今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -46ページ目

今日という日【1月21日】

■腹切り問答

1937年1月21日。

腹切り問答」とは、1937年(昭和12年)1月21日に日本の議会内で起きた論争。「切腹問答」「割腹問答」とも。

この日、第70回帝国会議において立憲政友会の「浜田 国松」代議士が「近年のわが国情は特殊の事情により、国民の有する言論の自由に圧迫を加えられ、国民はその言わんとする所を言い得ず、わずかに不満を洩らす状態に置かれている。軍部は近年自ら誇称して…独裁強化の政治的イデオロギーは常に滔々として軍の底を流れ、時に文武恪循の堤防を破壊せんとする危険がある」と二・二六事件以降の軍部の政治干渉を痛烈に批判する演説を行った。この時浜田は議員歴30年、前衆院議長という議会の長老で、それだけにこの演説は党派を超えて多くの議員を唸らせるものがあった。

これを聞いた「寺内 寿一」陸軍大臣は答弁に立って「或は軍人に対しましていささか侮蔑されるような如き感じを致す所のお言葉を承りますが」と険しい表情で反駁。ところが浜田が2度目の登壇で「私の言葉のどこが軍を侮辱したのか事実を挙げなさい」と逆に質問をしたため、寺内は「侮辱されるが如く聞こえた」と言い直した。それでも浜田は3度目の登壇で「速記録を調べて私が軍を侮辱する言葉があるなら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ」と激しく寺内に詰め寄った。これに寺内は激怒、浜田を壇上から睨みつけたため、議場は怒号が飛び交う大混乱となった。

政府は収拾策を見出すために天皇に裁可を仰いで議会は翌日より停会となった。寺内は「政党が時局に対して認識不足」として、政党に対し反省を求める意味で議会解散を強く廣田首相に要求、解散しないなら単独辞職すると言い放った。総理はもとより、海軍予算の成立を急ぎたい「永野 修身」海相が寺内の説得に乗り出したが、へそを曲げた寺内は結局これに応じず、広田は閣内不統一を理由に内閣総辞職した。

今日という日【1月20日】

■ズ・ダン号事件

1987年1月20日。

ズ・ダン号事件」は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の民間人11人が船で日本に漂着し亡命を求めた事件。現在の北朝鮮からの亡命を求める脱北者の最初の事例。

1987年1月20日、錆だらけの老朽化した50tの小型船「ズ・ダン号」が福井新港を漂流しているのが発見された。「ズ・ダン号」は海上保安庁によって福井県敦賀市にある敦賀港に曳航され、この時点で事件が明らかになった。「ズ・ダン号」には咸鏡北道清津に住んでいた朝鮮人医師の「金 萬鉄キム・マンチョル)」ら一族11人が乗船していた。当初、日本政府は北朝鮮当局の主張に沿って、彼らを「事故により日本に流れついた漂流民」として扱い、北朝鮮に送還しようとした。日本における事実上の北朝鮮の在外代表である在日本朝鮮人総連合会は仲介者として強制送還の手続きに入ろうとしたが、金医師が「南の暖かい国で自由に生きたい」と亡命の意思表示をし、金一家は総連との面会を拒否。金一族は出身成分の低さから来る差別と貧しい生活から逃れるために北朝鮮を脱出してきた。これは北朝鮮当局の主張とは矛盾したものであった。そのため今度は大韓民国及び在日本大韓民国民団が介入し、一気に事態が紛糾することとなった。これにより南北朝鮮の関係者が敦賀港に押しかけ、南北朝鮮の対立が港の界隈に持ち込まれる事態となり、一時騒然とした。日本政府は金一族の自由意思の確認をおこなった後、人道主義の見地から北朝鮮ではなく第三国へ移送することを決定し、受け入れ国の打診など、国際法に基づく手続きを踏んだ結果、2月1日に中華民国(台湾)国府政府当局が11人の一時受け入れを条件付で認めた。

北朝鮮関連の事件が日本国民の関心事となるニュースになったのはこの事件が初めて。報道においても、北朝鮮に厳しいマスコミがある一方、一家を韓国の工作員で謀略であるとし、親北朝鮮の立場に立つマスコミもあり、日朝関係を懸念する意見もあった。また、この時期は北朝鮮が独裁体制国家に特有の悲惨な状況にあることが、余り認識されていなかった。一方の韓国は当時民主化要求デモで拘束したソウル大学生を警察当局が拷問死させる不祥事を起こしており、南の方の国民感情が良いとはいえないものであった。

今日という日【1月19日】

■極東国際軍事裁判所条例制定

1946年1月19日。

1946年1月19日に降伏文書およびポツダム宣言の第10項を受けて、「極東国際軍事裁判所条例極東国際軍事裁判所憲章)」が定められ、1946年4月26日の一部改正の後、市ヶ谷の旧陸軍士官学校の講堂にて極東国際軍事裁判が行われた。

1928年(昭和3年)から1945年(昭和20年)即ち満洲事変より太平洋戦争大東亜戦争)迄の期間を被告等が全面的共同謀議を行ったなどとして起訴。起訴は1946年4月29日(4月29日は昭和天皇の誕生日)に行われ、27億円の裁判費用は当時連合国軍の占領下にあった日本政府が支出した。
連合国(戦勝国)からの判事としては、イギリス、アメリカ、中華民国、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、ソ連の9ヶ国と、イギリス領インド帝国とアメリカ領フィリピンの2地域が参加した。なお、イギリス領インド帝国は、その名の通りイギリスの属領で事実上の植民地であった。またアメリカ領フィリピンも同様でいずれも独立国家ではないにもかかわらず、宗主国の意向を受けてそれ以外の独立国と同じ地位で参加していた(なおアメリカ領フィリピンは裁判中の1946年7月4日にアメリカから、イギリス領インド帝国は1947年8月15日にイギリスからの独立を果たした)。

1946年5月3日より審理が開始、当初55項目の訴因があげられたが、最終的に10項目の訴因にまとめられた。判決に影響しなかった訴因のうち、「日本、イタリア、ドイツの3国による世界支配の共同謀議」「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため、残りの43項目については他の訴因に含まれるとされ除外された。
なお、連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあり、昭和天皇自身も「私が退位し全責任を取ることで収めてもらえないものだろうか」と言ったとされる。しかし、連合国軍最高司令官総司令部の最高指令官の「ダグラス・マッカーサー」が、様々な助言を受けた結果当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。

1948年11月4日、判決の言い渡しが始まり、11月12日に刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了。判決は英文1212ページにもなる膨大なもので、裁判長の「ウィリアム・F・ウエップ」は10分間に約7ページ半の速さで判決文を読み続けたという。
イギリス、アメリカ、中華民国、ソ連、カナダ、ニュージーランドの6ヶ国の判事による多数判決であった。裁判長であるオーストラリアの判事とアメリカ領フィリピンの判事は別個意見書を提出した上で、結論として判決に賛成した。
一方、オランダとフランス、イギリス領インド帝国の判事は少数意見書を提出した。オランダとフランスの判事の少数意見書は、判決に部分的に反対するものだった。イギリス領インド帝国の判事は「この裁判が国際法からみて問題がある」という少数意見書を提出した。「極東国際軍事裁判所条例」ではこれら少数意見の内容を朗読すべきものと定められており、弁護側はこれを実行するように求めたが法廷で読み上げられることはなかった。

7人の絞首刑判決(死刑判決)を受けたものへの刑の執行は、12月23日午前0時1分30秒より行われ、同35分に終了。この日は当時皇太子だった継宮明仁親王(今上天皇)の15歳の誕生日(現:天皇誕生日)であった。