今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -35ページ目

今日という日【2月21日】

■四畳半襖の下張事件

1973年2月21日。

四畳半襖の下張事件(よじょうはんふすまのしたばりじけん)」とは、性的描写のある文学作品を雑誌に掲載したことによりわいせつ文書販売の罪が問われた刑事事件。わいせつの概念が問題となった。

月刊誌「面白半分」の編集長をしていた作家「野坂 昭如」は、「永井 荷風」の作とされる戯作「四畳半襖の下張事件」を同誌1972年7月号に掲載。これについて、刑法175条のわいせつ文書販売の罪に当たるとされ、野坂と同誌の社長「佐藤 嘉尚」が1973年2月21日起訴された。被告人側は「丸谷 才一」を特別弁護人に選任し、「五木 寛之」「井上 ひさし」「吉行 淳之介」「開高 健」「有吉 佐和子」ら著名作家を次々と証人申請して争い、マスコミの話題を集めたが、第一審、第二審とも有罪(野坂に罰金10万円、社長に罰金15万円)としたため、被告人側が上告した。

上告棄却。最高裁判所1980年11月28日第二小法廷判決は、「チャタレー事件」判決を踏襲する形で、そのわいせつ性の判断について次のように判示した。

「文書のわいせつ性の判断にあたつては、当該文書の性に関する露骨で詳細な描写叙述の程度とその手法、右描写叙述の文書全体に占める比重、文書に表現された思想等と右描写叙述との関連性、文書の構成や展開、さらには芸術性・思想性等による性的刺激の緩和の程度、これらの観点から該文書を全体としてみたときに、主として、読者の好色的興味にうつたえるものと認められるか否かなどの諸点を検討することが必要であり、これらの事情を総合し、その時代の健全な社会通念に照らして、それが「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」(前掲最高裁昭和三二年三月一三日大法廷判決〔チャタレー事件判決〕参照)といえるか否かを決すべきである。」

今日という日【2月20日】

■バリ島沖海戦

1942年2月20日。

バリ島沖海戦」は、太平洋戦争(大東亜戦争)中の海戦。1942年2月20日夜明け前に、連合国軍艦隊が日本軍のバリ島攻略船団を攻撃したが撃退された。アメリカ軍呼称は「バドゥン海峡海戦」。

サヌール泊地を出港しようとしていた、日本軍駆逐艦「朝潮」が、オランダ海軍軽巡洋艦「デ・ロイテル」と「ジャワ」を発見。20日00:00頃、2隻の軽巡が「朝潮」に対し砲撃を開始して戦闘が始まった。「朝潮」も反撃したが、出航直後で速度が上がらず見失った。先に出航していた「大潮」も「デ・ロイテル」と「ジャワ」に対し砲撃を開始し、この軽巡2隻は戦場を離脱。さらに、「大潮」は、後続の「ピートハイン」に対し魚雷を発射して撃沈した。
「デ・ロイテル」と「ジャワ」の2隻を追撃していた「朝潮」と「大潮」は、数分後に「フォード」と「ポープ」を発見。交戦の後、「フォード」と「ポープ」も離脱を開始した。
03:10、軽巡「トロンプ」を中心とした2つ目の部隊が到着し、「大潮」と「朝潮」に発見されて交戦を開始した。一時、連合軍艦隊がバリ島の影に隠れたため見失ったが、03:41に再び戦闘となり、「大潮」(小破)と「トロンプ」(中破)がそれぞれ損傷した。
戦闘発生を知り応援のためバリ島へ戻ってきた「荒潮」と「満潮」は、「スチュワート」と「エドワーズ」に遭遇して03:47に交戦を開始。この戦闘で「満潮」が大破し、「スチュワート」が小破した。

以上の戦闘で連合軍艦隊はすべて戦場を離脱し、海戦は終了した。
連合軍は戦力的には優勢であったが、多国籍艦隊のため連携がうまくいかず、日本軍に撃退され攻撃は失敗に終わった。
この後にも、連合軍艦隊と日本軍船団が交戦するという類似の状況の「スラバヤ沖海戦」と「バタビヤ沖海戦」が発生し、連合国軍艦隊は壊滅する。

今日という日【2月19日】

■青梅事件

1952年2月19日。

青梅事件」は、日本国有鉄道(国鉄)青梅線小作駅で起きた列車暴走・衝突事故をいう。

2月19日の早朝、小作駅構内に留置してあった4両の貨車が動き出し、そのまま傾斜のある本線に流出した。暴走した貨車は羽村駅を通過し福生駅の引き込み線に入って停車中の貨車に激突、大破した。

国鉄は当初、人為的なミスとして内部処理したものの、青梅線では前年の1951年9月から12月に至るまで列車妨害が連続して発生していたことに加え、ほぼ同時期に無人列車が暴走して6人の死者を出した「三鷹事件」が発生したことなどから警察は日本共産党関係者の犯行を疑い捜査。翌1953年に青梅・羽村・福生の共産党活動家他10人を鉄道従来妨害の容疑で逮捕し、起訴に踏み切った。

第1審および控訴審では、被告全員に有罪判決が下ったものの、その後国鉄の事件記録が発見されたり、有罪の決め手となった自白が拷問によるものと判明。1966年に最高裁判所は審理を東京高等裁判所に差し戻し、2年後の1968年に被告全員の無罪が確定した。