今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -43ページ目

今日という日【1月30日】

■日英同盟締結

1902年1月30日。

日英同盟」は、日本とイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)との間の軍事同盟。1902年1月30日調印発効、1923年8月17日失効。

第一次日英同盟」は、1902年1月30日に調印され即時に発効。その後、第二次(1905年)、第三次(1911年)と継続更新され、1923年8月17日に失効した。第一次世界大戦までの間、日本の外交政策の基盤となった。

イギリスは「義和団の乱」以来満州から撤兵しないロシアを牽制したいと考えていたが、イギリス単独ではイギリスの中国における利権の維持にあたるには限界があった。そこで、それまでの「栄光ある孤立」政策を捨て、まずドイツとの交渉を試みるも、ドイツはロシアと手を結んだため失敗し、その後「義和団の乱」で活躍した日本に接近。日本では、「伊藤 博文」や「井上 馨」らがロシアとの妥協の道を探っていたが、「山縣 有朋」や「桂 太郎」、「加藤 高明」らはロシアとの対立はいずれ避けられないと判断してイギリスとの同盟論を唱えた。結果、日露協商交渉は失敗し、外相「小村 寿太郎」の交渉により日英同盟が締結された。

第一次日英同盟」は、締結国が他国(一国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止すること、さらに二国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたもの。また、秘密交渉では、日本は単独で対露戦争に臨む方針が伝えられ、イギリスは好意的中立を約束した。条約締結から2年後の1904年には「日露戦争」が勃発。イギリスは表面的には中立を装いつつ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等で日本を大いに助けた。

第二次日英同盟」では、イギリスのインドにおける特権と日本の朝鮮に対する支配権を認めあうとともに、清国に対する両国の機会均等を定め、さらに締結国が他の一国以上と交戦した場合は、同盟国はこれを助けて参戦するよう義務付けられた(攻守同盟)。

第三次日英同盟」では、アメリカが、交戦相手国の対象外に定められた。ただしこの条文は自動参戦規定との矛盾を抱えていたため、実質的な効力は期待できなかったが、これは日本、イギリス、ロシアの三国を強く警戒するアメリカの希望によるものであった。また、日本は「第三次日英同盟」に基づき、連合国の一員として「第一次世界大戦」に参戦した。

第一次世界大戦」後の1919年、「パリ講和会議」で利害が対立し、とりわけ、国際連盟規約起草における日本の人種的差別撤廃提案が否決されたことは禍根として残り、1921年、国際連盟規約への抵触、日英双方国内での日英同盟更新反対論、日本との利害の対立から日英同盟の廃止を望むアメリカの思惑、日本政府の対米協調路線を背景に「ワシントン会議」が開催され、ここで、日本、イギリス、アメリカ、フランスによる「四カ国条約」が締結されて同盟の更新は行わないことが決定され、1923年、「日英同盟」は拡大解消した。

今日という日【1月29日】

■レンネル島沖海戦

1943年1月29日。

第二次世界大戦中に日本軍と連合軍の間で、南太平洋ソロモン諸島の争奪をめぐり行われた戦闘「ソロモン諸島の戦い」。一連の戦闘の中で大きなものは「ガダルカナル島の戦い」と「ブーゲンビル島の戦い」であるが、このほかにも多くの陸海空の戦闘が行われた。

1943年1月29日、日本軍の偵察機がサンクリストバル島の南でアメリカ艦隊(護衛空母2、重巡洋艦3、軽巡洋艦3、駆逐艦8)を発見。これはギフェン少将の指揮する、ガダルカナル島の部隊の交代要員を乗せた輸送船を護衛する艦隊であった。また、その後方には空母「エンタープライズ」、「サラトガ」を基幹とする艦隊が援護のためにいたが日本軍はこの艦隊は発見できていない。敵艦隊を発見した日本軍は、ラバウル、バラレ、ブカ、ショートランドから触接機を発進させた。

日本の大本営は、戦艦2隻、巡洋艦2隻沈没、戦艦1隻、巡洋艦1隻中破、戦闘機3機撃墜と発表。
アメリカ軍は重巡洋艦1隻沈没、駆逐艦1隻大破の損害を受けたが、輸送船は無事にガダルカナル島に到着できた。日本軍もガダルカナル撤退を察知されることなく作戦目的を達した。

今日という日【1月28日】

■宇宙からの警告の日

1986年1月28日。

宇宙からの警告の日」とは、スペースシャトル「チャレンジャー号爆発事故」に因む。作家の「大江 健三郎」は「治療塔」の中でこの事故を「宇宙意志からの警告」と表現した。

チャレンジャー号爆発事故」は、アメリカ合衆国のスペースシャトル「チャレンジャー号」が射ち上げから73秒後に分解し、7人の乗組員が犠牲になった事故。

機体全体の分解は、右側固体燃料補助ロケット(Solid Rocket Booster, SRB)の密閉用Oリングが発進時に破損したことから始まった。Oリングの破損によってそれが密閉していたSRB接続部から漏洩が生じ、固体ロケットエンジンが発生する高温・高圧の燃焼ガスが噴き出して隣接するSRB接続部材と外部燃料タンク(External Tank, ET)に悪影響を与えた。この結果、右側SRBの尾部接続部分が分離すると共に外部燃料タンクの構造破壊が生じた。空気力学的な負荷により軌道船は一瞬の内に破壊された。
乗員区画やその他多数の機体の破片は、長期にわたる捜索・回収作業によって海底から回収された。乗員が正確にいつ死亡したのかは不明だが、何人かは最初の機体分解直後にも生存していたことが判っている。しかしながらシャトルには脱出装置が装備されておらず、乗員区画が海面に激突した際の衝撃から生き延びた飛行士はいなかった。

乗員の中には宇宙授業計画(en:Teacher in Space Project)による最初の教師として「クリスタ・マコーリフ」が含まれていたため、大勢の人が生中継で射ち上げを見ていた。メディアによる事故報道は大々的なものとなり、ある研究では調査対象となったアメリカ人のうちの85%が事故発生から一時間以内にこのニュースを知っていたという。「チャレンジャー号」の惨事は安全工学や職場倫理の事例研究として多くの場で取り上げられている。