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『鏡王女物語』(二)幼い日の思い出 -5


第九回

『鏡王女物語』(二)幼い日の思い出 -5

屋形は、松浦川に注ぐ鏡の里の小川の近くに立っていました。母屋に私達がすんで、まわりの小屋小屋に手伝いの家族、十家族以上が住んでいます。

その内の一つが多賀の小屋です。 他の家族は、田のかかり、綿のかかり、お蚕のかかり、海のかかり、山のかかり、蔵のかかりなどの持ち場があって、外の部落のそれぞれを束ねているということを、大きくなって知りました。

そのほかに若衆小屋があります。男の子たちは若衆小屋に集まり、女の子たちは、それぞれの母親のところに一緒に住んでいて、田植えや綿摘みなどの忙しい時には皆で手伝いに出ます。


大きな母屋(おもや)にはお父様とお母様、それに私の三人です。あと、じいやとばあやと、手伝いが五人ほどいます。

二人の兄たちは若衆小屋で寝起きしていますが、父上がご在宅の時には父上の言いつけに従って読み書きなどしています。

時々父上の声が聞こえます。「お前達は、もう少し書物に熱をいれたらどうだ、戦物語とか剣の修行には身を入れるが、一度読み聞かせたら覚える安児を見習ったらどうだ。


今からは、百済でなく唐国(もろこし)と伍して行かねばならぬ世になっているのに、読み書きが出来ねば、たとえ一時腕力で勝っても、結局負ける。」
「幸山大君さまは剣と義があれば必ず勝つ、義が正しければ邪に必ず勝つと仰っている、と聞きますが・・」と、年上の玉島兄が云います。

「ふむ、それが危ういのじゃ。敵は理と利と嵩で来るというのに。」とお父様が諭すように仰います。


「父上は、若い頃遣隋使(注213)で隋に行かれ、かの国の大きさに呑まれてしまったのではないか、と噂するものもいます。 もうわが日本も、大和のうがや一統様(注214)始め、遠くは毛野の大王様まで一緒になって事にあたろう、という世の中になっています。絶対、隋の一部将の成り上がりの、モロコシずれに負ける筈がありません。」と、年若の久利兄も一生懸命しゃべっています。


それに対してお父様は、「蛙には大海はわからぬ。お前達も、目を広く世の中をみてもらいたいものじゃ」、など難しい話が続いていました。

世の中は激しく動いていたのですが、子供心に映る松浦の里は、穏やかなものでした。 その頃の里の模様を思い出しながら少しお話しましょう。


この松浦の里は大昔から、お父様がおっしゃるには、俾弥呼様(注215)より古くの時代から栄えていた国だそうです。 屋形の裏の鏡の山に上がると、冬の朝など壱岐の島影も見えます。


眼の下に虹の松原が広がり、カラや外つ国へ行く大きな帆を張った船影が見えます。 船といえば、松浦の川で、漕ぎ方を教えているのでしょうか、桜の花びらが舞う中を沢山の舟が浮かんでいたのを思い出します。 その時は、遠い国へ戦に出て行くことの大変さを知りませんでしたから、次の和歌のように、きれいな眺めだ、楽しそうだ、としか感じることが出来ませんでした。

春うらら まつらの川の 舟遊び 櫂のしずくも 花と散るらむ(注216


十勝村梨実のブログ -舟遊び?ノリキオ画 舟遊び? ノリキオ画


十勝村梨実のブログ -鏡山山頂から 鏡山山頂から唐津湾の眺望。虹の松原がきれい。


注213)遣隋使  遣隋使 (けんずいし)とは、推古朝の倭国(俀國)が隋に派遣した朝貢使のことです。六〇〇年~六一八年の十八年間に五回以上派遣されています。なお、遣唐使には日本国からの遣使という記事が『旧唐書』にあります。日本書紀 』に記載はありません。大和朝廷が派遣したものではなく、俀国多利思北孤王が送ったものだからです。

注214)うがや一統  「うがや」とは神武天皇の父親とされる人物です。正式の名は、 天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけ うがやふきあえずのみこと)といいます。海神の娘である玉依姫との間に四人の男の子をもうけ、末の若御毛沼命が神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこ、後の神武天皇になった、と『古事記』は記しています。本書では 鵜草葺不合命(神武天皇)一統を略して「うがや一統」としています。なぜ「うがやふきあえず」という奇妙な名になったかといいますと、海幸彦が海神の娘豊玉姫と結婚して、産気づいた時に海辺のなぎさに鵜の羽根を葺草として産殿を作ったが、その出来るが間に合わずに生まれたので、「うがやふきあえず」という名になったという伝承が残っています。なお、「うがや一統」という言葉は、本書の造語です。

注215)俾弥呼 一般的には次のように説明されています。【卑弥呼(ひみこ、生年不明– 二四八年頃)は、『魏志』「倭人伝」に記されている倭国の女王。邪馬台国に都をおいていたとされる。魏朝から親魏倭王に封ぜられる。後継には宗女の壹與が女王に即位した。】

普通「卑弥呼」と書かれますが、魏書本紀には「俾彌呼」とあります。弥の方は彌の略字で問題はないのですが、「俾」が「卑」と人扁がとれたのはなぜなのでしょうか。「俾彌呼」は国書を魏に送った時の自署名ではないでしょうか。それが「倭人伝」では「卑」となったのは、夷蕃の国に対しての『魏志』の著者陳寿の卑字使用ではないかと思われます。また、「ヒミコ」(日御子)と一般に読まれますが、「コ」の発音の字は他にも倭人伝では使われていますし、「ヒミカ」(日甕か)とする説の方が正しいと思います。尚、女王国とは「邪馬壹国」と「倭人伝」には書いてあり、「邪馬台国」は俗説です。詳しくは、ミネルヴァ社の日本評伝『俾弥呼』古田武彦著をご参照ください。


注216)春うららの歌 この疑似万葉調和歌の元歌は言わずと知れた 滝廉太郎(一八七九年東京生まれ)の「花」です。一九〇〇年に発表された“春のうららの隅田川 のぼりくだりの船人(ふなびと)が 櫂(かい)の雫(しずく)も花と散る・・・”は、今でも女声合唱曲として現役を保っています。作詞は武島羽衣、作曲は田中穂積です。


『鏡王女物語』(二)幼い日の思い出 -4


第八回


『鏡王女物語』(二)幼い日の思い出 -4


さきほどの国の備えを整える、という若様の話を思い出して、「どうして海の向こうにまで戦に出て行くのでしょう?」と聞きますと、「出て行かないと向こうが攻めて来る。戦で負けると国人はみな、男は奴(やっこ)、女は婢(はしため)とされ一生こき使われ、けだもの並みとなる。それだから、戦にいくのは仕方ないかもしれないけれど、なんとかみんな生きて幸せになることは出来ないものか、とつい愚痴(ぐち)になってしまいます」
「戦で負けると本当にそうなるの?」
「本当ですよ。鏡の殿様にお聞きになったら教えてくださいますよ。満矛君と張り合ったモロコシが、琉球に攻め入って(注209)何千人ものくにびとが連れ去られ、満矛君は、それにお怒りになってモロコシと国交断絶されたのですよ」
「父上から聞いたのですが、その隋国は乱れているとか、とてももう攻めて来れないのでは?」
「おや、その後の話を聞いていらっしゃらないのか。隋の天子の家来が天下を取って唐という国を建て、先ごろ大唐帝国の高なんとやら(注210)という使者が都に見えたの。しかし、南カラの新羅という国がこの際とばかりに百済に攻めてくるので、幸山様は一生懸命なの」「どうして?」
「それは、幸山様のお妃(きさき)のお一人は百済から興し入れになったのだし、昔からの仲良しの国なので困った時には助けなければ、というお考えからでしょう。」


「どうやら、カラの国での戦が激しくなったようだ。ひょっとしたら、この唐津の浦や、裏山一つ隔てた吉野などのお城にも敵が攻め寄ることも考えられる。そうは絶対させん、と村主(すぐり)もこの前の寄り合いで云っていた」
とチビ坊主が口を挟みます。

「確かに、筑紫の里々も一軒一人の庸(よう 注211)の定めがそれではやっていけないと、年寄りの面倒を見る要のない若者は皆、村主のところに集められているそうな」
大きいほうの坊主の宇佐岐(うさぎ)も云います。「火の国衆、豊の国衆では足らず、播磨の国衆や紀伊の国衆まで合力(ごうりき)をお願いしているそうな。だからそう心配しなくてもいいんでは?」

「これわっぱたち、一丁前(いっちょうまえ)の口を利きよるが、お前達はひい様のお守りも出来ぬのか。さっきはションベンちびらせて、おさむらいに笑われて悔しくはないのか」
ちびの方が言い返します。「ちびったのは宇佐岐兄者じゃ、わしゃ、何か変なことをしたら、ケツに噛みつこうと思うとったが」 多賀が笑って「これ久慈良(くじら)、お侍にケツ蹴飛ばされずによかったな」 ウサギの方は下を向いて、「僕はひい様のツメ草の花の冠(かむり)が、馬から喰われはせぬかと、そればっかりが心配で・・・」

チビクジラは、「早く年を取りたいな、南カラだとて北の高麗(こま)だって、父上の形見の高麗剣(こまつるぎ)があれば百人力だ。 多賀おばさん、若殿に修行じゃなくて、鬼太の兄貴と一緒に、南カラに連れて行ってと頼んで・・・」
といい終わらないうちに、「馬鹿云うでない。私を又泣かせる気かえ?」と多賀声がかすれます。見上げますと、多賀の目は真っ赤になっていました。
そんなこんな話をしていると、じきにお屋形を囲む森が見えてきました。子供達の喚声(かんせい)が風に乗って聞こえます。きっといつものように腕白大将の鬼太がチビさんたちを集めて戦ごっこをやっているのでしょう。

周りの大人たちが、海の向こうでの戦の話を面白おかしく、大げさにするので、男の子たちは、遊びでもするように戦のことを思っているのでしょう。きっとこの時の久慈良は、親の仇を討ちたいばかりの、この和歌のような気持ちだったのでしょう。

今思うとあの頃は、国中が戦・戦・戦・戦と熱に浮かされていたようです。

高麗剣(こまつるぎ) われにしあれば 百人(ももたり)の  狄(えびす)たりとて 怖れえはせじ (注212

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注209)モロコシが、琉球に攻め入って  『隋書』流求国伝に次の様な記事があります。

【大業三年(六〇七)に煬帝は羽騎尉の朱寛を流求国に探訪させた。言葉が通じなく一人を掠(かすめ)て帰った。翌年また朱寛を行かせたが通交の要求に応じず、彼らの装束(武具か)を取り上げて帰った。その時に俀国の使節が来ていたのでそれを見せたら、「これはイヤク国人の用いるものだ」と言った。 そして、煬帝は、流求国が服従しないので、軍事力を行使した。すなわち、陳稜に南方諸国人を率いさせて従軍させた。崑崘人で其の語を解する者がいたので、遣わして之を慰諭させた。流求は従わず、官軍にさからう。陳稜、撃ちて進みて其の都に至る。彼らは盛んに戦ったが皆破った。彼らの宮室を焼き、その男女数千人を虜にし、戦利品と共に還る。これより遂に通交は絶えた。】


注210)高なんとやら  旧唐書倭国伝に次の記事があります。

【貞観五年(六三一)、使を遣わして方物を献ず。太宗其の道の遠きを矜み、所司に勅して、歳ごとに貢せしむる無し。又、新州の刺使高表仁を遣わし、節を持して往いて之を撫せしむ。表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る。】
この「王子と礼を争い」というところが『日本書紀』にはなく、むしろ歓待した、というような記事になっています。当時の天皇には王子がいなかったし、謎の一つとなっています。これは、大和朝廷に来る前に「大倭国」の多利思北孤王の所にきて、利皇子と礼を争ったのが事実なのです。

注211)庸(よう)  租庸調(そようちょう)は、中国、朝鮮にならって日本でも行われた租税制度です。そのうちの庸とは、元来は壮年男子への労役の賦課制度でした。布や綿花などでの代納物も認められていたようです。


注212)高麗剣(こまつるぎ)の和歌 この和歌には元歌というほどのものはありません。『万葉集』には沢山の「高麗剣(こまつるぎ)」の句が入っている歌があります。青銅器は朝鮮半島から入ってきたので、“高麗剣”といえば優れた武器というイメージが当時のわが国にあったことでしょう。それを無理やり、敵愾心直結の和歌にしましたので、作者の和歌の素養の幼さが出てしまったようです。

『鏡王女物語』(二)幼い日の思い出 -3


第七回


『鏡王女物語』(二)幼い日の思い出 -3


「さっきの方はどこの若様なの?」と聞きますと、七山(ななやま)からの帰りみち多賀が聞かせてくれました。

「あのお方は恐れ多くも、あの多利思北孤(たりしほこ)と名乗られた、満矛(みつほこ)天子様のお孫さんに当たられるお方、一貴(いき)皇子様。今の、幸山(さちやま 注204)天子様はご先代満矛様の十二番目のお子で、五尺の大剣を執ったら日本でもカラでも誰にも負けぬそうな。じゃが、剣に強いだけでなく、満矛様に習われて、仏法に帰依され、義理人情にも厚い方で、皇太子であらせられる頃は、皆、聖徳太子(せいとくたいし)とお呼びしたものです。」
「他の王子様達は?」
「上塔(かみとう)の利と綽名(あだな)された長男の、利皇子(注205)は、立派な皇子様でしたよ。次の皇子幸海(さちうみ)様ともども、はやり病で亡くなられ、国人(くにびと)みな嘆き悲しんだものです。」
「何人のお子様がいらしたの?」
「全部で十五人の皇子と八人の皇女がいらした。姫のお父様は四番目で鏡にご養子にお見えになったのです。」
「では、さっきの若様は・・・」と考えていますと、「そう、従兄弟(いとこ)にあたるのですよ。沢山の皇子皇女方は、色んな国造(くにみやっこ 注206)に養子やら養女のところに、出されて、いわば、この日の本の国は、満矛一家といってもよいくらいなのですよ」
「そしてどうなったの?」


「満矛さまが、上塔様に位を譲られ、法王さまとなられて、いろいろとまが事が続き、年号を変えてみたり、吉凶(きっきょう)を占ったり、いろいろしても効き目がなく、満矛様、鬼前(おにさき)皇后様(注207)、上塔様が次々と亡くなられたときには、この国はどうなることか、と思いました。」
「でも今はこのようにおちついて・・・」
「そう、お若かった幸山様が、しっかりと差配されたのです。鏡のお殿様も太宰府に上がられてお助けされました。そうそう、姫はそのころお生まれ七年の喪が明けて晴れて大君様に即位された時には国を挙げてお祝いしたものです。年号もその時に聖徳(せいとく 注208)と改められたのです。」


「そのとき多賀も喜んだのでしょう?」
「伽耶(かや)の国に出ている私の夫のことの方が心配で、心配で・・・・それが本当になってしまった。」
「ごめんなさい泣かせてしまって。」 一息ついて言葉を継ぎます。「満矛君さまは無事に幸山君さまに継がせることがお出来になって、安心してあの世でお休みになっていることでしょう。いまの若様が、世継ぎの一貴皇子さまで、お后さまはあまりお体が丈夫ではござらぬので、わたしのお乳を飲んでお育ちになられた。」
     (つづく)


注207)鬼前皇后 法隆寺の釈迦三尊の光背銘に「法興元三十一年(六二一年)十二月、鬼前太后崩ず」という金石文が残っています。鬼前太后とはこの銘文によると、上宮法王のお后ととれます。上宮法王とは聖徳太子ではないか、と俗には言われているのですが、古田武彦氏が「多利思北孤」という名で『隋書』に出てくる「俀国王」のことである、と論証されています。


注208)年号聖徳 西暦六三〇年代に、「仁王」と「僧要」という年号の間にわが国で使われた年号、と李氏朝鮮時代に編纂された『海東諸国記』という書物に書かれています。


この「聖徳」の読み方ですが、聖は、せいー漢音 しょうー呉音 です。聖徳太子の「しょうとく」と区別するために漢音の「せいとく」としましたが、中国の南朝と親しかった歴代の倭国王朝を考えると「しょうとく」と発音されていた可能性が高いと思われます。

注205)利皇子 利皇子とは、『隋書』俀国伝に俀国王多利思想北孤の太子として「太子を名づけて利とす、カミタフ(上塔)の利」とあります。(「名太子爲利歌彌多弗利」)

注206)国造(くにみやっこ)  国造(くにのみやつこ)は、次のように一般に説明されています。【日本における地方官。軍事権、裁判権なども持ち、実質的にその地方の支配者であったが、孝徳期以降は主に祭祀を司る名誉職となった。行政区分の一つである国の長と言う意味で、この国が示す範囲は律令が整備される前の行政区分であるため、はっきりと判明していない。】

しかし、六世紀のわが国の様子を記録している『隋書』俀国伝には、百二十人の「軍尼」を置いている、とあります。これは中国の牧宰の如し、とあります。牧宰とは州の長官という意味ですから、国造と似たような官職と思われます。この件について研究は進んでいないようですが、俀国(たいこく)には「ぐんに」郡司か? という地方支配の官制が敷かれていたことは事実でしょう。