高校の物理では、ニュートンの運動方程式というものを習います。
 F=ma (力)=(質量)*(加速度)というやつです。

 まずは、慣性の法則(惰性の法則)というものがあって、止まっているものは、基本ずっと止まったままでいる。ある速度で動いているものは、基本同じ速度で同じ運動をし続ける。要するに、ものごとは、ホッタラカシにしておくと、惰性でそのままの状態をいつまでも続けるというのが、まずは物理の根本法則です。(量子論になると、当り前のように思えるこの基本法則も変ってきますが、今は人間の日常生活レベルでの物理の話です。)

 止まっているということを速度0の状態と考えれば、ある速度で動いているものは、基本同じ運動を続けるというのが、人間の日常生活レベルでの物理の根本原理です。
 因みに、相対論というのは、止まっているのも、(等速で)動いているのも同じことじゃないか、というだけの話です。自分が急行電車に乗って、ホームにいる人から見れば時速100キロで動いていたとしても、電車の中にいる自分にしてみれば自分は電車のシートに座って止まっているわけだし、時速100キロで動いているのはホームにいる人の方です。
 動いている、止まっているというのは、相対的な主観の問題で、自分から見れば、動いているのは相手出し(自分は止まっている)、相手から見れば、動いているのは私の方です。(相手は自分は止まっていると思っています。)
 面白いのは、ホームにいる人がホームで物理学の実験をしても、ホームに対して時速100キロで動いている電車の中にいる人が、電車の中で物理学の実験をしても、全く同じ物理法則を発見します。
 言い方を変えれば、全く同じ物理法則が発見されるように、ホームにいる人にとっての時間と長さが、時速100キロで走っている電車の中にいる人にとっての時間と長さが、うまいこと調整されるわけです。
 どんな速度で動いている人にとっても、全く同じ物理法則が成り立つために、時間と長さの方が調整されるというのが、相対論の一見不思議なところですが、時間とか長さを「どのように」測るのか、ということをはっきりさせれば、そんなに不思議なことには思えません。
 この辺のことについては、このブログでも「物理学者は目の前のものしかみない」のところで少しかきました。

 さて、ほったらかしにしておけば、ものはそのままの運動を(惰性)で続けます。ところが、勿論、運動状態が変ることは現実には常に起こっています。走っている電車はいつか止まらなくてはならないし、止まっている車は動き出します。
 質量(重さ)を持った物体の、こうした運動(速度)の変化は、何故起こるのでしょう。
 「何故」起こるかというのは難しい問題なので、ひとまずおいておいて、「如何に」起こるかについて考えて来たのが物理学です。
 高校で教えられる物理学(人間の日常的なレベルでの物理学)は、ニュートン力学といわれますが、ニュートン力学では、運動状態が変化するのは(質量を持った物体の速度が変化するのは)「力(force)」が働くからだ、と考えました。
 それじゃぁ、「力」とは何か、と言われれば、「物体の速度を変える(原因となるもの)」というしかないわけで、これでは実は何の説明にもなっていない(トートロジー)わけですが、「何故」という問題をおいておいて、「如何に」という問題だけに焦点を当てれば、「力」という概念を導入することによって、物体の運動の変化をうまく表現し、方程式を解くことによって(解く事ができる方程式なら)、未来の位置や速度について正確な予言をすることができます。
 ある速度で動いているものを止めようとすることを考えてみましょう。動いているものをもし、速度が同じなら、その動いているものの重さ(質量)が2倍になれば2倍の力が、3倍になれば3倍の力が、そのものを止めるために必要になるでしょう。
 また、質量が同じなら、速度が2倍のものを止めるには2倍の力が、速度が3倍のものを止めるのには3倍の力が必要になることは、「日常感覚」的に明らかでしょう。
 以上の議論において、同じ大きさの力が、同じ時間に渡って加えられているとすると、力積と呼ばれる(力)*(時間)(但し、加えられる力が変化する場合には、力の時間積分)という量が、質量(m)と速度(v)に比例する、即ち、mv(運動量)に比例することになります。そこで単位を適当に設定すれば、高校で習う、Ft=mv、運動量の変化は力積に等しい、という式が出てきます。
 この式の両辺を時間tで微分すれば、F=maというニュートンの運動方程式の登場です。
 
 力を時間で積分したものが力積と呼ばれ、質量mと速度vを掛けたものである運動量(mv)の変化が力積に等しいという関係が認められるなら、力を距離を掛けたもの(より一般的には、力の距離積分)にも何か重要な物理的な意味があるのではないかと考えるのは当然で、実際重要な意味があるわけです。
 力の距離積分は、「仕事」と呼ばれますが、あるものにされた「仕事」は、そのあるものが持つ「エネルギー」となり、そのものが持つ「エネルギー」は、「エネルギー保存の法則」の範囲内で、あるものが、他のあるものに対してなしうる潜在的な「仕事」の量を表しています。

 普通大学に入って習う、「解析力学」なるものは、この「仕事」に関する方程式をいじくり回して、特定の座標系の設定にとらわれない、一般的な形の連立方程式を作り、それらを、「オイラーラグランジェの定理」と呼ばれる一般的な数学の定理を使って整理し、解いていく、という形で教えられます。
 そうしていくと、結果的に、物体の運動経路は、「作用」という量を最小にする経路であることが分るし、作用を最小とする経路が、実は、ニュートン方程式を満たす経路だということが分る仕組みになっています。
 (因みに「作用」は、(力)*(距離)*(時間)という次元を持つ量です。)

 さて、イーヴァル・エクランドというフランスの大学の先生が書いた『数学は最善世界の夢を見るか?』という本ですが、一言で言って、面白い本でした。
 この本の著者は、そもそも「最小作用の原理」というものが提唱されるようになった歴史的、哲学的背景を掘り起こしていきます。
 「最小作用の原理」なるものが提唱されるようになった背景には、ニュートン(デカルト)的な機械論的宇宙論とは異なる哲学があった、というのが著者の指摘するポイントです。
 「最小作用の原理」の発想とは、A地点からB地点まで、物体が移動する経路(道筋)は無限に考えられますが、(大阪から東京に行くのも、高速で行ってもいいし、新幹線に乗っていってもいいし、青春18切符で、裏日本から北海道を回って行ってもいいし、飛行機で、ニューヨーク経由で行ってもいいわけです)、可能性としては無限にありえる経路の中から、物体はどういう経路を選ぶのか、という、あたかも物体が「意志」なり「知識」なりを持って、ある地点から別の地点に動いているように捉える発想です。そして、物体が、可能なあらゆる経路の中から実際に選ぶのは、「作用」という量を最小にする経路だ、ということです。
 あたかも、物体が「意志」や「目的」を持って位置を移動するように、物体の運動経路を捉える「最小作用の原理」派の哲学の根底にあるのは、その「目的」の中に、神の「意思」や「目的」、神の「命令」を見ようとする考え方です。生物であろうと、無生物であろうと、神が創った全ての創造物は、神が意図した何らかの「目的」を持って動いている、というのが、「最小作用」派の哲学だというわけです。
 
 さて、実際には、「最小作用の原理」というのは、正確な表現ではありません。物体の運動は、必ずしも「作用」を「最小」にするものだけではなく、作用の「停留値」(作用の微分値が0となる経路で、作用が、必ずしも最小でなくても、最大であったり、鞍点であったりする可能性もある)をとるものであることが証明されています。
 従って、著者は、「最小作用」の原理というのは間違った言い方で、「停留作用」の原理と言い改るべきだと提唱します。最もな提案です。
 結論から言うと、自然は、作用を最小にするという「目的」に従った運動経路を「選ららんで」いるわけではないことになります。
 著者の議論は、自然から更に進んで、それでは、自然ではなく、人間社会は、何らかの「共通善common good」という望ましい「目的」を目指して動いているのだろうか、という問題を取り上げます。
 戦争やテロ、環境破壊などを見る限り、自然と同様、人間社会も、何らかの意味ある「目的」を目指して「進化」しているようには、今のところは、見えません。
 著者は、今現在の事実だけをもって絶望する必要はないことを説き、それが彼のメッセージとなっているわけですが、歴史というものは、ほうっておいても、「自然」と「進化」していくとは限らないものだというのは、重要な指摘だと思います。
 読み易く、面白く、考えされらる本です。