今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -47ページ目

今日という日【1月18日】

■パリ講和会議始まる

1919年1月18日。

パリ講和会議」は、1919年1月18日から開会され、第一次世界大戦における連合国が中央同盟国の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、国際連盟を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどはパリのフランス外務省内で行われており、ヴェルサイユ宮殿を会場に使ったのは「対独平和条約ヴェルサイユ条約)」の調印式のみであるため正確ではない。

ウッドロウ・ウィルソン」アメリカ合衆国大統領はアメリカ合衆国の参戦前にも「勝利なき講和」を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や秘密外交を基本とするとする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる理想主義的なウィルソンの「新外交」と呼ばれるもの。
秘密外交に対する批判に答えたイギリスの「デビッド・ロイド・ジョージ」首相は、戦争遂行のために「会議による外交」を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に(重要な問題を)論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った。大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していた「ノースクリフ子爵」は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。このため講和会議直前の1918年イギリス総選挙では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。

1918年1月8日、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「民族自決」などを含めた十四か条の平和原則を公表。以降2月11日には「4原則」、9月25日には「5原則」を提示しこれを補強。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った。ドイツ首相バーデン大公子はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で休戦協定が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、十四か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。しかし折からのドイツ革命の進展で、ドイツに共産主義政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ軍国主義の破壊」自体は、内政干渉に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。

しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負ったフランスの「ジョルジュ・クレマンソー」首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。

これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除やロシア内戦等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。

この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降ヨーロッパにおいては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、「ロカルノ条約」で修正されながらも、世界恐慌期後のファシズム勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や国際労働機関の設立、国際河川制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。
また会議で提起された軍縮問題は、ワシントン会議等で協議され、極東と太平洋には「ワシントン体制」と呼ばれる体制が成立した。しかし連合国間の均衡ある軍縮は達成できず、ドイツの武装解除によって大きな力の空白地が生まれたため、秩序維持のための連合国負担が増加することにもなった。また軍縮問題の協議は、やがて日本とその他の国の軋轢を生むことになる。

さらにこの講和会議の原則として提唱されながら、しばしばないがしろにされた「民族自決」「民主主義」の概念は、世界において脱植民地化や民主化の動きを促進することになる。

今日という日【1月17日】

■民撰議院設立建白書提出

1874年1月17日。

民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)」は、前参議「板垣 退助」、「後藤 象二郎」らが、政府に対して最初に民選の議会開設を要望した建白書。自由民権運動の端緒となった文書である。

1873年(明治6年)末、いわゆる「明治六年政変」で、征韓論に敗れて下野した板垣ら前参議は、イギリスに留学して帰朝した「古沢 滋(迂郎)」、「小室 信夫」らの意見を聞き、政党の結成を思い立った。1874年1月12日、板垣らは「愛国公党」を結成し、反政府運動を始めた。「愛国公党」は、天賦人権論に立ち、専制政府を批判して、天皇と臣民一体(君民一体)の政体を作るべきと主張した。そのため、士族や豪農・豪商ら平民に参政権を与え、議会を開設せよとも主張した。

「愛国公党」を結成して5日後の1874年1月17日、「板垣 退助」(前参議)、「後藤 象二郎」(前参議)、「江藤 新平」(前参議)、「副島 種臣」(前参議)、「由利 公正」(前東京府知事)、「岡本 健三郎」(前大蔵大丞)、及び起草者の「古沢 滋」、「小室 信夫」の8人は、連名で「民撰議院設立建白書」を左院に提出した。左院とは、当時の立法議政機関。

民撰議院設立建白書」の内容は、イギリス人「ジョン・レディー・ブラック」による新聞「日新真事誌」に掲載されて広く国民に知られた。政府や明六社は時期尚早として反対したが、以後、同様の建白書が続々と提出されることとなる。
民撰議院設立建白書」は、天賦人権論に立脚しているものの、当時、困窮を極めた不平士族の不満が形を変えて噴出したものであったと言える。しかし、国民各層にはその考え方が次第に浸透して行き、自由民権運動の気運が高まるきっかけとなった。

今日という日【1月16日】

■佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争

1968年1月16日。

佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争」とは、アメリカ海軍の原子力空母エンタープライズの寄港(米軍佐世保基地への入港)に対して発生した、革新政党・団体等を中心とした反対運動。一部では暴動も起こった。「エンプラ騒動」や「エンプラ事件」ともいわれる。

1967年9月、アメリカ政府は日本政府(佐藤栄作首相)に対して「原子力空母エンタープライズの寄港」の申し出を行い、佐藤首相は11月2日に閣議決定した。

1968年1月16日早朝、原子力空母エンタープライズの佐世保寄港阻止闘争に参加する途中、博多駅に下車した全学連学生に対し、待機していた機動隊、鉄道公安職員は駅構内から排除するとともに、検問と持ち物検査を行った。この事件そのものは「博多駅事件」と呼ばれる。
後に、福岡地裁がこの事件を撮影したテレビフィルムの提出を各テレビ局に命じ、報道の自由をめぐって裁判となる(博多駅テレビフィルム提出命令事件)。

そして、1968年1月19日、原子力空母エンタープライズはミサイル巡洋艦トラクスタンとハルゼーを伴って佐世保港に入港した。

左翼を中心とした寄港反対派は、この寄港を「佐世保港が、ベトナム戦争の出撃基地になる」と位置づけ、大々的な反対運動を展開した。反戦運動反核運動の両方の性格を持つ。