今日も

ご覧を頂きまして

ありがとうございます。

 

 

 

競争を嫌う人は、

たいていの場合、

おおらかで寛大です。

 

 

誰かが何かをやっていたり、

工夫していたり、作っていたり

すると、すぐに手伝いたくなる。

 

 

うまく行けば嬉しいから、

ことが容易にはこぶように、

一緒になって考えます。

 

 

 

対して競争が好きな人は、

他人のすることにいい顔をせず、

ねたみまで覚える。

 

何か工夫していれば、

ケチをつけてきたりと、

たえず干渉してきます。

 

 

もちろん、そうでない人も

いるとは思います。

 

あくまでも、一般的な見解です。

 

 

面白いのは、

どちらのタイプにも

悪気がないということ。

 

 

相手のしたいことに

耳を傾けながら、自分は

どうしたら一番いいのかが

つかめないだけです。

 

 

両タイプとも、創意工夫は

すばらしいし、発展を図るのは

いいことだと思っています。

 

 

しかし二人の行動が違うのは、

根本的なところが異なるからです。

 

 

性格、精神のありよう、

他人とのかかわりかた。

 

 

おおらかで寛大な人は、

自信があるから成果のほうに

関心が向きます。

 

 

よいものが生まれるのを見たい。

一体になって、自己実現をはた

そうと思う。

 

 

一方、閉鎖的でねたみ深い人は、

自分の価値をまず認めさせたい。

 

 

有能で活発で、

必要とされる人物は、

他人でなくてこっちなのだと

分からせたいわけです。

 

 

だから、

他人に干渉してブレーキをかけ、

なにもできなくしてしまいます。

 

 

違いが精神性や

価値感にあるかぎり、

何をやらせても結果は

いつも同じです。

 

 

例えばねたみ深いある人に、

ピンチに陥っている仕事仲間を

助けてやれと指示したとします。

 

 

結果は散々。

相手をこき下ろして、ますます

苦境に追い込んでしまう。

 

 

反対に、やりすぎる部下に

ブレーキをかけるつもりで、

おおらかで寛大な人を

向かわせれば、

 

 

相手はますます

やる気を起こしてしまう。

 

 

 

他にも、寛大なほうが

リーダーの地位についた場合、

 

もっとも活動的で

やる気も十分な者を

部下に選びます。

 

 

広い範囲に責任をもたせ、

好きなように活動させる。

 

 

そうして企業はますます

発展します。

 

 

 

対して

疑い深いタイプの場合、

 

 

自分の言うことに

黙って従う連中だけを選び、

 

自分なりの発想とペースで

やっていこうとする者は、

あらゆる手で妨害します。

 

 

前者が後者よりはるかに

優秀なリーダーであることは

いうまでもありませんが、

 

 

実際は、後者のタイプが権力を

握っていることがしばしばあります。

 

 

なぜなら、彼らは他人の領域を

少しずつむしばみ、手加減せずに

邪魔をし、蹴落として同じタイプの

連中だけでかたまりたがるから。

 

 

 

今日の問題の大部分は、

こういうタイプの連中が

生み出したものでは

ないでしょうか。

 

 

 

 

 

最後までお読み下さり

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

今日、来てくださった方との

出会いに感謝いたします。

今日も

ご覧を頂きまして

ありがとうございます。

 

 

 

 

文化というのは、

ありふれた日常より

ひときわ高いところに

あるもの。

 

 

僕達は、

そう考えがちです。

 

 

そこは科学者や芸術家が、

偏見もねたみも恨みもなく、

真なるものを追求するところ

であって、

 

彼らは新しい創造的

なものをすべて評価できる

存在と信じています。

 

 

しかし、

文化だって政治や宗教や

産業の分野と同じように、

 

いがみあう多くの集団から

なっているわけで、

 

我々に自分達の価値を

認めさせるため、

 

競争相手に負けないよう、

てぐすね引いているわけです。

 

 

実際に、

背後にはいつでも

組織的な集団がいて、

 

彼らが、

もちあげるべき者と

そうでない者を選り分け、

 

僕達にどの本を読め、

どの映画を見て、どれは

見るに足らないなど指示

しています。

 

 

おそらく、すべての人が

多かれ少なかれ、この

状況に巻き込まれて

いるはずです。

 

 

理由として、

皆が同じような環境で育ち、

同じ教師に教えられ、共感や

反感を深く植えこまれている

から。

 

 

だから、ある種の本や映画、

ある種のテレビ番組には、

本能的な拒否反応を示す

ことになる。

 

 

もちろん、

本当にくだらない

場合もあるけど、

 

単純に気にいらない

という理由だけで拒否

する場合もあるわけで、

 

本来なら”傑作”として

おもてにでるべき作品

だったかもしれません。

 

 

自覚のあるなしにかかわらず、

僕達は常に、いがみあう仲間や

集団に加わっています。

 

 

いがみあいに巻き込まれてしまうと

もう公平な目をもつことは難しい。

 

 

そうしていつも

先入観にとらわれていては、

きっかけやチャンスを逃すこと

になってしまう。

 

 

 

属していた仲間のもつ偏見から

解放されてみると、味けなく何の

才能もないつまらない人間だと

思っていた者が、

 

 

実は感性も経験も豊かな人間

だったと、再認識する場合も

あります。

 

 

そうすると、視野が広がり、

気分も軽くなり、呼吸まで

楽になったような気がする。

 

 

 

それは、僕達が

自由になったから

ではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

最後までお読み下さり

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

今日、来てくださった方との

出会いに感謝いたします。

今日も

ご覧を頂きまして

ありがとうございます。

 

 

 

 

何年も一緒に暮らした

カップルでも、別れたり

離婚となると、ほとんどが

争いになります。

 

 

人生の一部を

共有してきた間柄でも、

 

友人同士の別れというのは

難しいようです。

 

 

恨みや怒りや復讐心は

どうして生まれるのか。

 

 

恋をすると、人は普段とは

かけ離れた心理状態になり、

満ち足りた幸せを感じます。

 

 

ところが、

並外れた高揚感がなくなり、

恋愛感情も消えてしまうと、

 

 

かつての熱かった日々に

郷愁を覚え、それがやがて

怨恨に変わってしまう。

 

 

どちらも、

かつての期待にそわない

と言って、相手を責めます。

 

 

もし、それが事実であって、

恋の花園を踏みにじったのが

一方だけなら、恨むのは

もっともです。

 

 

しかし、

一方だけということは

まずあり得ません。

 

 

恋愛はある一定期間の、

はじめも終わりもある、

普通と違った状態です。

 

 

はじめた功績も一方だけ、

破った責任も一方だけ、

なんてことはないはず。

 

 

 

次に、恋をしている二人は、

まるで別人のようであること

です。

 

どちらも相手の注意を引き、

気に入られ、評価されたい

と思います。

 

 

だから、すすんで自分を

変えようとする。

 

 

皮肉ばかり言う人が

急に他人思いの親切な

人になったり、

 

野心的な人が

相手の為にすべてを

捨てても言いと思う。

 

 

この時点では、

どんなことでも

可能に見えます。

 

 

しかし、

それは幻想というもの。

 

 

”愛”は物事を変化させる

革新的な力ではありますが、

それにも限界があります。

 

 

熱烈だった頃はかいま見える程度

であった、人格の決定的な一面が、

安定期に入ったとたんに、堂々と

姿を現します。

 

 

鈍感さ、野心、エゴイズム、虚栄心

という欠点も、避けようもなく

出てくるわけです。

 

 

裏切られたような気持ちになるのも

無理はありません。

 

 

愛が消えていけば、

奥底に隠れていた二人の

人柄の違いも鮮明になります。

 

 

その状態で一緒にいれば、

些細な葛藤や揉め事が頻繁

になるのもやむを得ません。

 

 

そして

何ヵ月や何年も経つうちには、

亀裂や深い怨恨を生み、

 

耐えきれず破局を迎えてしまう。

 

 

こうして何事につけても

自分が正しいと信じ、

 

相手を責め続けるうちに

愛は終わってしまうようです。

 

 

 

ですから愛が終わるのは、

恋愛によって一時的に

隠されていた、もとからの

人格が顔を出すからではなく、

 

内にこもった葛藤の中で

育ててきた、

 

あらゆる攻撃的な面が

噴き出すからとも言えます。

 

 

 

最初、二人が共有していた

ものは””だけでした。

 

 

最後に共有しているものは

数知れずありますが、

 

 

多くは、復讐心に類するもの

ではないでしょうか。

 

 

 

見ず知らずの二人の方が、

よっぽどよく理解しあい、

はるかに寛容に思います。

 

 

 

 

あくまでも一般論を

述べたに過ぎません。

 

 

 

 

さわやかに別れる人も

いるとは思います。

 

 

 

 

 

最後までお読み下さり

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

今日、来てくださった方との

出会いに感謝いたします。

今日も

ご覧を頂きまして

ありがとうございます。

 

 

 

 

恋愛のたぐいは、

年齢を経ても変わらない。

 

 

僕なりに

感じていることですが、

 

 

”恋”は7、8歳からはじまって、

80歳になってもなくなることは

ありません。

 

 

若者や大人は、

子供たちが好きで会うのを

見てしのび笑いをし、

 

老人の恋には

まゆをひそめます。

 

 

しかし、どちらの反応も

なにかおかしい。

 

 

たしかに、こどもは恋をしても

カップルになったり、性的関係を

むすんだりすることはまだ難しい。

 

 

老人のほうも、

世間的なことを気にして

一歩を踏み出すのを躊躇う。

 

 

しかしどちらの世代でも、

恋愛感情は変わりません。

 

 

ふるえ、希望、期待、欲望

出会いのときの至福感、

苦い失望。

 

 

人間の心の基本的な特性には、

年齢に伴う変化はありません。

 

 

肉体的、社会的な可能性が

変わるだけです。

 

 

ですから、

老人を外見だけで判断するのは

間違いであって、

 

 

内部はかつてと変わらず、

記憶も同じなら、

 

満たされない欲望も、

夢も希望も同じである

ということ。

 

 

身体の機能低下は、

物理的な障害を生むだけです。

 

 

つまり、

老年期になったからといって

自我が変化するわけではなく、

 

いうことを聞かない身体に

閉じ込められた精神が、

不自由を感じるだけ。

 

 

それを苦痛と思うのは、

女性のほうが多いように

思います。

 

 

理由は、男が異性の美に

とらわれやすいからです。

 

 

 

欲望”というのは

安易に消えるものではなく、

 

たとえ身体が不自由になっても、

愛やねたみや嫉妬や恐れは

変わることがありません。

 

 

 

精神はいつまで経っても

衰えることはない。

 

 

 

そこで、”若返りたい”と

切に願う人はいますが、

 

 

それは、愚かでぶざまで

未熟だったかつての自分に

戻りたいのではありません。

 

 

夢も欲求も、積み上げてきた

知識ももった現在の自分を

まったく失うことなく、

 

若さだけを取り戻したい

という願いです。

 

 

身体だけを、力や美に満ちた

若い頃の自分に戻したいという

願い。

 

 

こんなふうに、だれでも再生を

願っているのだから、恋愛への

欲求も消えることはありません。

 

 

 

恋愛は再生であり覚醒である

 

 

 

人は恋に落ちると、周囲を見る目も

まるで子供のようになり、不思議な

驚きで満たされます。

 

 

 

人生を謳歌しようという、

激しい喜びがわいてくる。

 

 

 

それは、いくつになっても

変わることはありません。

 

 

 

 

 

 

最後までお読み下さり

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

今日、来てくださった方との

出会いに感謝いたします。

今日も

ご覧を頂きまして

ありがとうございます。

 

 

 

 

いつも最良の仕事仲間を選び、

誠実で心の寛い友人たちに

囲まれているような人がいます。

 

 

その反対に、

仕事仲間にも友人にも

恵まれていない人もいる。

 

 

仕事の相棒がずぼらだったり

欲深だったりすれば、

当然頭痛の種になります。

 

 

なぜこうした相手を

選んでしまうのか、

 

または、見抜くことが

できなかったのか、

 

 

これは、頭がいいとか悪いか

などという抽象的な問題では

ありません。

 

 

相手の選び方のうまい人は、

社会的知性とか感情的知性

とでも呼べそうなものをもって

いる気がします。

 

 

人間をよく観察して、

まずい相手はきっぱりと

はねのけるという、

 

あるきわだった能力です。

 

 

僕達は誰でも、

他人の気持ちやふるまいを

感知する能力を持っていて、

 

特に、第一印象で相手を

見抜くときに役立ちます。

 

 

初対面の人について

お互いに何も知らなければ、

 

どちらも

相手の行動をありのままに

写すカメラのようになります。

 

 

いっぽう、

もし相手がすでにこちらの望みなり

弱点なりを知ってしまっていれば、

 

 

こちらの望むような面しか

見せてくれません。

 

 

人を選ぶ目を持つ人は、

第一印象をよく呑みこんで、

覚えています。

 

 

物腰は丁寧でも、

自分のことを吹聴するのに

忙しければ、

 

それは

自己主張が強い人です。

 

 

また、だしぬけにした質問への

答え方にはその人が出ますので、

見極める為に相手へなげかけます。

 

 

その後も相手が身構えないように

なごやかに対応をして、ひそかに

抜かりなく観察する。

 

 

そのようにして、

それまでに集めた

印象を吟味します。

 

 

 

いっぽう、

選ぶ目のない人は、

直感を信じません。

 

 

相手の自己宣伝を聞きながら、

そのペースに巻き込まれて

しまいます。

 

 

相手がそれまでの人生や、

自分の能力や、やってきたこと、

やりたいこと、悩みなどを語るのを、

なるほどと聞き入る。

 

 

これを、ただ”心が寛いから”だと

考えるのは間違いかもしれません。

 

 

それよりも、たんにいいところを

見せたいというだけの場合が多く、

 

 

自分の印象をよくしたい、

自分の長所や力量を相手に

示したいと思っていることが

多いです。

 

 

その結果、

貪欲で押しつけがましい相手に、

つけ入る隙を与えてしまいます。

 

 

判断を誤る人のなかには、

とにかく好かれたいという

人たちもいて、

 

 

そういう人は、

自分のまわりでペコペコする連中を

すべて受け入れてしまいます。

 

 

かつての僕が正にそれでした。

 

 

 

また、自分は公平な人物であると、

自分に言い聞かせたくて、判断を

誤る人たちもいる。

 

 

 

以上のことを総合すると、

 

選ぶ目のない人がすべて

もっている欠点は”見栄

 

 

目のある人に共通した長所は

警戒心”であるということが

分かります。

 

 

 

 

 

最後までお読み下さり

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

今日、来てくださった方との

出会いに感謝いたします。