今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -37ページ目

今日という日【2月16日】

■寒天の日

2005年2月16日。

2005年の2月16日に、NHKテレビの番組内で「寒天」が取り上げられたことを記念し、長野県茅野商工会議所と長野県寒天加工業協同組合が制定した。

寒天」は、テングサ(天草)、オゴノリなどの紅藻類の粘液質を凍結・乾燥したもの。日本国内の流通量では2000年以降、工業的に製造された輸入品の数量が従来製法を含む国産品を上回っている。食用のゲル(ゼリー)の材料という点では、牛や豚から作られるゼラチンに似ているが、化学的には異なる物質。

江戸時代初期の1685年、現在の京都府伏見において旅館「美濃屋」の主人「美濃太郎左衛門」が、戸外に捨てたトコロテンが凍結し、日中は融け、日を経た乾物を発見。これでトコロテンをつくったところ、前よりも美しく海藻臭さが無いものができた。
これを黄檗山萬福寺を開創した「隠元禅師」に試食してもらったところ、精進料理の食材として活用できると奨励された。同時に名前を尋ねられたが、まだ決めていなかったためその旨伝えると、隠元は「寒空」や「冬の空」を意味する漢語の寒天に寒晒心太(かんざらしところてん)の意味を込めて、「寒天」と命名したという。

寒天」は、菓子の材料に用いられる他、ほとんどカロリーがないこと、腸において油や糖分の吸収をさまたげることから、ダイエット食品として、また健康食品としても注目されている。

今日という日【2月15日】

■遠距離早期警戒線

1954年2月15日。

遠距離早期警戒線」は、アメリカ大陸北岸の北極圏に設置されたレーダー網のこと。冷戦期にソ連の爆撃機からアメリカ本土を防衛することを目的とした。

1950年代初期までにカナダ南部(パインツリー線)およびカナダ中部(中部カナダ線)にレーダー警戒網が構築されていたが、ソ連の技術力の向上に伴い、より早期の目標補足が必要と判断された。ソ連-アメリカの最短コースは北極を通るものであるので北極圏にレーダー網を構築することとなり、1954年から建設が開始された。レーダー網はほぼ北緯69度に沿う延長1万kmのもの。レーダー基地は63箇所に設置された。無人の基地のほか、数名の整備要員のみが常駐する基地、補給・休養拠点を兼ねる大型基地などで構成された。

今日という日【2月14日】

■近衛上奏文

1945年2月14日。

近衛上奏文」は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)2月14日に、「近衛 文麿」が昭和天皇に対して出した上奏文のこと。

近衛は上奏において敗戦必至であるとして、ソビエト連邦と共産主義革命への警戒と共に、国体護持のために英米との早期和平を主張した。また、この戦争は軍内の革新派の一味による陰謀だと主張し、和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、この一味を粛清し軍部を立て直すべきだと主張した。そのためには軍の人事を行う必要があったが、昭和天皇は「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と答え、近衛の提案は実行されなかった。

「近衛上奏文」で最も着目されているのは、国内情勢の分析で、多くの研究において共産主義革命への恐怖心と、軍部の革新派を主体とする陰謀論とがその特徴として指摘されている。近衛は「二・二六事件」など1930年代中期のテロやクーデターの観察により軍部内の共産化を憂慮しており、1940年(昭和15年)には日中戦争の長期化で革命必至との認識を持っていた。太平洋戦争末期にはこの認識を共有する者が多く現れるようになった。さらに、この認識は軍部の革新派による陰謀論へと転換された。この陰謀論は事実とは異なっていたが、軍部への不信感や「殖田 俊吉」の影響により、近衛は確信を持つに至った。また、1941年(昭和16年)9月から翌年4月にかけて「リヒャルド・ゾルゲ」を頂点とするソ連のスパイ組織、「ゾルゲ機関」が摘発されており、近衛内閣のブレーンとして活動した「尾崎 秀実」も逮捕されている。「藤田 尚徳」侍従長(上奏当時)は「ゾルゲ事件」の近衛の対共産党政策への影響を指摘しているが。この事件が陰謀論を生む背景になった可能性も否定できない。陰謀を強調したことに政治的意図を見出す見解もある。

なお、「ゾルゲ事件」で逮捕された、「尾崎 秀実」は、「敗戦革命論」に沿う形で日中戦争を強力に推進する論陣を張った近衛のブレーンでコミンテルンの工作員であり、また、近衛自身も首相として、1938年(昭和13年)に中国国民党政府との和平交渉を打切り、「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とする第一次近衛声明を国内外に発表するなど、日中戦争の拡大と長期化、日米戦争を導いたことについての重大な責任を負っている。

国際情勢の分析においては、ソ連への警戒を強く打ちだし、ソ連を通じた和平交渉に否定的であった。米英の戦争目的が軍部の解体にあり、国体にはないことを認識していたために、近衛は米英との直接交渉を望んだのであった。こうした分析は当を得ていたといわれる。