今日という日【1月19日】
■極東国際軍事裁判所条例制定
1946年1月19日。
1946年1月19日に降伏文書およびポツダム宣言の第10項を受けて、「極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)」が定められ、1946年4月26日の一部改正の後、市ヶ谷の旧陸軍士官学校の講堂にて極東国際軍事裁判が行われた。
1928年(昭和3年)から1945年(昭和20年)即ち満洲事変より太平洋戦争(大東亜戦争)迄の期間を被告等が全面的共同謀議を行ったなどとして起訴。起訴は1946年4月29日(4月29日は昭和天皇の誕生日)に行われ、27億円の裁判費用は当時連合国軍の占領下にあった日本政府が支出した。
連合国(戦勝国)からの判事としては、イギリス、アメリカ、中華民国、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、ソ連の9ヶ国と、イギリス領インド帝国とアメリカ領フィリピンの2地域が参加した。なお、イギリス領インド帝国は、その名の通りイギリスの属領で事実上の植民地であった。またアメリカ領フィリピンも同様でいずれも独立国家ではないにもかかわらず、宗主国の意向を受けてそれ以外の独立国と同じ地位で参加していた(なおアメリカ領フィリピンは裁判中の1946年7月4日にアメリカから、イギリス領インド帝国は1947年8月15日にイギリスからの独立を果たした)。
1946年5月3日より審理が開始、当初55項目の訴因があげられたが、最終的に10項目の訴因にまとめられた。判決に影響しなかった訴因のうち、「日本、イタリア、ドイツの3国による世界支配の共同謀議」「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため、残りの43項目については他の訴因に含まれるとされ除外された。
なお、連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあり、昭和天皇自身も「私が退位し全責任を取ることで収めてもらえないものだろうか」と言ったとされる。しかし、連合国軍最高司令官総司令部の最高指令官の「ダグラス・マッカーサー」が、様々な助言を受けた結果当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
1948年11月4日、判決の言い渡しが始まり、11月12日に刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了。判決は英文1212ページにもなる膨大なもので、裁判長の「ウィリアム・F・ウエップ」は10分間に約7ページ半の速さで判決文を読み続けたという。
イギリス、アメリカ、中華民国、ソ連、カナダ、ニュージーランドの6ヶ国の判事による多数判決であった。裁判長であるオーストラリアの判事とアメリカ領フィリピンの判事は別個意見書を提出した上で、結論として判決に賛成した。
一方、オランダとフランス、イギリス領インド帝国の判事は少数意見書を提出した。オランダとフランスの判事の少数意見書は、判決に部分的に反対するものだった。イギリス領インド帝国の判事は「この裁判が国際法からみて問題がある」という少数意見書を提出した。「極東国際軍事裁判所条例」ではこれら少数意見の内容を朗読すべきものと定められており、弁護側はこれを実行するように求めたが法廷で読み上げられることはなかった。
7人の絞首刑判決(死刑判決)を受けたものへの刑の執行は、12月23日午前0時1分30秒より行われ、同35分に終了。この日は当時皇太子だった継宮明仁親王(今上天皇)の15歳の誕生日(現:天皇誕生日)であった。
1946年1月19日。
1946年1月19日に降伏文書およびポツダム宣言の第10項を受けて、「極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)」が定められ、1946年4月26日の一部改正の後、市ヶ谷の旧陸軍士官学校の講堂にて極東国際軍事裁判が行われた。
1928年(昭和3年)から1945年(昭和20年)即ち満洲事変より太平洋戦争(大東亜戦争)迄の期間を被告等が全面的共同謀議を行ったなどとして起訴。起訴は1946年4月29日(4月29日は昭和天皇の誕生日)に行われ、27億円の裁判費用は当時連合国軍の占領下にあった日本政府が支出した。
連合国(戦勝国)からの判事としては、イギリス、アメリカ、中華民国、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、ソ連の9ヶ国と、イギリス領インド帝国とアメリカ領フィリピンの2地域が参加した。なお、イギリス領インド帝国は、その名の通りイギリスの属領で事実上の植民地であった。またアメリカ領フィリピンも同様でいずれも独立国家ではないにもかかわらず、宗主国の意向を受けてそれ以外の独立国と同じ地位で参加していた(なおアメリカ領フィリピンは裁判中の1946年7月4日にアメリカから、イギリス領インド帝国は1947年8月15日にイギリスからの独立を果たした)。
1946年5月3日より審理が開始、当初55項目の訴因があげられたが、最終的に10項目の訴因にまとめられた。判決に影響しなかった訴因のうち、「日本、イタリア、ドイツの3国による世界支配の共同謀議」「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため、残りの43項目については他の訴因に含まれるとされ除外された。
なお、連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあり、昭和天皇自身も「私が退位し全責任を取ることで収めてもらえないものだろうか」と言ったとされる。しかし、連合国軍最高司令官総司令部の最高指令官の「ダグラス・マッカーサー」が、様々な助言を受けた結果当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
1948年11月4日、判決の言い渡しが始まり、11月12日に刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了。判決は英文1212ページにもなる膨大なもので、裁判長の「ウィリアム・F・ウエップ」は10分間に約7ページ半の速さで判決文を読み続けたという。
イギリス、アメリカ、中華民国、ソ連、カナダ、ニュージーランドの6ヶ国の判事による多数判決であった。裁判長であるオーストラリアの判事とアメリカ領フィリピンの判事は別個意見書を提出した上で、結論として判決に賛成した。
一方、オランダとフランス、イギリス領インド帝国の判事は少数意見書を提出した。オランダとフランスの判事の少数意見書は、判決に部分的に反対するものだった。イギリス領インド帝国の判事は「この裁判が国際法からみて問題がある」という少数意見書を提出した。「極東国際軍事裁判所条例」ではこれら少数意見の内容を朗読すべきものと定められており、弁護側はこれを実行するように求めたが法廷で読み上げられることはなかった。
7人の絞首刑判決(死刑判決)を受けたものへの刑の執行は、12月23日午前0時1分30秒より行われ、同35分に終了。この日は当時皇太子だった継宮明仁親王(今上天皇)の15歳の誕生日(現:天皇誕生日)であった。