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『鏡王女物語』(五)風雲急・大和へー5

『鏡王女物語』(五)風雲急・大和へー5



父上が、折角じゃから伊予の湯岡(注515)にも寄っていこう、と船の舳先を東に向けるよう船頭に言われました。なんでも、満矛大君が大のお気に入りのところで、東国巡行の折にはいつもお寄りになっていらっしゃったそうです。上も小さい時に一度、お許しを得てご同行されたそうです。



「吉野の湯も良いが、ここは格別」だ、と仰っていましたが、そのわけを後で知ることになりました。瀬戸内の漁場に恵まれ豊な土地柄で、人々の暮らしも良いようです。

どうもそれだけではなくて、豊浦の時と同様に、河野県主(あがたぬし 注516)の宿坊に泊まりますと、「鏡のお殿様、よくぞお出でになられました。では、ごゆるりと旅のお疲れを・・・」と、県主が先に立って温泉に案内され、その後は着飾った女達が加わって宴会が始まりました。


多賀や与射女房は、「仕方がない」と、小女に洗濯の指図などのあとは、お湯に何度も入ったり、お互いに肩をもんだり、で時を過ごしました。



 古きより 伊予のえひめに 出づる湯の



        世にもたゆらに こころ満つらむ(注517




と、お歌いになられる父上の声が、聞こえてまいります。



父上はふた晩何処かでお泊りになり、三日目になって、やっと出港することになりました。送りに来た人々の群れに、ひときわ目立つ格好をした娘さんがいました。与射女房どのにも丁寧にお辞儀をしていましたが、与射どのもプイと横を向き、不機嫌そうで、私たちもその娘さんに目を合わせないようにしていました。



アバケや警護の者たちも、警護の理由で、父上たちと一緒だったようで、白粉の匂いを付けて船に帰ってきました。額田王は、「あれ達は、おなごには興味ないと思っていたのに」、と、ちょっと当てが違った、といった感じのことを言っていました。


父上が、色紙に何やら書かれて、久慈良を呼ばれて、「あの娘に渡してこい」と言いつけられます。額田王が、久慈良を物陰に呼んで何か話しています。後で聞きましたら、父上が書かれて色紙を見せて貰ったそうでした。


「まあいやだ。このような恋の歌でしたよ」と言って、教えてくれました。それは、



 君が目の 恋ひしきからに 泊り居て



        かくや恋ひむも 君が目を欲り(注518



父上は誰に聞かせる、というのでもなく、「いざ、というときは、瀬戸内の河野一統の水軍の協力を貰える約束ができたので、上々の首尾であった」と、言っておられました。「大体、男の口約束など信用できないのに」と、与射どのは不機嫌でした。



船は吉備の方にむかって、帆を孕ませて順調に進んでいます。船の旅は良いものです。これまでこれほど、毎日長い時間を父上と一緒になって、お話を聞かせて頂いたことはありませんでした。


吉備ノ津でも、吉備の国についての、昔話を聞かせていただきました。筑紫と大和の間にあって、昔から栄えた国だ、ということ。大王が亡くなった時、大きなお墓を造ることを流行らせたのも吉備だそうで、負けぬ気が強い土地柄だそうです。


北に山を越えると出雲の地で、こちらともうまくやりとりできていて、駆け引きに優れている。このたびも、軍勢の供出を大君が頼んでいるのだが、大和との話がまとまれば、応分の加勢、などと駆け引きするのでこまる、などとも仰っていました。



筑紫より出雲の大国が一番早く開けたそうです。鏡も出雲の一族であったことも教えて頂きました。筑紫と出雲の主導権争いがあり、まあ、仲良くやっていこう、ということになり、それぞれからそれぞれへと、人が移ったとのことでした。私たちの祖先も、出雲から松浦に来て、その土地に鏡と名付けた、などと名はして下さいました。



ヒサゴのお酒を傾けながらのお話ですので、おまけに、冗談(じょうだん)交じりに面白くお話になるので、どれほど本当のお話が入っているのか、とその時は疑ったものです。


そんないい加減なお話はされない父上ですから、大半は本当なのでしょうが、なにしろ、千年近い昔の話だそうですから、確かめようのないお話です。


十勝村梨実のブログ -日本紀とはこのようなもの? 日本紀?という書物 ノリキオ画

つい、そんなことを口にしましたら、「亡き満矛(みつほこ)大君のご発案で、この国の成り立ちを、多赤麻呂(おおのあかまろ 注519)がまとめ始め、次の蘇麻呂(そまろ)の代に申し伝えられている。その日本紀(にほんぎ 注520)もやがて纏(まと)まる。」と、教えていただきました。出来上がりましたら、是非読んでみたいものと、思いました。



                 (つづく)


(注515)伊予の湯岡 『伊予風土紀』逸文に【法王大王が法興六年にこの地を訪れ、詩を詠んだ。それを記念して「射社邇波」の湯岡に碑を建てた。】と『釈日本紀』巻14に引用されています。



ふつう湯岡は道後温泉とされ、聖徳太子としますが、「射社邇波」の岡は、西条市石岡ではないか、法興という年号、そして和歌でなく「詩」であることなどから、法王大王は『隋書』に出てくる俀(たい)国の多利思北孤王ではないかと思われます。


(注516)県主 古代の大王の下での職種の一つで、ある程度の地域の管轄した。西日本にその記録が多いことから、古代の「倭国」王権の職種であったと思われる。


(注517)古きより の歌 元歌は、万葉集巻十四第三三六八番 作者不詳 足柄の土肥の河内に出づる湯の世にもたゆらに子ろが云わなくに を借用し場所を変えたもの


(注518)君が目の の歌 元歌は、日本書紀斉明紀に、母を偲んで中大兄皇子が詠んだ、と掲載されている。母親の死を悼むよりも若い恋人の死を嘆く歌の感じであり、これの作者が中大兄皇子とするのは誤伝という説が多い。


(注519)多赤麻呂 多氏は九州に淵源を持つ最古の古代氏族といわれる。一族の中では、太安万侶が有名です。赤麻呂は、壬申の乱の荒田尾赤麻呂・万葉集に出ている佐伯赤間路などいるけれど、この多赤麻呂・蘇麻呂は作者の創作名です。


(注520)日本紀 『日本書紀』雄略紀に『日本旧紀』からの引用、という記事があります。『日本書紀』編集者が参考にしたと思われる、この『日本旧紀』という書物は、「日本紀」などという名前に近い書名であったと思われます。




『鏡王女物語』 (五) 風雲急・大和へー4

『鏡王女物語』 (五) 風雲急・大和へー4


折角太宰府の都の生活にも慣れ、ぬか姫という妹も出来て、楽しく過ごしていましたのに、運命の歯車は思わぬ方向へと回り、大和の飛鳥とやらへ下ることになりました。

荒津から船に乗り、朝の凪の中の玄海を船は進みます。
大きな船で、総勢三十人ほどの一行ですから、賑やかな船旅です。

あれが鐘崎、もうすぐ見える沖ノ島は斎宮(いつきのみや 注509)だから、此度は皆頭を下げて通り過ぎるように、と、父上から皆にお達しがありました。

そのころには、うねりに負ける人が多くなったようです。

海は穏やかに見えましたが、海には「うねり」というのがあることを知りました。

遠賀の岡湊(注510)に夕方着きましたが、宿でぐったりとなり、食事もしたくなく早々と休みました。



今朝早く船出をしましたが、船に泊まった久慈良や兄貴分のアバケたちは、うねりに負けたのでしょう、日ごろの元気がなくなっていました。

アバケとは珍しい名なので、本人に聞いてみましたら、怖い顔が恥ずかしそうな声で「取り上げばばさまが、土地の言葉でアバカン(沢山)毛があるややこだ、といったのでアバケ」と教えてくれました。


遠賀の海から穴門(あなど)の瀬戸を通り過ぎますと、そこは別世界のまるで池のような海でした。穴門の瀬戸の潮待ちをしている間に父上が船に積んであるヒサゴ(瓢箪ひょうたん)についてのお話をしてくださいました。

「瓢箪に酒が入っていることは知っていようが、瓢箪には別の働きもある。

もしもだが、船がどうにかなった場合、この空き瓢箪につかまれば沈むことは無い。覚えておいて損はない。まあ、この瀬戸内に入ればそのような心配は無用じゃがな。」

「大昔、海が荒れて船が難破し、乗っていた瓠公(ココウ注511))という人が、瓢箪を沢山腰に着けていたものだから、無事に上陸できた。その折に人々には、まるで海を歩いてくるように見えた。その国の王様もびっくりして、これは常人ではない、おまけに知恵にも胆力にも優れていたので、大臣にした。このような話が、新羅本記という昔の本に載っている。」

それから、話は瓢箪をどうやって作るか、という方向になりました。

二人とも知りません。「人に聞かずに考えてご覧」、と、意地悪く教えてくださいません。

糸瓜みたいに畑に生るものということは知っています。母上が、糸瓜からとれる汁(あく)は肌に良い、と集めるのを手伝ったことはあります。でもヒサゴの造り方までは知りません。「降参です、お願いします」、と、言って答えを教えていただきました。

なんでも、ひょうたんの頭のところから少し穴を開け、水を加えて二,三日そのまま置いてふやかすそうです。中の種や、わたを、少しずつ細い杓子でかき回しては取りだし、又水を入れてふやかす。これを繰り返し、空になったら良く乾かす、と、出来上がりだそうです。

「な~んだ、そういう簡単なことか」、と、ぬか姫が言いますと、「大事なのは自分の頭で考えることじゃ」と、父上が、ちょっと怖い顔をされました。

十勝村梨実のブログ -瓢箪(ひさご) 瓢箪(ひさご) ノリキオ画

お話を面白く聞いている内に、まだお日様は随分高いのに豊浦(とゆら 注512)に入りました。豊浦は、以前、満矛大君の弟君が都を構えられて、東への睨みを利かせていらっしゃったところだそうです。


今は豊津(とよつ 注513)の方が便利良い、と豊国の都がそちらに移ってしまい、今は代官が駐在している港になっています。

なんとなく物寂しい、次の和歌みたいな感じがしました。ちょっとかび臭い、代官所の宿舎で一夜を明かしました。



玄海(くろうみ)の 波越え至る 豊浦津(とゆらづ)の 



秋の日かなし 雲の色かな(注514



            (つづく)

(注510)岡湊 古くから史書に登場する福岡県の遠賀川河口港

                                                

(注511)瓠公瓠公(ここう、生没年不詳)は新羅 の建国のころ、新羅王に仕えた重臣で元は瓢箪を腰に巻いて海を渡ってきた、とされる。(『三国史記』の記述)。

                

(注512)豊浦 今の下関市長府あたりに在ったとされる豊浦宮だが現在では所在不明。

                                                

(注513)豊津 現在の福岡県の瀬戸内海に面した豊津町。

                                                

(注514)玄海の波越え の歌元歌は、与謝野鉄幹 人を恋うる歌9番 四度玄海の波を越え 韓の都に来てみれば・・・より想を借りたもの。この歌の1番「妻を娶らば才たけて・・」は若者に今でも歌われているのでしょうか。




『鏡王女物語』 (五) 風雲急・大和へー3

『鏡王女物語』 (五) 風雲急・大和へー3



玉島王がまたお見えになりました。今度は久利王も一緒です。

父上は二人が来るのをご存知だったようで、早速奥の間でお話し合いを始められました。いつものことですが、玉島の兄は、段々と声が大きくなってきます。

それを父上が窘められますと、しばらくは声を落とされますが、又自然に大きくなってきます。



 このたびは、玉島王は気も動転という感じでしたので、余計声が大きくなり、私たちの女居間に、嫌でも話が聞こえてきました。切れ切れに聞こえる話がびっくりする話でしたので、こちらも息をひそめて聞き取ろうと努めました。多賀と、ぬか姫の三人で集めた話は、おおよそ次のようなことでした。

 舒明天皇は体がすぐれぬので、幸山天子の参軍の詔に応じるのは難しいこと。
 その代わりに寶女王を代表として行かせる。

 中大兄皇子と蘇我大夫が女王を支える。
 兵はおおよそ三万。
 しかし、それだけのことをするからには、女王・皇子と同等の身代わりのしかるべき皇族を保証として大和に来させることが条件。

 ところが、百済からも同じように王子豊章を寄越す代わりに、任那官府へ日本から代表となる王族を寄越すよう義慈王さまからの申し入れがあっている。
一貴皇子は、自ら百済に行ってもよいと言っている。

 ところが、大君様が、まだ一貴皇子には、諸国への兵の調達準備に走ってもらわなければならないとおおせられる。

 そうなると、大和には鏡王にご苦労かけねば、ということであったそうな。


 豊の国か火の国に人はいないのか、ということから始まって、松浦の久利王という名が上がった。

「父は大和へ、弟は任那へ、と何故大君様はわれら鏡一党を目の敵のようにされるのか、父上は何故このような横暴を見過ごすのか」、

と、それはそれは、の玉島王の怒りようです。

 父上が仰るには、

「今が正念場だ、こちらがそれだけの備えをすれば、それは向こうにもこちらの本気さが伝わる。昔のように大君様が先頭に立って戦うまでもなく、百済や任那への新羅の手出しもなくなろうというもの。大和のうがや一統はもともと吾らと同祖の者たち、いわば親戚じゃ。まだ向こうは先祖供養の大きな墓作りにかまかけて、随分と日本よりいろんな面で遅れているようじゃし、老骨のおのれの最後の働き場所も出来たというもの。


 久利もいつまでも兄の手元では先が見えまい。任那に行けば、また道も大きく広がろうというもの。どうじゃな」、と、いうことで、玉島王も「父上がそうおっしゃるのなら」、と、不承不承納得しました。

 しかし、久利王は、後はお酒が出されてから、やっと言いたいことがいえるようになったのか、「かの国へ渡るのは、一人では心細く、連れて行きたい者がいるが、それをお許しになれば」、といいます。父上が玉島と相談されて、「向こうの事情が分かっているものなど数人は必要だろうから」、と、了解されました。

 お酒が入ったところで、父上が、安児も呼んで、久し振りに兄弟に安児(やすこ)の歌でも聞かせようか、と仰り、お呼びになられました。

ざっと経緯をお話し下さったあとで、「人生到る処に青山あり、と古人も言っている。幸いは、山の向こうに住む、とも言うではないか、いざわれら鏡一統も次の日本のために、いまひと働きじゃ。ヤスコ、歌の一つも門出を祝って歌おうぞ」

と、仰いました。



 とても、その気分には乗っていけず、途方に暮れました。思いがけず、助け船が出ました。「父上、僕だって和歌の一つは歌えるようになっています」

と、玉島兄が、次のように歌われました。



ちちの実の 父の命(みこと)は 大君の


 任(ま)けくのままに さ出でたまうや(注508

 太宰府の都に来るときに、父上の肩車で和歌を詠んだことを思い出しました。

そのときも枕詞の、「ちちの実」を使って、父上に手直しをされたことを思い出しました。


十勝村梨実のブログ -ちちの実と呼ばれた銀杏の実 「ちちの実」 ノリキオ画



 今度も何か、ちちの実のことで言われるかと思いましたが、何にもおっしゃられませんでした。

 随分後に飛鳥の里に届いた風の便りでは、その久利兄の供人にあの、和多田の宮姫が加わっていたそうです。それをお聞きになった父上は、何ともいえないしょっぱい顔をされていました。





           (つづく)




注508) ちちの実の父の命は の歌 【元歌は、万葉集巻十九第4146番 大伴家持 の防人の歌(長歌)の一部分を、ほぼそのまま借用しました】