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『鏡王女物語』(二) 幼い日の思い出 -2


第六回


『鏡王女物語』(二)幼い日の思い出 -2

お皿の代わりになるツワブキの葉を、ばあやのタガが取りに行っている間に、子供四人がお弁当の桶(おけ)の包みを広げようとしていました。


「お前達は何をしとる、どこの者だ」と突然大声で怒鳴られました。見れば若い武士が大刀を背負って、矢を携さえた従者と馬の轡(くつわ)を引いた供を連れています。江知もちびさんたちも震えて口が利けません。

私が、「そちらこそ何者、われらは、鏡の屋形の安児(やすこ)という名の者」といい返しますと、「お前達は聞いていないのか、ここらは立ち入ったら殺されても文句を言えないところだぞ」と怒鳴(どな)られました。


多賀が騒ぎを聞きつけて、飛ぶように帰ってきました。「これはこれは、若様ではありませんか、何事でございますか?」従者が言います、「無礼な!頭(づ)が高い!若君さまに向かってタメ口をきくとは!」


「おう、誰かと思ったら多賀か、まあよいよい。特牛(こっとい)そう怒るな。この者は私の乳人(めのと)だった、多賀と申す鏡の者だ。何だ、見れば春菜(はるな)摘みのようだが? もうそんな悠長(ゆうちょう)なことは出来なくなるぞ」

「して、今日は何のご用でこの山中へお見えなので?」

「うむ、ここら一帯にはうろんな者が出入り出来ぬように関を作るべし、との父君のお言葉の指図がどう進んでいるか、調べに来ているのだ。 ここらは出入り無用の地のお触(ふ)れをしたはずだが」
「それは迂闊(うかつ)なことでした。お屋形にこの二、三日顔を出していなかったので、ひい様にも怖い思いをさせてしまい申し訳ないことじゃ」

「それにしてもしっかりものの姫御よの。大きい方の小坊主はしょんべんちびらせているのに、お前達こそ何者!と震えもせず言いよった、ははは。して、この小坊主たちはタガ、おぬしの子か、元気者だなあ」

「何をおおせですか、これはあが弟の忘れ形見でございます。弟が、去年の伽耶(かや 注203)での戦で露になり、それを聞いた嫁が、気がふれて死んでしまい、私めが育てているところなのです。もう、子供を作ろうにも相手にしてくれる者もいません、冗談(じょうだん)にもそのようなことおっしゃらないでください」
「それは悪かった、達者(たっしゃ)で何よりだ。坊主達も何処(どこ)ぞへ修行に行かせねばなるまいて、はて、考えておこう。おおそうだ、多賀や。あくる月あたりに、母上が吉野の湯に入りに参る予定じゃ。あそこの湯は足腰の痛みによく効くそうだ。そなたが案内してくれれば母上もお喜びになるだろう。如何かな」


「もうもう喜んでお供いたします。もう十年以上もお目にかかっていませんゆえ、年取った姿はあまりお見せしとうはございませんが」「では、近々鏡殿に仔細をお伝えするので、その旨よろしく頼む。そうそう、その姫御も一緒で見えたらよかろう」と言いおいて、颯爽(さっそう)と馬にまたがり去って行かれました。


そのお姿を後で思い出して、父上におそわった三十一文字に作ってみましたが、父上には、なんだか恥ずかしくて、胸の中だけに仕舞いこみました。


 健夫(ますらお)の騎馬(うま)立つ影(すがた)見てしより

       心空なり地(つち)はふめども(注204


十勝村梨実のブログ -馬上の美少年 ノリキオ画 馬上の美少年 ノリキオ画

注203)伽耶(かや)  前出「加羅」(注107)参照。

伽耶諸国(かやしょこく)は、三世紀から六世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部にて、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指し、加羅はまた加耶と呼ばれています。

注204)心空なり地(つち)はふめども の和歌  元歌は、万葉集巻十二第二九五〇番の「正(ただ)に心緒(おもい)を述べたる歌のなかの一首、詠み人知らずの歌です。

“吾妹子が 夜戸出の姿みてしより こころ空なり地は踏めども”の下の二句だけそのまま頂いています。詠み人知らずとされている、この歌を詠んだ万葉歌人には申し訳ありません。

『鏡王女物語』 (二)幼い日の思い出 -1


第五回

『鏡王女物語』(二)幼い日の思い出 -1


私はまだ六歳で、ばあやの多賀(たが)と一緒にお弁当を持って、七山(ななやま 注201)に春の菜摘みに出かけた時のことでした。お供は、腕白盛りの多賀の小坊主が二人と、お弁当を入れた手桶(たおけ)を下げた、ねえやの江知(えち)です。蝶々を追っかけたり、ハヤを追っかけたり、蜂に追っかけられたり、はしゃいでいます。まだ動きの鈍い蛇(くちなわ)を棒で叩いたりするのに忙しいようです。

私も野の花が綺麗なので摘み始めましたら、「ひめ、その花はアブラナだからその花は摘んではいけません、ツメ草のお花で冠をこさえてみては、」と多賀に止められてしまいました。


多賀は小坊主たちにも、「そこの茂みにあたりの地面を棒で叩くのじゃ、くちなわを追い出しておかないと小用も足せないから」「そんなに走り回ってアゼが壊れたらどうする。おかかりに見つかったらただじゃすまない、足の一本折られても文句いえないぞ」などと小坊主達に注意しまくっています。


それでもなんとか、小川の岸の芹やナズナやハコベラなどを籠一杯に摘んで、やれやれ昼を使おうか、と下の谷川に江知は水を汲みに、多賀はお皿の代わりになりそうな、ツワブキの葉っぱを捜しに出かけました。


本当にあのような時代があったとは夢のようです。近頃は、亡き母上に教わった、おまじないをしなくても、昔のことが夢枕に訪れてくれます。


この地で皆さんから「鏡の殿さま」と呼ばれている、お父様が、手を取り指を折り曲げながら、五・七・五・七・七と教えてくださった頃の、恥ずかしいばかりの幼い歌を思い出します。


夢見ては 思い出づるよ 小鮒(こぶな)釣り  兎(う)を追いかけし、なな山の里(注202



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注201)七山(ななやま)

佐賀県唐津市七山 唐津湾にそそぐ玉島川の上流 夏場は渓流遊びで賑あう。玉島川を遡り峠を越えて、嘉瀬川を下ると吉野ヶ里を経て有明海に至ります


注202) この疑似万葉調ともいえぬ下手くそな歌の元歌は、“兎追いしあの山 小鮒釣りしかの川”で知られる「故郷(ふるさと)」です。

高野辰之(一八七六年長野県生まれ)作詞で、一九一四年に尋常小学校六年制の唱歌に採用されました。作曲は岡野貞一(一八七八年鳥取県生まれ)で、この両者のコンビで「春が来た」、「朧月夜」、「紅葉」などが生まれました。

『鏡王女物語』(一)鏡王女の最初の話ー3


第四回


(一)鏡王女の最初の話ー3


次の日も鏡王に伝えなければならないことがある、と筑紫にお帰りになる前に又、屋敷に寄られました。昨日そのようにおっしゃられていましたので、せめてものお守りを、と準備しました。太宰府天神様のお守り札に、楮紙(こうぞがみ (注114)に「武運長久 安児」と書き、堅く観世縒(かんぜよ)り(注115)に編みこんで油を塗って、母上を思い出しながら、一心に願いを込めました

婢女(はしため)が、まだ日が高いのに、多賀に言われたので、と、閨(ねや)の支度をしていきました。程なく、一貴さまが部屋にお見えになられました。


「鏡王殿に今お願いをしてきたところ」

「何を、でございますか?」

「言わずと知れたこと、そなたを筑紫へ連れていくことです」

「今からすぐにで、ございますか?」

「そうしたいのはやまやまですが、そうもいきません。此度(このたび)の勤めが一段落したら、大君(おおきみ)から鏡王殿に正式に貰い受けのお話をしてもらう、しばらく待っていてくれるね」

「はい」と、小さくうなずき、「このお守りをお持ち下さい」、と、首にかけてさしあげますと、そのまま抱きかかえてくださって、後は、言葉は要りませんでした。


いつ日が落ちたのか、終夜燈(しゅうやとう)に火が灯されたのも気付かぬままの時を過ごしました。


ぬばたまの この夜な明けそ 赤らひく 朝行く君を 待たば苦しも(注116


一貴様の腕の中で、今宵はぐっすりと寝込んでしまいました。朝起きたときには、もう一貴様はお発ちになられていました。 後で、この時の気持ちを詠んだ、この歌の様に、「待つ」、という苦しみがどのようにつらいものか、しばらくは魂が抜けた、というのはこのことか、というような日々でした。

「一気に喋ってしまいましたけれど、お分かりにならないでしょうね。一貴皇子さま、とか、武運長久のお守りを紙縒りで結ぶなど、何のことやら、と思われることでしょうね。やはり回りくどいかも知れませんが、一貴さまと最初に出会ったころに戻って、順を追ってお話しましょう」


「まず、幼い日の思い出話からお話しましょう。年寄りは話がくどい、と思われるでしょうが」、と、くどくどと、前置きしての話でした。


そのお話は、九州唐津の鏡山の麓から始まりました。長いお話ですが、私同様に我慢して聞いて下さると、その老婦人、本当かどうか、「鏡のヤスコ」と名乗られましたが、そのヤスコさんも喜んでくれることと、思います。    (つづく)

注114)楮紙 楮紙(こうぞがみ)とは、楮の樹皮,繊維を原料として漉(す)いた紙のこと。麻紙や雁皮紙に比べて美しさには劣るとされているが、丈夫であったために重要な公文書や経典・書籍など長期間の保存を要する文書の用紙として用いられた。また 和傘(わがさ)や障子(しょうじ)、襖(ふすま)の材料としても用いられている。


注115)観世縒り 和紙を細く切り、指先でよって糸のようにし、それをさらに二本より合わせたもの。能の観世大夫と関係づける説が多いが確かではない。

注116)ぬばたまのこの夜の歌 この和歌は、万葉集巻十一第二三八九 作者不詳をそのまま借用したものです。歌の意味は、「闇のこめたこの夜は明けてくれるな。あかあかと明けていく朝に帰るあなたを、また夜まで待つことは苦しいことです」。