水郎の朝な夕なに潜くとふ 鰒の貝の片思にして” のほぼそのまま使いました。


「白水郎」とは、中国白水地方の漁民を、「漁師の代名詞」として、古代より使われたそうです。「伊勢」は、この物語の場所、筑紫の志摩町に同地名があるので、そのまま使わせてもらいました。

『鏡王女物語』(四) 額田王と共にー3

第二十六回

『鏡王女物語』(四) 額田王と共にー3


その翌日のことでした。ぬか姫がお母様から聞いた、と云って、「大和のうがや一統の寳(たから)の女王さまが、近々筑紫に上ってみえる。なんでも大勢の兵士たちを引き連れてくるから、都も騒々しくなるだろう」、ということを教えてくれました。

なぜか不吉な予感がしました。多賀が教えてくれました。うがや一統というのは、大昔は天(あめ)の一統と同族だそうです。鵜屋不葺合命(うがやふきあえずのみこと)という将軍の息子達が、東の大和に根拠地を造ったそうです。今では、大和・河内・摂津・近江・山城と大きく勢力を伸ばしている一統だそうです。

大和の田村王の奥方さまは、寳(たから)の女王とまわりから呼ばれているそうです。田村王はのちに舒明(じょめい)天皇とおくり名されたので、舒明天皇で話を続けましょう。


舒明天皇との間に、王子や媛子(ひめみこ)を四人お産みになられた。 けれど、お体があまりお丈夫ではない舒明天皇のマツリゴトの手助けをされ、今では大和の実質的な差配(さはい)をされているそうです。

もう、四十を過ぎたおばあさんなのに元気が良い方だとか、気が強く男勝りで義理堅い、宝石や黄金つくりの飾り物が好きだし、食べるものにもうるさい方だ、とか、大奥では噂が噂を呼んで、まるで鬼子母神(きしもじん 注412)のような、というところまで話はどんどん進んでいっています。

お子様の王子たちも、親に似て利発(りはつ)で元気だそうです。 カラの国の戦の応援を、うがや一統に大君が頼まれたので、義理堅い寳女王さまは、いやがる
舒明天皇やその配下を押さえるためにも、自分も筑紫に上る、と仰っているそうです。

しかし、心配する 舒明天皇のまわりの人たちが、いろいろと大君さまに条件をつけているそうです。 二百艘もの戦船(いくさぶね)つくりで工匠(たくみ)たちは不足しているのに、寶女王の行宮(あんぐう 注413)築造で、朝倉あたりの人手はみな借り出されているそうです。

太宰府の御殿にある、泉水をめぐらした庭の評判を聞きつけた、蘇我大夫が、女王のために、夜須(やす 注414)の行宮にも欲しいと無理を言ったとか、かまびすしいことしきりのこのごろです。

いずれにしてもこのような準備に一年以上かかることでしょう、というのが多賀の見通しです。

ところで、御殿の奥は、女の人ばかりが住んでいます。めったなことでは、この大奥から出ることはありません。 そのめったにないことですが、お祐筆が病で臥(ふ)せっていたときに、御用が生じ、女房様から墨役(すみやく)に行くように言いつけられました。

墨を摺る役として、ということでした。以前、墨が手につくと、糠袋(ぬかぶくろ)でこすってもなかなか落ちないので、多賀に頼んで、竹を削って墨を挟むようにさせたら、うまく手が汚れないようになりました。女房様は、それをご存知だったようです。
控えの間で、墨を摺り、文机(ふづくえ)にまでお持ちしました。

それで帰ろうと目を上げますと、「そなたは、鏡の姫ではないか」と、声が聞こえました。 なんと一貴(いき)王子が、ご祐筆の代わりに筆を持っていらっしゃいます。びっくりして物も言えずにいますと、そこにお使者が入ってきて、控えの間に下がろうとしました。 何と、そのお使者までが、「そなたは、鏡の・・・」と、言います。 またもやびっくりして、お使者を見上げますと、都に来るときに、父上の肩に乗っていたところを見られた、あの中富(なかとみ)の若者ではありませんか。顔が自然と赤くなって、控えの間に下がりました。


大君が若い二人に、「おまえ達もなかなか隅にはおけんな。ヤスコ、あれはなかなかしっかりものだ。ただ言っておくが、赤めしはまだだからな。」などと、聞きたくもないお話をしばらくなさっていました。

大君が、「ではこの文を大和の 舒明天皇の元へ届けてくれ。あと一貴皇子、向こうの王子兄弟が下見に筑紫に上って来た時に、鎌足(かまたり)と相談してあれらの世話の件よしなに、頼んだぞ。」と、お話は終わったようでした。

この時の情景を、三十一文字におこしてみましたが、ちょっと照れくさくて、お父上にも、ぬか姫にも言えませんでした。

大君の 大奥の間を かしこみと 


      侍従(さぶら)ふ時に 逢える君かも(注415

       (つづく)

注412)鬼子母神 (きしもじん)毘沙門天の部下の武将夜叉王の妻で、五百人の子の母でありながら、常に他人の子を捕えて食べてしまうため、お釈迦様は彼女が最も愛していた末の子を隠して子を失う母親の苦しみを悟らせ、仏教に帰依させた、といわれます。以後、心を改め子供と安産の守り神となった、と言われます。


「恐れ入りやの鬼子母神」という駄洒落で知られる、東京都台東区入谷の真源寺は、鬼子母神を祀っています。


注413)行宮 (あんぐう) 皇帝や天皇が外出したときの仮の御所のことです。仮り宮・行在所(あんざいしよ)と同意義です。「あん」と読むのは唐音で「ぎょう」は呉音です。

注414)夜須 「夜須(やす)」という地名は、福岡県夜須町・高知県夜須町や、滋賀県野州町など「安」を含めると同地名は全国に沢山あります。本書の場合は、福岡県夜須町に当てています。

注415)大君の大奥の間を・・・の歌 この疑似万葉調の歌の元歌は、万葉集巻十一第二五〇八番の柿本人麻呂作の、“皇祖の神の御門をかしこみと 侍従ふ時に逢へる君かも”です。


この歌を物語の筋に合わせ、人麻呂氏には断りも無く、少し変えて使わせてもらいました。




『鏡王女物語』(四) 額田王と共にー2

第二十五回


『鏡王女物語』(四) 額田王と共にー2

あるとき、春の菜の花を摘みに、御殿の近くの石山のふもとの野に出かけたことがありました。

豊のお妃さまも話を聞かれて、「是非に」とお見えになることになりました。そうなりますと、女だけでは心配と、父上も、警護ものを引き連れての参加ということになりました。

額田女房様、与射女房殿、雑色(ぞうしき 注407)・婢女(はしため)など沢山の一行となり、仰々しくて賑やかな菜摘(なつみ)になりました。

つくしも、そこここに頭を出しています。 ぬか姫が自分の菜摘くしに、きれいな飾(かざ)りを付けているのを父上がごらんになって、 「ぬか姫は賢いなあ、誰から菜摘くしの故事(こじ 注408)をならったの?」


「いえ、ただ、土をほぐしますゆえ、すぐ汚れます。せめて使う前までは、きれいにしてやっておきたく、飾りたてました。お目ざわりに、なりましたでしょうか?」

「ええと、五代前になるか、敷名(しきな)大君様が、野の菜摘する郎女(いらつめ 注409)の菜摘くしがきれいな串だったのに目を留められ、どこのお嬢さんかと声をかけられ、そのご縁で、大君様のお側にあげられたという故事が、歌になって古歌集(こかしゅう)に残っている。ぬか姫のその心がけ、悪くはないぞ」とお褒(ほ)めになりました。

わたしは、「いやだなあ、自分を売り込むなんて、どんなお歌ですの?」 とお聞きしましたら、歌ってくださいました。

♪”きれいな掘り串を持つきれいなお嬢さん、 わたしは、戸手(とで)の識名(しきな)と申す者  あなたのお家とお名前をどうぞ教えてください”♪(注410
という歌でした。

海の向こうの戦のことは忘れてしまうほど、のどかな春の野に、お父様のお声が遠くまで霞(かす)んで行きました。

豊のお妃さまも、「とても楽しかった」、と何度も父上に礼を言っていらっしゃいました。 父上が、お妃は歌のお声がとっても綺麗、と安児(やすこ)が言っていましたので、是非に、とお頼みになりました。


細く通るお声が、父上のお声を追いかけるように霞んでいきました。


菜畑に 入り日薄れつ 鐘の音も 


        流れつ おぼろ月夜かな(注411


十勝村梨実のブログ -つくし摘み 「つくし摘み」 ノリキオ画


        (つづく)

注407)雑色 雑務に従事した人たち


注408)故事 昔から伝わってきている、いわれのある事柄の意味


注409)郎女(いつらめ) 若い女性を、親しみを込めて呼んだもの。「いらつひめ」が約められて「いらつめ」となった。反対語は郎子(いらつこ)。

注410)籠もよの歌  元歌は、万葉集巻一の一番初めに載っている歌です。雄略天皇の御製とされます。

「籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名をも」

一般的に、奈良時代のおおらかな歌、という評価のようですが、 不躾にも自分は大和の主だといって女性に家と名を聞く男の歌をトップに持ってきた『万葉集』の性格は???と筆者は思ってしまいます。


注411)菜畑に夕日の歌  これも著者が疑似万葉調歌として作った歌の一つです。元歌は、文部省唱歌です。前出(注202)「兎おいしのふるさと」と同じように、高野辰之作詞、 岡野貞一作曲のコンビの作の内の一つ、  「おぼろ月夜」です。“菜の花畑に入日薄れ 見渡す山の端霞み深し・・・”から、そっくりその想を借りたものです。