最近,世上をにぎわせています先日のアメリカンフットボールの試合の件ですが,実際に監督・コーチから,選手に対して「相手のクオーターバックを,違反プレーをしてでもつぶせ」というような指示が出ていたとすれば,非常に残念であり,何のためのスポーツかということから問い直さなければならない由々しき問題であると思います。

本来,試合を通じて互いを高め合い,絆を深くしていくことがその本旨ではないでしょうか。相手も,同じ種目を志し,互いに高め合う仲間・同志のはずです。そのような相手に対し,心身に大きなショックを与え,選手生命さえ危うくするような違反行為を施すことがどうしてできるのでしょうか。

剣道では,「交剣知愛」―剣を交えて愛(お)しむを知る―という言葉があり,剣道を通じて互いに理解しあい,人間的な向上をはかることの重要性がいわれています。

 

私も人のことを偉そうに言えたものではありませんが,強い相手に堂々と立ち向かって勝ち得た勝利こそ,実力で得た真の勝利のはずです。相手が強いから,格上だからといって,逃げるならまだしも,卑怯な手を用いて試合不能に陥らせるのであれば,仮に勝ったとしても,それは実力で得た勝利であるはずがありません。互いに理解しあい,人間的な向上をはかるゆえんではないでしょう。

 

どんな手を用いても,とにかく目先の利益をたくさん得たものが偉いという浅ましい精神が拡散しないことを祈ります。それは延いては,人の器量を小さくし,国を亡ぼすもとですから。

 

 

私は全くの門外漢なのですが、知人の方のご紹介で、天満天神繁昌亭で、落語を聞く機会をいただきました。
その知人の方は、中学高校の恩師のご友人で、落語を通じて交流をされているとのことで、全く不思議なご縁で、私も今日の機会をいただいたのです。
先生の以前と変わらぬお元気なご様子は、大変嬉しく思いました。

演目は、小染師匠の「高津の富」、「御神酒徳利」(浪曲の幸枝若師匠とコラボ)などでした。
落語そのものについては、私は明るくありませんが、登場人物の(ある程度の悲哀を含んだ)面白さには改めて考えさせられました。
先日、江戸文化を研究された加太こうじ氏の「落語の犯罪」という著作を古書で入手したのですが、落語には、ドロボウや詐欺師のような人物は確かに登場します。
でも、その多くは、根っからの悪党ではなく、何となく同情してしまう(というより、さらに自分と同じ様な人と感じる)何かを持っています。法律家的にいえば、何とか起訴猶予、執行猶予をつけてあげたいと思うケースが大半です。
犯罪的な行為は決して許されるわけではありませんが、そのあたりの機微を理解できる者でありたいと、今日改めて思ったものです。

片仮名交じりの文語体が残る条文を,漢字平仮名交じりの現代語にする改正商法が,本日の参院本会議で全会一致で可決,成立しました。

これで,六法(憲法,民法,刑法,商法,民事訴訟法,刑事訴訟法)の全領域が現代語になります。

 
六法のうち,憲法,民法のうちの家族法,刑事訴訟法は戦後まもなく現代語になりましたが,その他の法は長らく文語体(漢文体)でした。平成7年に刑法が現代語化されるまでは,いわゆる「六法」の大半が明治時代とほとんど変わらない漢文体で,特に大正時代までに規定されたものは濁点・半濁点さえなかったのですから,隔世の感があります。
平成10年に民訴法,17年に民法,18年に会社法と現代語化が進み,私が司法試験を受験していた頃,条文が様変わりしていったのを想い出します。
 
法律は分かりやすい方が良いですから,普段使っている言葉に近いものになるのは望ましいと思います。ただ一方で,わが国における文語体・漢文体の衰退につながってしまわないよう,心がけたいものです。
古い文体を読むことさえできなくなれば,それは文化の断絶・浅薄化(ひいては滅亡!)を招きますから。
 
 
 

 

法律というものは,その分野によって多少の差はあるものの,ある程度定型化されたものであり,相応の射程範囲を有するものです。

刑法の構成要件はいうまでもなく,民事分野でも,契約類型などは相当に定型化された規定だといえるでしょう。

 

他方,人間社会に起こる様々な問題は,必ずしも典型的なものとは限らず,実に個別性が強いものです。二つとして同じものはないと言って良いでしょう。

 

そこで,定型的な法の規定を,個別性の強い具体的事案にどう適用して解決を図っていくのかが,難しくまた興味深いところといえるでしょう。それほど種類の多くない原材料からヴァラエティに富んだ料理を作ったり,学生が制服を自分に合うように着こなすのにも似ているかもしれません。

ハードケースに出くわした場合,いくつかの制度の組合わせによって妥当な解決を図ったり,制度趣旨に遡って射程範囲を考えたりするところですが,そのような苦心が新たな立法の契機になることもあり,そのあたりの消息もあれこれと考えさせられることは多いものです。

交通事故の被害者の方などが,六法や「赤い本」などを見て,ご自分の損害額を算出して「これくらいの補償額になるはず」といってこられることが時としてあります。ご自分の損害ということもありますから,相当熱心に調査され,理論的には間違いのない結論を出されていることも珍しくありません。

しかしながら,そのような金額が最終的な判決や和解の額になるかといえば,必ずしもそうではありません。例えば,逸失利益について,事故前の年収×労働能力喪失率×満67歳までの年数(あるいは平均余命の2分の1)というのが「公式」ですが,実際には,喪失率を途中から逓減させることや,60歳くらいから後は基礎収入を減じることも少なくありません。

 

交通事故に限らず,いろいろな分野でも,理屈どおり・公式どおりの結論が出るわけではないケースが多々あります。同業の先輩方の中には「法律論や六法の知識は捨てて考えなさい」とおっしゃる方もおられるくらいです。

 

しかしながら,考えてみると法律どおりの結論であればあまりにも杓子定規で酷に過ぎること,あるいは感覚的に何かおかしいことも決してまれではありません。法律の規定は一応の目安として,程よい解決は何かを個別的に考えるのが私たちの仕事なのでしょう。

そういう意味からも,司法研修所教官や先輩弁護士,実務経験のある教授方からしばしば教わってきた「二つとして同じ事案はない」ということは,実に意味深長であると思えます。