今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -45ページ目

今日という日【1月24日】

■ドモジェドヴォ空港爆破事件

2011年1月24日。

■ドモジェドヴォ空港爆破事件」は、ロシア連邦のモスクワにあるドモジェドヴォ空港で起きた自爆テロ事件

1月24日モスクワ時間午後4時32分、ドモジェドヴォ空港の国際線着陸ターミナルでベルトにTNT換算で5kgの爆発物を身につけた男による自爆テロが発生。35人が死亡、ロシア人以外にタジキスタン、ナイジェリア、ドイツ、スロバキア、モルドヴァ、フランス、イタリア国籍の人々などおよそ180人が負傷。この爆発で空港ターミナルビルには黒煙が立ち込めた。

1月29日、ロシアの捜査当局はインタファクス通信に対して北カフカス出身の20歳の男による実行と断定したが、「ウラジミール・プーチン」首相はチェチェンの分離独立派武装勢力が関与したかどうかについては否定的な見方を示していた。

2月、チェチェン分離独立派武装勢力のカフカース首長国のアミール(アラビア語で「司令官」「総督」を意味する語)の「ドク・ウマロフ」が、イスラム系ウェブサイト「カフカース・センター」で犯行声明を出し、北カフカス地方のロシアからの独立とイスラム国家の建設を目指して今後も「特殊作戦(テロ)」を続けることを表明した。

今日という日【1月23日】

■ラバウル占領

1942年1月23日。

ラバウルは、パプアニューギニア領・ニューブリテン島の都市。パプアニューギニア・ニューブリテン島のガゼル半島東側に位置する、良港シンプソン湾を臨む都市で、東ニューブリテン州の州都でもある。ラバウルはコプラやコーヒー、ココアの産地として有名。

1910年にドイツが建設した街。第一次世界大戦までドイツの統治下にあったが、1914年9月、オーストラリア軍が占領。その後オーストラリアにより統治される。

第二次世界大戦中の1942年1月23日には日本軍が占領、11月20日に着任した「今村 均」陸軍大将などの指揮によって東南方面への一大拠点が築かれる。ラバウル航空隊の基地があり連合軍側からはラバウル要塞と呼ばれた。陸海軍合わせて9万余の日本軍が配置。日本軍は自給自足体制による食料の確保と、堅固な要塞を築き上げていた。これをみた連合軍は、反攻にあたり頑強な抵抗が予想されるラバウルを占領せず包囲するにとどめた結果、終戦時まで日本軍が保持することとなった。また、オーストラリア軍は日本軍占領時に大きな損害を出したためか、他の連合軍に比べ勇猛に戦ったという。

今日という日【1月22日】

■血の日曜日事件

1905年1月22日。

血の日曜日事件」は、ロシア帝国の当時の首都サンクトペテルブルクで行われた労働者による皇宮への平和的な請願行進に対し、政府当局に動員された軍隊が発砲し、多数の死傷者を出した事件。

1905年1月22日は日曜日で、請願行進はガポン神父に主導された。ガポンはロシア正教会の司祭であると同時に、国家秘密警察の給与を受ける工作員であったとも。
請願の内容は、労働者の法的保護、日露戦争の中止、憲法の制定、基本的人権の確立などで、搾取・貧困・戦争に喘いでいた当時のロシア民衆の素朴な要求を代弁したものだった。当時のロシア民衆は、ロシア正教会の影響の下、皇帝崇拝の観念をもっていた。これは、皇帝の権力は王権神授によるものであり、またロシア皇帝は東ローマ帝国を受け継ぐキリスト教(正教会)の守護者であるという思想。このため民衆は皇帝「ニコライ2世」への直訴によって情勢が改善されると信じていた。

行進に先立って挙行されたストライキへの参加者は、サンクトペテルブルクの全労働者18万人中、11万人に及んだと言われ、行進参加者は6万人に達した。当局は軍隊を動員してデモ隊を中心街へ入れない方針であったが、余りの人数の多さに成功せず、軍隊は各地で非武装のデモ隊に発砲した。発砲による死者の数は不明確。反政府運動側の報告では、4,000人以上に達したと主張される。一方、より慎重に概算した報告でも死傷者の数は1,000人以上とされる。事件の話はモスクワ市内に速やかに広まり、市内各所で暴動と略奪が行われた。

ガポンが事件以前から組織していた労働者の集会は即日解散させられ、ガポンは直ちにロシアを離れた。ガポンは同年10月に帰国したが、翌1906年4月に社会革命党によって暗殺された。

この事件の結果、皇帝崇拝の幻想は打ち砕かれ、後にロシア第一革命と呼ばれた全国規模の反政府運動がこの年勃発したとみなされている。この時に始まったロシアの共産主義運動は、1917年のロシア革命二月革命十月革命)の原動力に成長してゆく。