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『鏡王女物語』(二) 幼い日の思い出 -11


第十六回
『鏡王女物語』(二)幼い日の思い出 -11

もう朝夕が涼しくなり始めていました。 もう貝拾いもおしまいの季節です。
いつものように多賀と宇佐岐(うさぎ)・久慈良(くじら)兄弟と一緒に海辺に出かけました。
宇佐岐は、多賀から、 「貝殻ばかり拾うのに熱心では、どもならぬ。久慈良のように身のある貝を拾わんかい」 と叱られつつ、それでもじきに、手桶に抱えられないくらい獲れました。

松林で一息入れようとしましたら、先客がありました。
小夜姫でした。ボーっと夕日を眺めていました。
「あれ、小夜姫、何をしているのですか」 みれば、肩には見慣れない肩衣(かたぎぬ 注232)がかかっています。
「それ珍しい肩衣ですこと、どこで求めたの?」
小夜姫が口を重そうに開きました。 「あの豆太のお父様、兄麻呂様がカラの国から、お母様への土産に、と帰国のかたに託され、届いたカラの羊の毛で織ったものです。 承知とは思いますが、豆太のお母様は、流行り病であっという間になくなられてしまいました。 あとで、兄麻呂様がカラからお帰りになった時、いろいろ手伝ってくれたそうでありがとう、これはもう着る人がいないから是非貰って欲しい、といただいたの」

「豆太も可哀想でしたね、お父様が戦死された後も一人で元気に生きていたのに。しかし立派なおともらいでした、お棺をみんなで担いで、白宮の者同様に扱ってもらって、よかったですね」、
と、言い、続けて何気なく、 「もし、あの時あのような大嵐がなかったら、豆太も死ぬようなことはなかったでしょうが、そのかわり、木こり奴で一生を過ごさなければならなかったのですから」。
と、言ってしまいました。
「なぜそのようなことに? 私はちっとも知りませんでした」、 と小夜姫が聞きます。
綿花泥棒として捕まった時のことの話をしましたら、 「そんなこと!」 と、絶句した小夜姫は 「私が悪かった、わがままを言ったばかりに」 と、あとは何も語りませんでした。
ただ海の向こうに沈む夕日を眺めて大きな目を見開いたまま、大粒の涙をこぼしていました。
浜辺には、誰が作ったのか砂山一つ、寄せる波に崩れかかっていました。


帰り道多賀が言います。 「豆太は体は小さかったが、おませな子だった。 小夜姫に懸想(けそう 注233)していたのでありましょう。 もしかしたら小夜姫も悪い気がしていなかったかもしれません。綿の花を何故欲しがったかは、姫もやがてお分かりになります。」 聞いていて何となく、体が熱くなったような感じがしました。
後になって、砂浜で腹ばいになって、そのときの小夜姫の気持ちを思って詠んだのが次の和歌です 。

砂山の 砂に腹ばい 思い出づ 

        幼き恋の その痛みをば(注234


十勝村梨実のブログ -海辺の砂山 海辺の砂山 ノリキオ画


(幼き日の思いで 終わり 太宰府・御笠の都に つづく)



注233)懸想(けそう) 思いをかけること、恋い慕うこと、です。懸想文(―ぶみ)となると恋文のことです。


注234)砂山に の歌 これも著者が疑似万葉調歌として作った歌の一つです。元歌は、言わずとしれた石川啄木(一八八五か六年岩手県生まれ)の詩集「一握りの砂 」“砂山の 砂に腹ばい 初恋の 痛みを遠く・・・”より想を拝借しました。

注232)肩衣(かたぎぬ) 肩までの短衣,つまり袖なしの衣服で,古くから庶民の間で着られたもの。『万葉集』巻五の山上憶良の「貧窮問答歌」の中に「綿もなき 布肩衣・・・」とあります。 しかし、近世以後の肩衣は,このような袖のない衣服そのものではなくて,時代劇によくみられるように、主要衣服の小袖の上に補助衣的に着用されているものです。

『鏡王女物語』(二)幼い日の思い出 -10


第十四回


『鏡王女物語』(二)幼い日の思い出 -10

次の夜、白宮のおじさまが小夜姫(さよひめ)を連れて見えて、父上と豆太のおともらいの相談があっていました。
洩れ聞こえてくる声はこのようなことでした。

「流れ谷のお穴に納めるのが定めであろうけれど、この度はわがままを聞いていただきたい」 と、おじさまがおっしゃいます。
「家に伝わるお宝の佐嘉鉾(さかほこ 注230)をあの子が守ってくれました。せめて亡骸はわが家の塚に納めたい、それも火葬でなく昔ながらの流儀で」 と続けられます。


父上は、 「気持ちは分かるが、身分が違う。定めに従ってもらわないと示しがつかなくなる。 確かに近頃は、大君さまがおすすめになるように、火葬というものが都近くでは行われるようにはなっている。しかし、人間は死んだのち、人を含むさまざまな動物に生まれ変わる、この五体は単なる仮の姿だから惜しむことはない、焼いて捨ててよい、というところまでにはついていけないしなあ」 と、仰られます。


「勿論でございます。火で燃してしまうなど野蛮なことは出来ません、何とかそこのところ埋葬のお許しを頂けませんでしょうか」
「たしかにこの豆太とやらは、なりは小さいがしっかりもので、例の綿花泥棒騒ぎの始末に、一貴(いき)皇子の従者、何と言ったか、そうじゃコットイというものの草履(ぞうり)取りにでも使ってもらうつもりであった。しかし今はまだ賎奴(やっこ)の身、定めに合わないし」、
との押し問答のようです。


いきなり一貴皇子の名が聞こえてきた時には、この春先の七山でのお姿が目に浮かび、なんだか胸のあたりがドキドキし始めました。
そこに、か細い声で 「わたくしからもお願いします」 と、小夜姫が、どうやら顔を床につけてお願いしている様子です。


十勝村梨実のブログ -岩原遺跡 写真 今も残る横穴墓(山鹿市岩原)

おじさまがいいます。 「こやつが、あのチビを不憫がって、”お穴に納めるのなら、私も入る” と言い出し泣いてばかりで困っているのです。 家宝のためにとはいえ、二人の命を失うことになろうとは。このお宝なども早くご先祖のところにお納めしておけば、このような目に遭わずに済んだものを」、 と、おじさまが悔やみます。


それを聞いて、父上が、 「そういうことなら、どうじゃ、その家宝の矛を埋納しようぞ。 豆太はそのお宝のお供ということで、一緒に棺を造って入れて納める、ということでどうじゃ、白宮」。

さすが父上と、父上のお知恵を誇らしく思いました。

それにしても、小夜姫が後を追うような気持ちになったのか、その時には不思議でなりませんでした。 しかし、親しかった人との突然の別れがこのように悲しいものだ、ということはよくわかる気がしました。


あとで、この時の気持ちを思い出して詠んだのが、次の和歌です。


別れそは この人の世の 常なるを 

          流るる水は 涙なりけむ(注231

このあと、小夜姫と豆太との意外な関係を知ることになります。
            (つづく)


注230)佐嘉鉾(さかほこ) 
記・紀』の神話に出てくる「天の逆鉾」は、「佐嘉鉾」つまり、吉野ヶ里あたりで作られた、「佐賀ホコ」ではないか(宮崎康平 まぼろしの邪馬台国)という説を勝手にお借りしました。


注231)別れそは の歌 これも著者が疑似万葉調歌として作った歌の一つです。
元歌は、島崎藤村(一八七二年木曾馬籠生まれ)の「若菜集高楼」、“別れといえば昔より この人の世の常なるを 名がるる水をたずぬれば・・・”です。小林旭が一九六一年にレコードを出し、翌年、日活映画「惜別の歌」で主題歌となり、大ヒットしました。わたくし
のカラオケ十八番でもありましたが、最近は歌う機会はなくなりました。

『鏡王女物語』(二) 幼い日の思い出 -9


第十三回


『鏡王女物語』(二)幼い日の思い出 -9

その白宮一家と豆太を襲った、あの恐ろしい一夜のことを、次にお話します。
その鮎つりの数日後、大風が吹きました。 田の稲がみな吹き倒れています。 風がすこし止んだかと思ったら、大雨になりました。


父上はご不在で、差配の比都自が指図して回っています。
「明るい内に土手を見張れ」、

「篝火を焚け」、

「松明(たいまつ)の準備をしておけ」、

「俵に砂を詰めろ」、 「川堰(せき)を皆開けろ」、 などと、大声が飛び交っています。
騒々しいことこの上なしです。


夜になりましたが、雨風は止まず、雷様もゴロゴロピカピカ始めました。
土手に見張りに行っていた虎麻呂が、 「宇木(うき)の白宮の近くで水が土手を越しそうだ。白宮殿に早く逃げろと云っているが、荷物が多くてぐずぐずしている」
「誰かおらぬか、荷物を出すのを手伝ってやらねば」、

「しかしこの嵐では、どこが土手やら川やら道やらわからず、どうもなるまいて」、 など言い合っています。

流石の元気者の、腕白大将の鬼太も、ためらっていました。 その状況を見て取った豆太は、すぐにも飛び出そうとします。
「待て、明かりもなしでは、白宮の家も分かるまいに」
「うんにゃ、おいには分かる、ピカピカが光っとるけん」

そのころ白宮一家は、家伝来の大きな銅矛や鏡を持ち出そうとして、苦労していたそうです。
白宮一家は、鏡の里の小高い丘の祠に避難しようとしていました。
豆太が、ピカッとする間に、方向を見定め、矛の入った長い筒を抱えて先導して行ったそうです。

小月姫があとで話してくれました。 「私の菅笠も飛んでしまい、ぬれねずみになりながら小走りで豆太の後を続き、もうすぐ祠がある森だと安心した時、今までと違った大音声のピカッが来ました。」
息を呑んで話しの続きを聞きました。
「みんな、地面に叩きつけられたように転がりました。気がついたら、雨も上がり、風も随分収まっています。お父様が、”よかった、もう一安心じゃ”と起き上がっておっしゃいますが、豆太だけは起き上がりませんでした。豆太が持っていた長い筒から煙が出ていたのです。」

この話しをする間、小夜姫は思い出したのでしょう、泣きじゃくっていました。 この話を聞いて後で歌につくり父上に聞いていただきました。


朝顔の 咲くや南風(はえ)吹き 嵐来つ 

渡る波波 悲しみめぐる(注229

翌朝は、嵐が通り過ぎ何事も無かったかのような青い空です。 幸い、土手はこわれず田畑は無事でした。
             (つづく)

注229)朝顔の歌 これは著者が疑似万葉調歌として作った歌の一つです。元歌は、THE・BOOMの宮沢和史(一九六〇年甲府市生まれ)作詞作曲の「島唄」“デイゴの花が咲き 風を呼び嵐が来た デイゴが咲き乱れ 風を呼び嵐がきた 繰り返す悲しみは 島渡る波のよう・・・”です。九州の地でデイゴは無理かなと思い朝顔にしました。