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『鏡王女物語』(三) 太宰府・御笠の都へー2


第十八回
『鏡王女物語』(三)太宰府・御笠の都へー2


荷物をまとめる指図をしながら、母上は「殿方は都に行っても、すぐ又若くて新しい女房殿を見つけられるであろうから、むしろお喜びでは。」などと父上におっしゃって困らせています。


又、「この度は、もうお目にかかれぬのではないか、と私の占いに出ています。なにとぞ此度は、ご一緒させてくださいませ。」
「わがまま申すな、此度のお話は大君様たっての頼みなのじゃ。吉備(きび 注304)・摂州(せっしゅう 注305)や毛野(けの 注306)国などとの折衝役(せっしょうやく)で、場合によっては摂州まで行かねばならないかもしれないのだ」
「それならなおさらのこと。」
「しかし、ようく考えてみよ。この松浦の国はどうなる。お前がおれば、豊の国もまさかの時には助けてくれる。玉島にはまだお前の後見も必要じゃ。そうだもう一つ頼みがある。ほかに頼む者もおらず、勝手で済まぬが、和多田の母子の面倒も見てやってくれ。」


母上は気色ばんで、「何を仰いますか、とんでもない。向こうもここへは来たがらないでしょう。都に一緒にお連れになられたら如何ですか。」
「そうもいかない。あの娘、なんといったか、宮姫といったか、玉島の遊び相手にどうかと思ったりするのじゃが。」
「貴方様としたことが、何ということを仰いますか! あの娘は貴方様のお子ではありませんか。兄妹を娶(めあ)わせるおつもりか!」
「仕方あるまい、白宮に頼むとするか。」などと、二人は、終日(ひねもす 注307)言い争いながらの引越し作業でした。


宇佐岐(うさぎ)はこのところ姿を見ませんでした。久慈良(くじら)が云うには「兄者は、丸で馬鹿(うつけ)になったようでメシもよう喰わん、折角の陣屋でのお祝いも要らん、と云うのでわしが二人分貰えて儲(もう)かったけどな」


出立(しゅったつ)の前の日、宇佐岐がこっそりと来て、戸の外に包みを置いて逃げるように去っていきました。
開けて見ると、きれいな桜貝でした。どのようにして描いたのか判りませんが、貝の内側にはきれいに女の人の顔が書かれていました。
わたしも何か悲しくなり涙に暮れていますと、多賀(たが)はわけも知らずに、「わたしが一緒にいくのだから心配されますな」と云ってくれました。
桜貝が多賀の目に留まらなかったのでホッとし、やっと落ち着きました。



十勝村梨実のブログ -さくら貝  「さくら貝」ノリキオ画



いつあの桜貝を失くしてしまったのでしょうか。 その折の気持ちを三十一文字にまとめ、心に留め置いた歌だけは覚えています。


松浦の 玉島浜の 忘れ貝 

     われは忘れじ 年は経(へ)ぬとも(注308
       

                         (つづく)


注305) 摂州 摂津国(せっつのくに)は、かつて日本に設けられた地方行政区分の一つです。 摂州(せっしゅう)ともよばれ、瀬戸内海航路の起点で淀川大和川水系との結節点でもあり、津国(つのくに)と呼ばれました。


『日本書紀』によると、 摂津国内には、難波長柄豊碕宮・難波宮・難波京等、度々天皇の宮処が構えられた、とあります。しかし、「難波」が摂津なのか、ということには異説があり博多湾説もあります。本書では難波長柄豊碕宮を博多湾岸の愛宕神社の位置にあったものとしています。


注306) 毛野国 毛野国・毛国(けのくに)は、関東地方の律令制以前の日本の文化圏の一つです。律令制下では上野国下野国 が置かれました。


語源については、①かつて毛人の住む地として毛の国、二字表記にして毛野の字が当てられた、というのと、②毛は二毛作の毛で禾本科の穀物を指し、昔この地域が穀物の産地であったことから毛野の名となった、などがあります。この地は 毛野氏(けぬし)が治めていたとされ、吉備氏・筑紫氏と並ぶ大豪族だった、と言われます。


毛野国は後に上毛野国造(かみつけぬのくにのみやつこ)の領域(後の 上野国)と下毛野国造(しもつけぬのくにのみやつこ)の領域(後の 下野国)に分けられたとされますが、分けられた時期は不明です。両国が元は毛野国で一つであったと伝わるのみで「毛野」としての登場が無いためです。

もう一つ大きな問題があります。かみつけ、しもつけ この表記は東国だけのものではないのです。豊前上毛郡多布郷などというように豊の国に上毛・下毛郡が存在するのです。上毛(こうげ)郡は上毛郷(かみつけのごう)・上毛荘(かみつけのしょう)・上毛別符(かみつけべっぷ)などの名称が記録に残っています。


当時の郡はかなりの範囲を領し、この両毛郡が知らない間に東国の両毛国と混同された可能性が考えられます。例えば磐井の乱で、『日本書紀』の記事に、磐井君と毛野君が昔は一緒に飯を食った仲ではなかったか、とあるように、同じ九州仲間であった可能性は高いと思われます。


この物語では、日本列島全体に応援を求めた、という意味で東国の毛野国としています。


注307) 終日(ひねもす) 一日中の意味。用例としては芭蕉の”「春の海 ひねもすのたり のたりかな” が有名。


注308) 忘れ貝の歌 この疑似万葉調の和歌の元歌は、万葉集巻十一第二七九五番詠み人しらずの次の歌です。 

“木の国の 飽等(あくら)の浜の忘れ貝 われは忘れじ年は経ぬとも”の場所を、“松浦の玉島川の”に変えてみたものです。


注304) 吉備 吉備国(きびのくに)とは、古代日本の地方国家です。現在の岡山県全域と広島県東部と香川県の島嶼(とうしょ)部および兵庫県西部にまたがり、筑紫・出雲・大和・越・毛野などと並ぶ有力な勢力の一つでした。別名は、吉備道(きびのみち)、備州(びしゅう)。後には備前国・備前国・備中国・備後国・美作国というように分割されました。吉備団子が有名です。
       

『鏡王女物語』(三) 太宰府・御笠の都へー1


第十七回

『鏡王女物語』(三) 太宰府・御笠の都へー1

もう鏡の里の思い出話は聞き飽きたことでしょう。 お話を太宰府(だざいふ 注301)の都に移しましょう。


ある秋の日のことでした。父上が、お出かけになっていた都から久し振りにお館にお帰りになりました。多賀が言うには、あまりご機嫌がよろしくない、とのことです。
お屋形の大広間に沢山の人が呼び寄せられました。二人の兄たちも呼ばれています。

時が経つにつれて、人々の声が段々高くなっていきます。「われら鏡一統を幸山君さまは潰そうと思っておられるのか!」
「いや大君さまも今が大変なんじゃ。ここで手を助けておけば松浦は安泰じゃ」
「なにゆえ、大殿様まで、都に上がらねばならぬのか、今まで同様、年に二度ほど年貢(ねんぐ)納めと、お顔を見せてあげればよかろうに。」

「若様たちが鏡に残こされても、われらがお守りすればすむが、大殿様とおひい様のお二人は、誰がお守りするのじゃ!」

父上の声が聞こえます。

「皆ようく聞け。鏡は天(あめ)ご一統(注302)の幸山大君さまあっての松浦じゃ。カラの国の戦に負けたら、天のご一統、大君様もなく、鏡もなくなる。
知ってのとおり、亡き先代大君さまとわしの父上は、母こそ違え血を分けた兄弟じゃ。 ご本家の願いであれば、なんで断れよう。皆のもの留守をしっかりして、火の国衆や豊の国衆に侮(あなど)られぬように頼む」と、仰られると、あとは皆、声もなくなりました。


「それよりも皆の者、この機会を良い方に向けようぞ。のう玉島よ、もうお前も十七と立派に一人前じゃ。わしが、遠い都から指図していたのでは、ふるさとの人びとの気持ちも判らなくなることをおそれる。お前が今後は、松浦の頭領(かしら)じゃ。」

兄、玉島王子はあまりの驚きで、しばらく声がでません。

「でも、差配(さはい)などのこといかようにすればよいものやら。」

「心配は無用じゃ。母御を後見役につけよう。租庸調(そようちょう)のことなら、わしよりも詳しい。」 続けて、

「久利王子は、外との備え、外への繋ぎなど心して務めるように」。


そして大きな声を張り上げられて、「吉日(きちじつ)は、思い立った時が吉日、と昔から言うではないか。明後日(あさって)は、老いも若きもこぞって集え!岬(みさき)の陣屋(じんや)で祝宴(おいわい)じゃ!」

玉島兄の心情はどのようだったでしょう。

世はカラでの戦の話しで持ちきりでした。 わが国と仲の良い百済(くだら)、とそうでない新羅(しらぎ)。百済を何かにつけて攻めてくる新羅。その北の高麗(こま)は又その北の国々と戦争をしている。百済を助けて戦うわが日本(ひのもと )軍。人びとが口々に語るのは、その戦いでわが軍が断然強いこと。子供心にも私達の国がそんなに強くて、百済の人たちも頼りにしていることなどを誇らしく思っていました。


戦いで亡くなったり傷ついたりする人も多いのになぜ戦をするの?なぜ仲良くできないの?など女女しいことは恥ずかしくて口にも出せなかったころでした。

玉島兄が、こんな歌が出来ました、と威張って父上のところに見せにきました。

梓(あずさ)弓 引きみゆる このますらをの 

     心は壱(いつ)ぞ 撃(う)ちてし止(や)まむ(注303

父上は、戦いの元気付けに和歌を使うのは邪道だ、と仰って、兄は可哀想にしょげていました。しかし、このような勇ましい和歌が、盛んに聞こえていた時代でした。


十勝村梨実のブログ -いくさごっこ  「いくさごっこ」ノリキオ画


注301)太宰府 『日本書紀』に筑紫都督府と出ています。また、寧楽(ねらく)の都とも呼ばれていたようです。730年に小野老という太宰府官人が詠んだ“あおによし寧楽(ねらく)の都は咲く花の匂うが如く今さかりなり”は有名です。


太宰府の語源は、中国の周王朝以来の伝統の官名、太宰・太傅(だいふ)・太保(だいほ)の三公から来ています。後年、大和王朝が筑紫大宰を置いた役所で大宰府とするのは誤りです。尚、太傅府は現在の筑前大分、太保府は小郡市大保にあったと思われます。


注302)天ご一統 『隋書』「俀国(大倭国)伝」に其の国の王は、姓は阿毎、名を多利思北孤であった、と出ています。この大倭国王朝の主が「阿毎(あめ=天)」という姓であったと記録されているわけです。


注303)撃ちてし止まむの歌 この疑似万葉調の和歌の元歌は、万葉集巻十一第二六四〇番詠み人知らず 梓弓ひきみゆるべみ、来ずは来ず、の冒頭句をまず頂きました。あとの部分は、『古事記』の神武紀にある古歌の、リフレイン“撃(う)ちてし止まむ”を結びつけたものです。

太平洋戦争の戦意高揚のキャッチフレーズとしても、この“撃ちてし止まむ”は1930年代から敗戦まで、日本中に氾濫していました。

今までの「あらすじ」に代えて。

いよいよ鏡王女も故郷、唐津、鏡の里を離れて、時の都、太宰府へと旅立つことのなります。


かなり、幼い日々で時間を取りましたので、今までの話の「あらすじ」をあらためてお知らせしなければならないかと思います。


それにしては、「ブログ」では梗概(あらすじ)を書きにくいスタイルなので、第三回と第四回でアップした記事をもう一度ご披露して、鏡王女の「太宰府への旅立ち」に移りたいと思います。

十勝村梨実のブログ -鏡王女物語

第三回(再) (一)鏡王女の最初の話-2


お酒が入りますと一貴(いき)様もいくらか元気になられたようです。 安児ももう一つ、など何度も勧められまして、少しぼーっとなりました。


父上が、「安児も皇子と久し振り会うて、嬉しそうだなあ」など戯(ざ)れ言をおっしゃいます。 「皇子、今宵はごゆっくりとお過ごしなされ、安児を夜伽(よとぎ)させますゆえ」「これ多賀殿、閨(ねや)の支度と、安児に心構えなど、よしなに頼む」と、おっしゃられます。


お酒の勢いもあったのでしょうか、こうなる運命と心の奥で思っていたからなのでしょうか、素直に多賀に手を取られて別間に退きました。


多賀から教わりましたことは、以前、額田王(ぬかだひめ)から聞かされていたことと同じようなことでしたが、自分のこととなると、もう上の空になりました。「一貴様に、すべてお委ねなさいませ」という多賀の言の葉だけが今でも耳に残っています。


一貴様が明かりを吹き消される寸前に、揺らぎの中に、チラッと鎌足(かまたり)どのらしい人影が頭の奥によぎったような気がしましたが、すぐ一貴様の言葉で我に帰りました。


「世が世なれば、そなたを明日にでもわが妻君(つまぎみ)に貰い受けるものを。今、百済(くだら)と新羅(しらぎ)の戦が酣(たけなわ)で、父君(ちちぎみ)がご自身で出馬する、というのを皆で止めているところだ。豊国(とよくに)の大分君(だいぶぎみ)が、自分が替わりにと言ってくれるが、彼の君では皆が従うか疑問だ。結局名代(みょうだい)で僕が行く。帰ってきたら迎えにきっと来る。」と、囁(ささや)かれます。


「次のお会いできる時をお待ちします。お会い出来なければそれは運命(さだめ)と思うことにします、お心残りなくお働きを。」などと、行っては駄目駄目(だめだめ)と思っているのに、心にも無いことを言ってしまいました。

一貴さまは、それ以上なにもおっしゃらずに、私をぐっと何度も何度も抱きしめてくださいました。“ぬばたまの この夜な明けそ” と上(かみ)の句が頭に浮かびましたが、この宵は夜の明けるのが本当に早ようございました。


第四回(再) (一)鏡王女の最初の話ー3


次の日も鏡王に伝えなければならないことがある、と筑紫にお帰りになる前に又、屋敷に寄られました。昨日そのようにおっしゃられていましたので、せめてものお守りを、と準備しました。太宰府天神様のお守り札に、楮紙(こうぞがみ) に「武運長久 安児」と書き、堅く観世縒(かんぜよ)りに編みこんで油を塗って、母上を思い出しながら、一心に願いを込めました。


婢女(はしため)が、まだ日が高いのに、多賀に言われたので、と、閨(ねや)の支度をしていきました。程なく、一貴さまが部屋にお見えになられました。

「鏡王殿に今お願いをしてきたところ」

「何を、でございますか?」

「言わずと知れたこと、そなたを筑紫へ連れていくことです」

「今からすぐにで、ございますか?」

「そうしたいのはやまやまですが、そうもいきません。此度(このたび)の勤めが一段落したら、大君(おおきみ)から鏡王殿に正式に貰い受けのお話をしてもらう、しばらく待っていてくれるね」


「はい」と、小さくうなずき、「このお守りをお持ち下さい」、と、首にかけてさしあげますと、そのまま抱きかかえてくださって、後は、言葉は要りませんでした。

いつ日が落ちたのか、終夜燈(しゅうやとう)に火が灯されたのも気付かぬままの時を過ごしました。


ぬばたまの この夜な明けそ 赤らひく

           

             朝行く君を 待たば苦しも


一貴様の腕の中で、今宵はぐっすりと寝込んでしまいました。
朝起きたときには、もう一貴様はお発ちになられていました。 後で、この時の気持ちを詠んだ、この歌の様に、「待つ」、という苦しみがどのようにつらいものか、しばらくは魂が抜けた、というのはこのことか、というような日々でした。


「一気に喋ってしまいましたけれど、お分かりにならないでしょうね。一貴皇子さま、とか、武運長久のお守りを紙縒りで結ぶなど、何のことやら、と思われることでしょうね。やはり回りくどいかも知れませんが、一貴さまと最初に出会ったころに戻って、順を追ってお話しましょう」


「まず、幼い日の思い出話からお話しましょう。年寄りは話がくどい、と思われるでしょうが」、と、くどくどと、前置きしての話でした。そのお話は、九州唐津の鏡山の麓から始まりました。長いお話ですが、私同様に我慢して聞いて下さると、その老婦人、本当かどうか、「鏡のヤスコ」と名乗られましたが、そのヤスコさんも喜んでくれることと、思います。