何が合ってるか
ぼくらが正しいとか、間違ってるとか判断する物差しである、道徳。
これも、古くは国の統治のために利用された。確かに、人々が『自制』してくれれば、楽だ。お金もかからない。
無意識に信じていた道徳さえ、土台のないものだ。これには、心底落胆した。
何も正しくないし、何も間違っちゃいない。すべてに意味はあるとも言えるし、ないとも言える。
ここまではよく考えることだけど、その後が見つからない。無常で意味がない。それで、だから、どうしたらいいんだろう?
Jさん。
すべてを不幸に変えるJさんがいる。
Jさんはすべてを不幸に変える。
不幸はどこからやってくるのか?他人からだ。Jさんはいつも人間関係に悩んでいる。みんなが敵に見える。相手は別にふつうのことを言っているのに、責められていると捉える。
相手の課題なのに、すぐにその中に踏み込み、相手に攻撃される。そして、自分はその人のためにやったのに…と被害者ぶってしまう。
Jさんは人がいいのか?優しい心の持ち主なのか?
いや、そうじゃないだろう。
Jさんは単に相手に嫌われたくないのだ。誰にも嫌われたくない。だから、媚びてしまう。媚びが、もう、染み付いている。媚びてくる相手は…好きですか?ぼくは苦手です。そう、Jさんはそのせいで、疎まれてしまう。
このままでは、どこにいっても、楽しくない。どこかに楽園があるのか?ない。今、いる、その環境がJさんのすべてだ。もちろん、逃げ出すこともできる。そういう意味で、その環境はすべてではないと言えるかもしれない。
でも、どこに逃げたって。どこに逃げたって。また同じことの繰り返し…。そう、不幸な原因が、周りだと思ってる限り。解決のしようはない。解決なんてしたくないんだろうけど。
…もちろん(もちろんと言うべきか)、Jさんなんて実在しない。ぼくの近くにイニシャルがJの人なんていない。それなのに、いそうだ。そう、こういう人はどこにでもいる。なんで、こんなにいそうな人を書けたのか。それは、Jさんはぼくの中にも確実にいるからだろう。Jさんはふと、ぼくの中に現れて、ぼくを不幸にする。ときに他人のなかに、Jさんを垣間見ることもある…。
人は心の中で、密かに不幸になることを望んでいる瞬間がある。そのスキマに、Jさんは現れる。
あなたが消えた夜に 中村文則
中村文則の掏摸と悪と仮面のルールはササッと、徹夜で読んでしまった。
読んでいると悪いことをしたときの、居心地の悪さを思い出す。そして、悪いことをしているときの、ジワっと汗を掻くあの感じを思い出す。ほんで、悪いことをして生きてやろうか!!なんて、思う。悪いことをして生きるなんて勇気はないのだけど、悪に魅力を感じてしまう。
さて、もちろん?というべきか、中村文則を手に取ったのは、又吉が推薦していたからだ。そう、ぼくは、流行りには乗っかるタイプなのだ。そのへんの、ふつうの人間だ。過剰なポップを見て、欲しい!と思う。みんながかっこいい!っていう人を、ぼくもかっこいい!って思う。売れてる曲を、いいな~って思う。逆に、気に入らなくても『これ今年の流行りっす』なんて店員の言葉に、『え、え、そうなの、じゃあこれも一枚…』と自分の嗜好をそちらに合わせていく。ふつうのそのへんの26歳。
今度は、王様のブランチで話題沸騰!ということで買った(あれ、これはウソ)。圧倒的人間ドラマ、というコピーに心をキャッチされた(少しホント)。
ほとんどのキャッチコピーに心をキャッチされるぼくだが…と、同時に心をかき乱すこれらのキャッチコピーにイライラもする。言い過ぎでしょ、と思うこともある。特に、『あなたも泣く』とかいうコピーにはイライラする。そんなんに惑わされるかーー!!とムキになる。…気づいてる、ムキになること自体、それに興味津々なのだ笑 人間って、アホなのかな。
さ。
今日は夜を徹して、読んでいこうかな~なんて思っている♪( ・`ω・´)
幼稚園の描くものは『創造』なのか?
論文の改訂作業をしている。
大学院生は、論文を書いて、ジャーナル(有名どころは…例えばサイエンス!)にのらなければ業績にならない。もちろん、サイエンスのように世界的に有名なものでなくても構わない。ジャーナルは日本にだっていくつもあり、日本のジャーナルにのりさえすればよい。
当然書いたからといって、すぐのせてくれるわけではない。同じ研究者や、ジャーナルの編集委員の厳しい目を通り抜けた論文だけがのるのである。そうして、その目を通り抜けられないと…ぼくのように『改訂すべし』という烙印が押される。ようするに、修正してね、ってことだ。
さて、これがなかなか大変だ。初めての経験なんだけれど、相手の要求、質問に答えることがこんなにも難しいとは思わなかった。それに、ぼくのは根本的に、科学の手順を踏んでいなかったような気がする。そこが指摘されている。どういうことか?
論文は新しいことを言うものだ。では、新しいかどうか、どうやって決めるのか?先行研究をしっかり調べ、そことの違いを明確にすることで初めて、『お、これは新しいな』となる。先人によって書かれた偉大な論文。その『肩の上』に立つことによって、ぼくらは遠く見ることができる。
これは、創造する分野の、すべてのことに言えるかもしれない。他の人の歌を聞かないミュージシャンはいないし、文豪が書いたものを読まない小説家もいない。彼らはそういった膨大なインプットを土台にして、自分オリジナルの楽曲や小説をアウトプットしていく。論文がそれらと違うのは、前のやつとここが違うっ!とロジカルに説明しなければならないところだ。ウケればいいのではない(どちらがすごいとかそういう話じゃない、単に物差しの問題だ)。
今回、ぼくのは科学の手順を踏んでいないと先ほど書いた。つまり、前のやつとの違いを明確にしていなかった。それで、『ほんとに新しいの?説明して』と言われているわけだ。洗礼。難しい。とても難しい。ストレスがたまる。やだ。
新しいことをただドンドンと作る。こんなことは、幼稚園児にもできる。画用紙に、線一本描いたものを作品と言えば新しい。鼻のない母親を描けば新しい。黒い太陽を描けば新しい。簡単だ、新しいこと、それ自体は簡単だ。
しかし、どこが新しいかを自身で言語化するのは難しい。それが意識的にできなければ、創造とは言えないのかもしれない。
まだ、もう少しだけ先に進もう。
「」
原因なんてものはない。突然、いらいらし始める。どうしようもなくって、じぶんのなかの暴力性が目覚める。人間は、動物的なことを嫌うでしょう?お箸を持ちましょう、暴力はやめましょう、勉強できるようになりましょう。全部動物からの逸脱の推奨でしょう?でも、抑えているからこそ、いらいらしたりすると、その衝動が出てくるに違いない。
原因なんてないとはいったけど、原因はわかっているんだ。ただ、それと向かい合いたくない。時間がかかりそうだし、じぶんの能力でできるか心配だし。とにかく、向き合いたくない。いらいらしてるフリ。だれも見ちゃいないけれど、じぶんが知っている、じぶんで、じぶんに催眠術。いらいらしている間は、そこに向き合わずにすむ。
原因なんてたくさんある。いらいらする原因はたくさんある。夏、暑い、じめじめする、お金ない、むかつくあいつがいる。原因なんて無数に作りだせる。それをなにかの「原因」にしてるのは、じぶんの心ひとつ。
原因なんてないとはいったけど、原因はわかっているんだ。ただ、それと向かい合いたくない。時間がかかりそうだし、じぶんの能力でできるか心配だし。とにかく、向き合いたくない。いらいらしてるフリ。だれも見ちゃいないけれど、じぶんが知っている、じぶんで、じぶんに催眠術。いらいらしている間は、そこに向き合わずにすむ。
原因なんてたくさんある。いらいらする原因はたくさんある。夏、暑い、じめじめする、お金ない、むかつくあいつがいる。原因なんて無数に作りだせる。それをなにかの「原因」にしてるのは、じぶんの心ひとつ。
