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『鏡王女物語』(二) 幼い日の思い出 -8  

第十二回

『鏡王女物語』(二)幼い日の思い出 -8    

白宮一家と豆太を襲った、あの恐ろしい一夜のことを、次にお話しておきたいと思います。 もう鏡の里の思い出話しには退屈されたと思いますので、切り上げたいと思っていますが、あの嵐の折の悲しい出来事は忘れられません。

夏の終わりころでした。朝早くから中庭が騒々しいのです。沢山の人が集まっています。 びっくりしたのは、あの腕白大将鬼太の一の子分豆太が、荒縄でギリギリに縛り上げられているではありませんか。
「お屋形様、このチビはあろうことか綿畑に忍び入り、二抱えものわた花を摘んで山に隠していたのでごわす。定めによって所払いで、奴(やっこ)として売ることでようごわすね。」
と、人夫頭みたいなのが言います。
筑紫の雷山(いかずちやま)の綿同様、この加賀見の綿も、日本中で一番という評判だそうです。

しらぬひ 筑紫の綿は 身につけて 

            いまだは着ねど 暖かに見ゆ(注224

という歌が、古歌集に載っていると、父上があとで教えてくださいました。
綿の畑は、綿の花が風に飛ばされやすいので、風があまり通らない場所に作られるので、こっそり出入りしても周りから分かりにくいそうです。


「なぜにそのような盗みを働いた?」 と、父上が奴頭(やっこがしら)に聞きます。
「それが強情なわっぱで、一言も言いませぬ。 先々どのような悪事をしでかすやからになろうや知れません。 ご存じないかも知れませんが、こいつの父親は海の向こうで戦さで死んだ、去木(さるき)部落の兄麻呂(えまろ)です。 おっかあも、先年はやり病で死んでしまっていますだ。」
父上は、ちょっと考えられて、 「兄麻呂の若いころを知っている。 なかなか律儀な男だった。 定めだから、その息子を奴(やっこ)で売るのが筋ではあろう。
しかしのう、父親を海の向こうで苦労させて、母親も死んだとあらば、こちらの面倒見が悪かったとも言える。 ここにおいて行け、私に考えもある」
「運のいいわっぱだ。加耶のお山(注225)の板引き頭が、生きの良い若い奴を欲しがってたのに」 と、奴頭は、憎憎しげに言いました。

叩かれ、足蹴(あしげ)にされ、泥の塊になった子に、 「川で洗って来い、逃げるでないぞ、安児、薬箱を出しておきなさい」 と、父上が仰いました。
豆太に軟膏を塗ってやりながら、 「綿花を欲しがったのは誰、絶対に言わないから、」 と、指きりしました。
なんと答えは「小夜姫(さよひめ)さま」でした。
白宮一家は、この地では旧家で、昔は鏡家と同格だったそうです。 先代が大君様のご不興を受け、鏡の下についているそうです。
ご当主は穏やかな人で、鏡王から調(みつき 注226)の差配を任されている、ということです。

一人娘の小夜姫は、なかなかのシッカリ物という評判です。 汐汲みやら魚とりなど、男の子以上の腕前だそうです。
腕白大将の鬼太も、小夜姫には一目おいています。
私とは四歳きり違わないのですが、大人と子供くらい違います。 けれど、小夜姫は、私が、字が読めたり、和歌が出来たり、ということで、対等に扱ってくれます。

でも、鮎が登る季節に、鮎つりを教わったのですが、とても教わったように竿は触れません。 見事に竿を振る小月姫をみて、釣ることよりも、三十一文字(みそひともじ)に写し取ることに精を出しました。
鮎(あゆ)を分けてもらい、帰宅しますと父上にばったり会いました。

「また、鬼太と川遊びか?」
「いえ、小夜姫と」
「この鮎はどうした」
「くださいました」

「安児も釣りを?」
「いいえ、ぼーっつとして、小夜姫の釣るさまを、三十一文字に移していました」
「ふーむ。で、どんなのが出来た?」

松浦(まつら)川 川の瀬光り 鮎釣ると 

          立たせる姉の 裳裾(もすそ)濡(ぬ)れなむ(注227


十勝村梨実のブログ -漁(すなど)り 「漁(すなど)り」 ノリキオ画

お父様から「安児も、男の子と戦ごっこなどばかりやっているのか、と思っていたが、随分と上達したものだ」、と、褒めていただきました。
                                       (つづく)


注224) 筑紫の綿 の歌 この和歌の元歌は、万葉集巻三第三三六番です。これは物語の文中の引用として、そのまま使用させてもらいました。和歌の意味は現代でも理解しやすい歌で、“しらぬひの筑紫の綿は身につけてまだ着たことはないが、暖かそうに見える”というものです。詠んだのは、沙弥満誓という筑紫観音寺の別当で、俗姓は笠朝臣麿と『万葉集』の注にあります。この「笠〈りゅう〉」という姓は九州にはわりに多く、1980年代のグループサウンズC・C・Bのボーカル笠浩二、女子プロゴルファー笠りつ子も九州出身。

注225)加耶のお山 伽耶山とは、大韓民国南部にある山並の総称で、慶尚北道の 南西部と慶尚南道の北西部にまたがり、小白山脈の一部となっています。
福岡糸島のシンボル的存在の山、可也山は 糸島富士と讃えられている山です。可也山の名は朝鮮半島の伽耶山に由来するとの説があり、今回伽耶山の名を使いました。写真は畏友山歩塾長、河村隆治氏の提供によるものです。


十勝村梨実のブログ -糸島市内から見た可也山 「糸島市内から見た可也山 山歩塾塾長提供」


“松浦川 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせる妹の裳裾(もすそ)濡(ぬ)れなむ” です鏡王女物語の筋から、妹を姉に変えてみました。

元歌の序にこの歌が詠まれた経緯が詳しく書かれていて、高貴な地位の人が松浦に遊覧にきて、たまたま鮎を釣る乙女たちを目にして詠まれた十一首のうちの一首です。肝心の詠み人は、出したら都合が悪かったのでしょうか、隠されています。


元歌の序にこの歌が詠まれた経緯が詳しく書かれていて、高貴な地位の人が松浦に遊覧にきて、たまたま鮎を釣る乙女たちを目にして詠まれた十一首のうちの一首です。肝心の詠み人は、出したら都合が悪かったのでしょうか、隠されています。

注226)調(みつき) 調は租庸調(そ・よう・ちょう)という租税基本システムの一つ(注210 庸 参照)で、若い男性に (一七~二〇歳の男性)へ賦課されたもの。繊維製品の納入が基本。しかし、代わりに地方特産品または貨幣による納入も認められていました。
時代によって違うものの、大宝律令・養老律令の規定に基づけば、調絹は長さ五丈一尺・広さ二尺二寸で一反とし、一反が六名分の調とされました。

注227)鮎釣りの歌  鮎釣りの歌 元歌は、万葉集巻五第八五五番 詠み人知らず 「松浦川 川の瀬光 鮎釣ると 立たせる妹の 裳裾濡れなむ」 です。物語の筋にあわせるために、妹を姉に変えさせてもらいました。

『鏡王女物語』(二)幼い日の思い出 -7


第十一回

『鏡王女物語』(二)幼い日の思い出 -7

もう少し、松浦(まつら 注221)での思い出をお話しましょう 年を取ってくると近間のことは忘れても、ずーっと昔のことは良く覚えています。 お后様を吉野のいで湯にお迎えしたときのことを、まず思い出します。吉野の湯も吉野の川も今では名前が変わってしまっているそうですね。今は熊野湯などとひどい名に変えられて、川も嘉瀬川と変わってしまい、大和の吉野に本家を取られてしまったようですね。

お后さまがお見えになることが父上に連絡があり、それから父上の指図があったのでしょう、多賀が行儀のことにうるさくなってたまりません。 歩き方・座り方・目の上げ方・物の言い方・ご飯の食べ方、走ったりしようものなら鬼のような顔になって低い声で叱られます。父上のように大きな声で叱られるのは応えませんが、多賀の叱り声を聞くと心の臓がギクッとします。お后様の前で行儀の悪いところをお見せしたら、父上の恥になる、ひいては松浦全体の恥になる、と云われるのですが、なかなか叱られる種はなくなりません。

お后さまは有明の海の方から吉野の湯屋に登っておいでになるそうです。 鏡の里からは反対の方向から峠を登り湯屋で落ち合うことになったそうです。 玉島川を遡り、七山の新しい関所を通り過ぎて、峠を越すと、吉野川の源です。


あの春菜摘みの時の若様はどうしているかな、と思い出しましたが、多賀には何となく話せませんでした。そこをだらだら下っていくと、やがて湯煙が見えてきました。


十勝村梨実のブログ -露天風呂のお妃さま ノリキオ画 露天風呂のお后さま ノリキオ画

吉野の川のせせらぎのすぐ近くに、もうもうと湯気が立っています。岩をきれいに並べて湯溜まりが出来るようになっていて、その周りは石を積んで囲ってあります。
もうお后様は着いておいでで、湯にお入りになられているそうです。中に入っていった、多賀からしばらくして声がかかり、湯殿におそるおそる入って行きました。多賀が背中を流し終わったところだったようです。

「安児というそうですね。こちらにいらっしゃい。いっしょにお湯に入りましょう」 とお声がかかりました。多賀からうるさく教わったとおりに、手桶で体を流して湯溜まりに入ります。

「ここの湯は女子には天下で一番なの」 と、仰いますので、 「何が一番なのですか?」 と、お聞きしますと、 「肌が綺麗になり、体の内のあちこちの悪いところを直してくれる」と、お答えになりました。

「普通のお湯とどう違うのですか?」 と、重ねてお聞きしますと、 「天と地のお恵みが、ここのお湯には入っているのですよ」
「都には天子様がいらっしゃるのに、どうしてお恵みがないのですか?」 と、お聞きしますと、
「多賀や、この姫はなかなかの者ですね。」 と、多賀に仰り、こちらをお向きになり、

「安児姫の云うのももっともなれど、都を吉野に持ってくるということも、これまた簡単にはいきませぬ。せめて月一度くらい出かけることを、大君様にお願いしているところなの」


「それでお許しが?」 と、多賀が聞きますと、 「都からその吉野の津までの大路が、ちゃんと通れるか見るには良い折だ、ついでによくそのところを見て報告するならば、と仰ってお許しくださいました。」
「どういうおつもりで、大君さまはそのようなことを?」 と、多賀が又、聞きます。


「御笠の御所から高良(こうら 222)のお城や吉野の津まで、駅馬(はいま 注223)が急場にちゃんと走れるか、がご心配なのでしょう。」
「では今からは、しょっちゅうお出ましなられますね」

「そう、せめてふた月に一度くらいは湯の香りを嗅ぎたいもの。」


豊天后〈ゆたかのきさき〉とよばれるお后様は、ほっそりとして、肌がお湯で火照って桃色に染められて、とてもおきれいでした。多賀がお体をお拭いされている間ずーっと見とれてしまっていました。
「安児姫、湯冷めしますよ」 と、お后様に云われてあわてて湯溜まりに飛んで入って、タガから恐ろしい目で睨まれました。
お后様は 「元気が良いこと」とお笑いになられました。

「都に出ることがあったら、御所にいつでも遊びにお出で」 と、仰ってくださいました。とてもとても嬉しく思いました。

多賀が「大君様はカラにお出かけが多く、淋しゅうございましょう」と申しますと、浴衣を身にまとい、お歌い出されました。


 君恋ふは 悲しきものと み吉野に 

           

                  辺巡(へめぐ)り来つつ 耐へ難かりき(注224
  
多賀がそれにつれて歌を歌ったのには、初めて聞いたので驚きました。 多賀が、長年乳人(めのと)として都に居た事を改めて思い出し、歌ごころがあることに感心しました。

いにしえも 夫(つま)を恋ひつつ 声慕(した)ふ


                  み吉野の道に 涙落としぬ(注224

                                      (つづく)


注221)松浦(まつら) 末盧(まつろ)が松浦のことだとされます。末盧国は魏志倭人伝に書かれている女王国の三〇国の内の一つです。魏使は壱岐から末盧国(現在の唐津市)に渡ったと書かれています。現在の唐津市近郊の最古の稲作遺跡、菜畑遺跡が発見されています。


注222)高良(こうら)の城  福岡県久留米市郊外にある高良神社には古代の城あと「神護石」の遺跡が存在します。高良神社の祭神玉垂命は九州王朝の天皇だったという伝承が残っています。高良大社(こうらたいしゃ)は、福岡県久留米市高良山神社で、古くは
高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれました。ご祭神は、武内宿禰説や藤大臣説、月神説など諸説あります。筑後国の一の宮です。


高良山はもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていましたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は 結界を張って居座ったとの伝説があります。山の名前については高牟礼から音が転じ、「高良」山と呼ばれるようになったという説があります。


魏志倭人伝にある邪馬壹国の都も、福岡平野から筑後平野に、四~五世紀にはこの高良に移ったと思われます。なぜなら謡曲に謡われる「都」は、久留米と解しないと理解できないものが多いからです。(新庄智恵子『謡曲の中の九州王朝』より) この神社のあるすぐ近く、耳納(みのう)山系の端部には祇園山古墳と呼ばれる四世紀の方墳(一辺23m)があり、卑弥呼の墓ではないか、とする説もあります。


注223)駅馬(はいま) 駅馬とは古代、官吏などの公用の旅行のために、諸道の各駅に備えた馬についての設備のことです。駅馬をなぜ「はいま」と云うのかについては、「早馬」はやうまから「はいま」になったと言います。


注224)君恋ふは の歌 及びいにしえも 夫(つま)を恋ひつつ の歌
君恋ふはの歌 これと次の“いにしへは”の二つの元歌は、北見志保子(一八八六年高知県生まれ)が一九三四年に詠んだ短歌「平城山」です。平井康三郎(一九一〇年高知県生まれ)が翌年曲を付け大ヒットしたそうです。
場所を「平城山」から「み吉野」に変えただけでなく、少しいじってみました。元歌「平城山」の一番は、 “人恋うは 悲しきものと 平城山に もとほりきつつ・・”で、二番は、 “いにしえも 夫を恋つつ 越えしとふ・・・”です。一番の、“もとほり”は、現在人には理解しにくいこと、二番の、“越えしとふ”は話の筋から”声慕う“に変えました。北見さんお許しの程を。



『鏡王女物語』 (二) 幼い日の思い出 -6


第十回


『鏡王女物語』(二)幼い日の思い出 -6


この屋形には、元はもう一人の、女御、和多田の女御(にょうご 注217)、がいらしたのですが、故あって今は和多田の別宅に住んでいると、ねえやから聞きました。なんでも私より二つ上の宮姫という女の子がいるそうです。そこのお子たちは三人生まれて二人が若死にされた、とかで、今親子二人で住んでいるそうです。

母上は「大君さまの御用もなのに、殿はミヤコにすぐ行きたがる」 と、父上に仰ったり、「殿は、百済や隋国に学問をしにお出かけになられ、何を学んでこられたのですか。かの国では、男は一人の女子(おなご)を生涯の伴侶(はんりょ)にする、という定めというではありませんか。このような教えは、習ってお見えにならなかったのですか?」など仰います。そうすると父上は、何もおっしゃらずに、お出かけになります。


「また和多田へお行きになられた」と、つぶやかれて、居間に入られます。そして、明かりを灯されて、きれいな二匹の白い龍か蛇のようなものが浮き彫りになった大きな鏡に向かわれて、お祈りを始められます。 「このような世は早く終わり、新しい世が来るように」というような言葉を唱えられます。

お母様は、ずーっと昔、海の向こうから渡って来た息長(おきなが 注218)のご一族ださうで、このような術に息長一族は優れているそうです。子供心に、この夜が終わって早く新しい夜がくるように、ということはどういうことだろうか、朝が早く来い、ということだろうな、と思っていました。

父上は、私がお母様と一緒に、そのようなお祈りをされることをお嫌いになって、何かというと私をお呼びになり、手習いや遠い外つ国のお話などを聞かせてくださいました。 私は、お母様と一緒にいて呪文の言葉を教えてくださるのを、上の空で聞きながら、 「安児、こちらにちょっとお出で」との、父上からお呼びが掛かるのを、いつしかいつも心待ちするようになっていました。

冬の朝などよく、七つ星(注219)に向かってお祈りをされます。

十勝村梨実のブログ -冬の星座 ノリキオ画 「冬の星座」ノリキオ画

私が目を覚ましているのを知られると、こちらにおいでとお呼びになり、一緒にお祈りをします。そうすると、本当に気持ちが晴れやかになります。 そのあと、お星様と運命のお話や和歌の手ほどきをなさってくださいました。 いつでしたか、最近ほうき星が太白星に近づいているのが心配、とおっしゃっていらしたのが、後になって当っていたことを知りました。 やがて自分の身の上に大きな運命の歯車が回る、ということを知らなかっただけ幸せだったのかも知れません。

冴ゆる空 奇(く)すしき光 降らせつつ 

           しじまの中を 汝(な)は廻り行く(注220
                     

                       (つづく)


注217)女御 女御 にょうご)とは、天皇の後宮の位の一つで、天皇の寝所に侍(はべ)りました。名称は、古代中国の官制を記した書「周礼(しゅらい)」に由来すると思われます。位は、皇后・中宮>につぐもので、定員はなく、複数の女御がいる場合は、住まいの殿舎の名を取って「弘徽殿女御(こきでんのにょうご)」などと呼んだそうです。

注218)息長 息長(おきなが)氏とは、『記・紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王;の流れとあります。息長氏の根拠地は近江の琵琶湖周辺で、美濃・越への交通の要衝です。また、息長古墳群を擁し相当の力をもった豪族であった事がうかがえます。

息長氏は天之日矛という渡来した王子との関係があったとする説がありますが、文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われます。 息長宿禰王(おきながのすくねのみこ、生没年不詳)は、神功皇后の父王として知られます。王は、天之日矛;の後裔・葛城之高額比売との間に息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)をもうけ、彼女は後に神功皇后と諡(おくりな)されました。

注219)七つ星 七つ星とは北斗七星(ほくとしちせい)のことで、大熊座の一部を構成する七つの明るい恒星でかたどられる星列のことです。柄杓の形をしているため、それを意味する「斗」の名が付けられています。七曜の星とも呼ばれます。

今、JR九州が「七つ星」という豪華観光列車を走らせようとする計画があるそうですが、本書とは関係ありません。


注220)冴ゆる空 奇すしき光 の歌 この疑似万葉調和歌の元歌は、中学唱歌に採用されている堀内敬三(一八九七年東京生まれ)訳詩、「冬の星座」です。「木枯らし途絶えて 冴ゆる空より 地上に降りしく 奇すしき光・・・。」より想を借りたものです。


元歌といいましたが、原曲は、アメリカの一八七一年発表のウイリアム・ヘイス作曲「Molie darling」というラヴソングです。堀内敬三にはアニーロリーとかドボルザークの交響曲「新世界より」 “遠き山に日は落ちて...” などの訳作詞があります。