十勝村梨実のブログ  -14ページ目

『鏡王女物語』(三)太宰府・御笠の都へ-5


第二十一回
『鏡王女物語』(三)太宰府・御笠の都へー5

今津の宿で泊まりました。疲れていたのでしょう、床に着いたら、すぐ寝入ってしまい、すぐ朝が来ました。

お粥(かゆ)の朝ごはんが済んだら、宿から、干し柿やかち栗(注326)を分けて貰い、それに水筒(すいとう)の水を入れ替えて早速出発です。お昼過ぎには都に入れるそうです。
父上の前には、金色の大きな槍を持って、何人もの従者が前触れして進みます。周りの景色が珍しく、あっというまにお昼前の一休みになりました。

一休み後は大変でした。ぞうりの鼻緒(はなお)は切れるし、足は痛むし涙をこらえて足を引きずりながら、遅れないように歩きました。多賀だっても、我慢できないのではないか知らん、私も船に載せてもらったらよかったかなあ、など思っていましたら、誰かがお父上に知らせたのでしょう、お父上が行列の後ろの方においでになりました。

「つらいか、よし、こうしよう。」、と、ぽんと抱えられて気がついたら、父上の肩の上でした。着物の裾(すそ)がまくれているのに気付き、恥ずかしくてたまりませんでした。

もう覚えていないくらい昔に、肩車(かたぐるま)をしてもらった記憶はあります。こんなに気持ちが良いものだ、と改めて知りました。遠くの山も近くの木々も、ゆっくりゆっくり揺(ゆ)れながら動いて行きます。

「どうだ安児(やすこ)、歌でも詠(よ)んでみぬか。」と、父上がおっしゃいます。

しばらく考えて、 ”ちちの実の ととさまの背の かたぐるまふわふうわ揺れ いとおかしけれ” と詠(よ)みました。 
 
十勝村梨実のブログ -かたぐるま 「かたぐるま」ノリキオ画


お父上はそれをお聞きになって、「安児、下の句はまあよい、気持ちがそのまま表れているからな。しかし上の句はいただけないなあ。枕詞(まくらことば)にこだわりすぎている。確かに、父親の枕詞は、ちちの実だが、かたぐるまは、大体父親が子供を肩に乗せる、ということは皆知っていることだろう。」と、おっしゃいます。

「では父上、どのようにすれば良いのでございましょう?」と、ちょっと拗(す)ねてお聞きしますと、「父の背、は余分というもの。枕詞の練習というのなら、上の句を替えて見たらどうかな。

久方(ひさかた)の 光を浴びつ かたぐるま

     ふわふうわ揺(ゆ)る いとおかしけれ(注327)、どうじゃな。


真面目(まじめ)に添削(てんさく)をして下さって、拗(す)ねたのが恥ずかしく思いました。

都に近くなった時、沢山の人たちが鍬(くわ)や籠(かご)を持って働いていました。その仕事を指図していた人が、「鏡のお殿様ではありませんか?」と、声をかけてきました。

「ああ、中富殿か久し振りじゃな、元気そうでなにより。ところで、今日は何をなされてか?」
「ごらんの様に大君のお言いつけで、水堀(みずぼり 注328)の仕事のはかどり具合を見にきました。」
「それはご苦労な、人手の方は如何かな?」
「ご承知でございましょうに。見てください。人の数はあるものの、年寄り、女子供が殆どです。」
「ご苦労なことですね、では、又都でお会いしましょう。ああ、これはわが末娘の安児じゃ、足が痛いというので、この通りの格好で失礼」。
裾をはだけているのを、若い男の人に見上げられて恥ずかしくて目も上げられませんでした。


もう朱雀門(すざくもん 注329)も近くに見えます。「父上、安児はもう歩けます!」と、言って、無理に飛び降りるように、肩から下ろしていただきました。


この時、この様に出会った人と、先々、長~あく、お付き合いするとは夢にも思いませんでした。

       (つづく)


注327) かたぐるまの歌 この疑似万葉調の和歌の元歌は、童謡 田中星児(1947年生 奈良県出身)作曲作詞「かたぐるまのうた」です。“パパの肩車は気持ちがいいんだよ パパが歩くとふわふわゆれる ララララランランラン”の想を拝借しました。


注328) 水堀 太宰府を守る施設の「水城(みずき)」のことです。『日本書紀』によると、白村江の敗戦のあと、太宰府の防衛施設として築造したとあります。


しかし、築造年代については、もっと古いというC14などによる調査結果が報告されています。つまり、白村江の敗戦663年の後ではなく、太宰府が都として使われ始めた四世紀に遡るのではないか、とも言われています。詳しくは内倉武久著『太宰府は日本の首都だった』ミネルヴァ社刊 をお読みください。


注329) 朱雀門(すざくもん)古代の平城京や平安京といった条坊都市の宮城(大内裏)の正門ともいわれる門です。朱雀門と都の南大門、羅城門(らしょうもん)との間の大路を朱雀大路(すざくおおじ)といいます。

太宰府には「都府楼(とふろう)」「紫宸殿(ししんでん)」「内裏(だいり)」など都が置かれていた名残の地名が残されています。



注326) かち栗 クリの実を日に干して臼で軽くつき、殻と渋皮を取り去ったもので古来保存食として用いられました。カチカチに固くなっているところから「カチ栗」と名付けられたものでしょう。(ひょっとしたら逆で「カチ栗みたいに固い」ことから「カチカチの」という形容詞が出来たのかもしれませんが)。「かち」が「勝ち」と同音であるところから、出陣・祝勝に用いられました。軍歌「敵は幾万ありとても」(山田美妙斉作詞)にも、「邪はそれ正に勝ちがたく、直は曲にぞ勝栗の・・・」と使われていました。

『鏡王女物語』(三) 太宰府・御笠の都へー4

第二十回
『鏡王女物語』(三)太宰府・御笠の都へー4

鏡の里から玉島の浜を過ぎ、海辺の崖の上の小道と浜辺とを何度も上り下りを繰り返し、きれいな姿のお山(加耶山という名だそうです)が見えてきました。


この加耶の山は、いつぞや豆太が木こり奴として売られそうになったところです。木こりの仕事は大変だそうです。特に、加耶山は元岡の里に設けられた、くろがねの吹き上げ処に使う薪をとる仕事が、最近増えて大忙しだそうです。昔は、ここの木は目通り(注316)ふた尋(ひろ)なければ切ってはならぬ、という定めがあったそうですが、最近ではひと尋の木でも切って元岡に運んでいるそうです。

父上がおっしゃるには、「このままでは加耶の山は禿(はげ)山になってしまう、切った後には必ず苗を植えるべし、と大君にあらためてお触れしてもらわなければなるまいて。」ということでした。そして次の和歌を詠まれました。

鳥総(とぶさ)立て み加耶の山に 船木(ふなき)伐(き)り 

薪(き)に伐りてしも あたら船木を(注317

「とぶさ」など始めて聞きましたのでその意味をお聞きしました。

「鳥総とは、大地の神様、木に宿った神霊に捧げものをして、伐採するお許しを受ける儀式のおりに、若木の枝を添えてお願いする、その若木のこと。伐採した後、その枝が元の木のように育つようにお祈りするのだ。最近は、そのようなしきたりを守らない杣人(そまびと 注318)が増えているようでこれも困ったことだ。」と、教えていただきました。

やがて国ざかいの関所が見えてきました。関所でお父様が「ご苦労、ご苦労」と、声を掛けられますと、番所の頭領らしいのが、「お殿様の方こそ、本当にご苦労なことでございます」と、平伏(へいふく)して見送ってくれました。

関所の先の海を見下ろす小高い岡にきれいなお社がありました。


「ここのお社は、そなたの母御の祖先をお祭りしてある、鎮懐石神社(ちんかいせきじんじゃ 注319)だ、ご挨拶していこう」と、父上がおっしゃいます。

社守(やしろもり)の年寄りの夫婦が、さくら湯と干し柿を出してくれて、「ここのご祭神は、安児姫さまのお母上の八代前の息長女王様(注320)です。とても立派な方だったのです。それでこのように皆がご遺徳(いとく)を偲(しの)んでお祭りしているのです」などと説明してくださいました。それを聞いて、すこし誇(ほこ)らしく思いました。

そこを、過ぎると随分広い国が広がっていました。歩きながらいろいろとお話をしてくださいました。

「ここら一帯が一番昔から開けたところで、大君様ご一族、天(あめ)一族の本貫(ほんがん 注321)の地とも云える。ここの雷(いかづち)の社が代々の霊(みたま)をお祭りしているところ。この度は、日も下がってきているし、下宮(げぐう 注322)からのご挨拶で済ませて、先を急ごう。」とおっしゃって、今津の宿に入りました。

「昔はこのような宿はなく、旅は苦渋(くじゅう)なものとされていた。和歌で、旅には草枕(くさまくら)という枕ことばが付くことは、この前教えたので覚えておろう。百済の国に行った時など本当に草を枕に寝たものだ。皆、祠(ほこら)や大きな木の下で野宿(のじゅく)をしたものだ。そのような経験をすると、家のありがたさがよく判る。今のように、どこにでも銀銭(おかね 注323)を払うと泊めてくれて、ご飯もいただける世の中は贅沢(ぜいたく)なものよ。」などと、父上はお話してくださいました。

その百済への旅立ちの折、母上は、この今津のほんの先の出立地(しゅったつち)の荒津まで、見送りに来られたそうです。そのときのお歌一首(しゅ 注324)も教えてくださいました。

草枕 旅行く君を 荒津まで

送りそ来ぬる 飽きたらねこそ(注325)   



十勝村梨実のブログ -草枕の野宿  「草枕の野宿」ノリキオ画
                                                (つづく)


注316)目通り めどおり ①古くは、身分の高い人の前に出ること。②目の前。③目の高さ。という用例がありますが、現在では、④目の高さで測った立木の太さ、の意味で林業関係では使われています。

注317)鳥総(とぶさ)立ての歌 元歌は、 『万葉集』巻三第三九一番で、詠み人は、前出(注224)「筑紫の綿」の沙弥満誓。“鳥総立て 足柄山に船木伐り 樹に伐り行きつ あたら船木を”の場所を変え、物語の筋から「薪」に変えてみたもの。
一句目の「鳥総」とは、『講談社文庫 万葉集』中西進の注でもはっきりしません。「梢をもって鳥の総(ふさ)状のものを作り、山神に供えたものか」、とあり、森の神への伐採の許可を得る儀式のためのシメナワとかサカキに類するものでしょう。


注318)杣人(そまびと)  杣とは、古代日本で国が所有した山林のことであり、またその杣から伐り出された木のこともいう。杣人(そまびと)は、この杣において働いている人のことです。近世では林業従事者一般の意味で使われています。

注319)鎮懐石神社(ちんかいせきじんじゃ)現在の鎮懐石八幡宮で、福岡県糸島市二丈深江にあります。 祭神は譽田別(ほむたわけ)天皇・氣長足姫(おきながのたらしひめ)尊・武内宿禰(たけうちのすくね)命。



十勝村梨実のブログ -鎮懐石神社 福岡県糸島市二丈 鎮懐石神社


注320)息長女王 前出 息長(注217)参照 『記・紀』に神功皇后として伝承されている。

注321)本貫(ほんがん)>氏族集団(宗族)の始祖の発祥地


注322)下宮(げぐう) 神社にいくつかの社があるとき一番低いところにあるのをいいます。一番高い所に在るのを内宮、中ほどのは中宮です。

雷山は、曽増岐(そそぎ)山と言われ、曽増岐神社の上宮、中宮、下宮があり、中宮は現在「雷神社」として残っている。下宮は「笠折権現」とも呼ばれ、後に千如寺になった。


十勝村梨実のブログ -雷山神社 雷山神社

十勝村梨実のブログ -千如寺標識 千如寺の標識

注323)銀銭 日本書紀』には発行の記事がないのですが、神社の礎石の下などから多数出土することから、飛鳥時代に無文銀銭が貨幣の代わりに流通したと思われます。これには、先行王権の文様があったのを大和王朝が削り取らせた、という説もあります。ともかく、この銀銭の存在は、日本最古の"通貨"と言われている大和朝廷の「和同開珎」よりも先に発行した権力がわが国にあったことを示すと思われます。

注324)一首(しゅ) 首には次のような意味があります。①人体の頭、②人体のくびの部分、③一番先に立つこと、④一番上に立つ人、⑤詩歌を数える詞、⑥自分の首を差し出す、つまり罪を自白する自首。⑦難読語として、匕首(あいくち・首途かどで螻蛄首けらくびがあります。

本書の場合は当然⑤の意味です。


注325)草枕 旅行く君を の歌 
この和歌は、『万葉集』巻十二第三二一六番詠み人しらず、の歌で、そのまま使用させていただきました。「荒津」は前出(注315)参照。


歌の意味は、「草を枕の旅に行くあなたを、荒津まで送ってきました。いつまでも心残りだからこそです。」



『鏡王女物語』(三) 太宰府・御笠の都へー3


第十九回
『鏡王女物語』(三)太宰府・御笠の都へー3

わたしには、あまり御笠(みかさ)の都、太宰府にはよい覚えが残っていませんでした。 物心ついた二~三歳のころ、父上が都に上がられるのに従って、母上と一緒に牛の背に乗って揺られて行きました。


今、思い返しますと、幸山(さちやま)大君の即位のお祝いだったようで、どこもかしこもお祝い気分が満ちていました。そのころ巷(ちまた)では、次のような和歌がよく歌われた、と父上が教えてくださいました。


もろびとの こぞりて祝ふ 大君の

     待ちにし時は 今ぞ来ませり(注309


都は確かに道も広くて家々も立派なのも多かったけれども、埃(ほこり)っぽかったし、匂いも国と違う臭(くさ)い匂いがしていたのが強く頭に残っています。


お屋形の近くに立派なお寺がありました。柱や壁は朱色や金色に塗られ、瓦は薄茶色で、夕日に映えてきれいでした。そのお寺には大きな鐘があって、近くで、ぐお~お~んと鳴った時などびっくりして耳を塞(ふさ)ぎましたけど、後で耳からころりと耳垢(みみあか)が出てきて、何となく恥ずかしい思いをしたこともあります。


一つだけとっても嫌だった覚えがあります。それは厠(かわや 注310)です。国では、厠は流れの上にうまく作られていて、いやな匂いもしません。都ではおまるという桶(おけ)に用を足して蓋(ふた)をすると、はしためがどこかへ持って行って洗ってくるのですが、おまるが置いてある厠が、カビやなんぞの入り混じった嫌(いや)な臭(にお)いで、なるだけ我慢(がまん)しなくてはいけないのが、とっても嫌でした。


父上にそのことを言いますと、「もうじき長雨(つゆ)の時期になるから、そうすれば嫌な臭いも一緒に流してくれる。今は雨の少ない季節だからみんな我慢しているのですよ。」と教えてくださいました。

そのこと一つとっても、都よりず~っと鏡の里の方が住みよいところと思えました。


青丹よし 加沙(かさ)の都は 咲く花の  

          匂ふがごとく 今盛りなり(注311


このように歌った方がいらっしゃると聞きますが、私には、花の盛りには嫌な臭いも消えて良かったということなのでしょうか、と皮肉っぽく感じてたものです。


父上がおっしゃるには、「都はしばらく朝倉(あさくら 注312)の方に移っていて、最近又、御笠に戻ってきたのでほとんど皆新しく建替えられているので、綺麗なものだ」 とのことで、すこし安心できました。


このたびの都上りは、荷物も多いので、鏡の浦から船の旅にしようか、ということになりましたが、陸路(くがじ)に変えられたそうです。多賀がつぎのように教えてくれました。


「二十尋(ひろ 注313)の船二艘(そう)が手配(てはい)できず、十尋船では女子供は乗せられない」、と、父上がおっしゃり、陸路にしようということになったようです。
二十尋船は、みんな大君さまの主船司(ふねつかさ)が押さえられているそうです。「ここの浦の船だけでなく、松浦全部いや、火の国の船衆みな押さえられたとか。


最近は、船の材料の樟(くす)や槙(まき)の木も少なくなってしまって、火の国でも随分奥地に行かぬと見つからない。たとい見つけても木挽(こび)きが最近ではめっきり少なくなったとかで、新しい船は最近見ることができない。」などということです。そして、「物だけが船で都まで運ばれるようになった」と、聞いているそうです。


しかし、あとでこっそりとこのようなことも教えてくれました。母上が、父上が船での出立ということで、別れの歌をお詠みになられたそうです。
それは、次のような和歌だったそうです。


君が行く 海辺の宿に 霧立たば 

        吾が立ち嘆く 息と知りませ (注314


多賀が云うには、「私が思うに、息長(おきなが)姫の伝来の呪術を恐れられ、海路(うじ)を陸路(くがじ)とされたのではないか。」とのことですが、私には、ことの当否(とうひ)は判りませんでした。


「船旅は楽といえば楽だが、一旦荒れたらどうしようもない。また荒津(あらつ 注315)から都までは潮待ちもせねばならぬし、一番確かなのは、わが足、じゃて。幸い、安児(やすこ)は野育ち同様で元気だが、心配は多賀の足だけ。多賀だけ船で荷と一緒に行ってくれれば、荷の見張りなどの心配もなくなる。」と、父上はおっしゃられ、多賀のほかは皆、陸路で都に行くことになりました


                (つづく)


注310) 厠(かわや) トイレのこと。昔、トイレは流れの上に造られていたことから「川屋かわや」という言葉が出来たというのが定説になっています。


注311) 青丹よし加沙の都の歌 この和歌の元歌は、万葉集巻三第三二八番 大宰少弐小野老朝臣の“青丹よし寧楽(ねいら)の都は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり”の寧楽を加沙に変えました。「加沙」は、太宰府がある地域現在の地名「御笠」の意味で造りました。

また、「寧楽」は、奈良という解釈が一般的ですが、「ネイラク」を「ナラ」と読むのは無理があり、「寧楽」の字義から、「みなたのしめる」の意で太宰府説もあり、本書でもその意にとりました。


注312)朝倉  福岡県朝倉郡 斉明女帝が、筑紫国筑紫朝倉に遷宮し戦争に備えたけれど、661年に朝倉宮で死去。『日本書紀』の記事にある、朝倉の橘広庭宮が何処にあったのか現在までわかっていません。しかし、筑後国生葉郡に正倉院という地名があり、そこを発掘調査したら奈良正倉院と同様の建物遺構が出現しました。近くの小郡市の現三井高校がある処が、いわゆる飛鳥の浄の御原であり、そこに宮処があった可能性が高いと思います。


注313) 尋(ひろ)長さの単位。手を広げた長さである。明治時代に6尺とされたので約1.8mとなるが、古来はもっと短かった。 漢字博士の白川静さんによると【左右の手を広げた一ひろの長さをいう。左右の両手を連ねたその字形からも其の字義のもとづくところは明らかであろう。左右の手をひろげて、その袖をひるがえして舞う左右颯々の儀容は、神の来臨を求める(たづねる)舞である。】ということだそうです。


注314) 君が行く海辺 の歌 元歌は、万葉集巻十五第三五八〇番詠み人しらず。そのまま使わせていただきました。
前書きに「新羅に遣はされた使人らの、別れを悲しんて贈答し、海路にして情をいたましめ思を陳べたる、あわせて所に当りて詠える古歌」、とあり、場面によく合うと思いました。


注315)荒津(あらつ) 福岡市中央区の地名。荒江、荒戸などの類似地名もある。現在の福岡市中央区荒戸の港(現博多漁港)と思われます。近くには、古代からの外交・交易の拠点、「鴻臚館」跡もあります。
福岡市博多区の住吉神社境内に掲げられている鎌倉時代の古代図でも、那の津の表記はみえません。この図には、説明が付いていましたので、ご紹介します。

十勝村梨実のブログ -住吉神社博多古図

博多古図解説『この博多古図は、当住吉神社蔵の絵馬で、鎌倉時代に描かれたものを、江戸時代に筆写し、明治になって奉納されたものであります。西公園は昔から「荒津山」といい、現在の荒戸の地名は荒津の変化したものと云われ、「草ヶ江」は、現在の大濠公園や草ヶ江の地名に当時の面影をとどめています。また、「袖の湊」は平清盛が築いたものと云われ、対中国貿易の重要な港で、今の呉服町付近にあたります。この時代では、天神、中洲はもちろん博多の大部分はまだ海中にあった事になります。』とあります。


注309) もろびとの こぞりて祝う の歌 これも著者が疑似万葉調歌として作った歌の一つです。元歌は、賛美歌の内でもかなり有名な歌、“もろびとこぞりて歌いまつれ、久しく待ちにし 主は来ませり・・・”で始まる、讃美歌第112番を翻案したものです。