今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -39ページ目

今日という日【2月10日】

■三矢研究問題化

1965年2月10日。

三矢研究」は、1963年(昭和38年)に自衛隊統合幕僚会議が作戦研究で極秘に行っていた机上作戦演習(シミュレーション)で正式名称は「昭和三十八年度総合防衛図上研究」。
紛争発生を想定したオペレーションズ・リサーチであり、統幕会議が昭和38年に図上研究として行った。統裁官は統幕事務局長「田中 義男」陸将を長とし、統合幕僚会議の佐官級16人、研究部として陸海空の幕僚監部から佐官級36人が参加。1963年2月1日から6月30日まで行われた。
概略としては、まず朝鮮半島で武力紛争(第二次朝鮮戦争)が発生し、これが日本に波及する場合を想定し、これを例題として非常事態に対する日本防衛のための自衛隊の運用並びにこれに関連する諸般の措置及び手続きを統合の立場から研究することを目的とした。

1965年(昭和40年)2月10日の衆議院予算委員会において社会党の「岡田 春夫」がこの研究の存在を発言し、一般的に研究の存在が知れ渡った。その後衆議院で「松野 頼三」を小委員長とする「防衛図上研究問題に関する予算小委員会」が設けられ、11回にわたって集中的に問題点の追求が行われた。

三矢研究」を実施したのは第二次池田内閣第二次改造内閣の防衛庁長官「志賀 健次郎」の時期で、同研究が発覚した1965年当時の第一次佐藤内閣の防衛庁長官は「小泉 純也」であった。また1978年には「栗栖 弘臣」が所謂「超法規発言」で統合幕僚会議議長を解任されている。しかし解任の二日後には「福田 赳夫」が「三原 朝雄」に「有事法制研究」を命じた。
そして「三矢研究」発覚から26年後の1991年、ソビエト連邦は崩壊してロシアと独立国家共同体に分解。38年後の2003年、「小泉 純也」の息子である「小泉 純一郎」が内閣総理大臣時代に、「武力攻撃事態法」が制定された。

今日という日【2月9日】

■バレーボール考案

1895年2月9日。

バレーボール」が、テニスをヒントに女性や子どもが気軽に楽しめるレクリエーションとして1895年2月9日、アメリカ合衆国の体育教師「ウィリアム・G・モーガン」によって考案された。このころのルールは非常に単純で、試合に集まった人たちを同じ数の2チームに分けて、ボールを打ち合い、ボールを落としたほうが負けというものであった。

1896年、モーガンはこの新ゲームをスプリングフィールドで開催されたYMCA体育指導者会議の際に公開。モーガンは当初このゲームを「ミントネットMintonette)」と名付けたが、後にハルステッド(YMCAトレーニングスクール教官)の提案を受け、名称を「バレー・ボールvolley ball)」に改めた。1952年に現在のように「バレーボールvolleyball)」と一語で表すようになった。

バレーボール」は各地に点在するYMCAを通じてアメリカ全土に広まっていき、1900年にカナダ、1906年にキューバに紹介された。
日本に紹介されたのは1913年のことで、YMCA体育主事の「F.H.ブラウン」によってもたらされた。この頃はまだしっかりとルールが出来上がっていなかったので、日本において独自にルールが作られていった。チームの人数は最初は16人で、12人に変わり、続いて9人となり現在の「9人制バレーボール」に近いものが出来上がった。
ヨーロッパに紹介されたのは1920年ごろで、第一次世界大戦で渡欧したアメリカ軍兵士によってフランスからイタリア、チェコスロバキア、ポーランド、ソビエトへと普及していった。このころにはチームの人数も6人と決まっており、すでに現在の「6人制バレーボール」に近いものが出来上がっていた。ソビエトでは1925年にロシア共産党の中央委員会が「100万人のバレーボール」のスローガンを掲げソ連バレーボール協会を設立し、本格的にバレーボールの発展に取り組んだ。

バレーボール」は世界各国のYMCAを通じて国際的に普及し、1924年パリ五輪でアメリカのスポーツとして紹介された。1947年には「国際バレーボール連盟」が結成され、アメリカ式のルールを修正し国際ルールができあがった。

今日という日【2月8日】

■日露戦争勃発

1904年2月8日。

日露戦争」は、1904年(明治37年)2月8日~1905年(明治38年)9月5日の間、大日本帝國とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満州南部を主戦場として発生した戦争。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、「ポーツマス条約」により講和した。

日露戦争」は20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、また二国間のみならず帝国主義(宗主国)各国の外交関係が関与したグローバルな規模をもっていた。このことから、「日露戦争」は第0次世界大戦であったともいわれる。

~戦争目的と動機~
・大日本帝國
三国干渉及び義和団の乱後満洲を勢力圏としていたロシア帝国による朝鮮半島への南下(朝鮮支配)を防ぎ、日本の安全保障を目的とした戦争。

・ロシア帝国
遼東半島の旅順、大連租借権等の確保と満洲および朝鮮における自国権益の維持・拡大を目的とした戦争。

日露戦争」の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。2月10日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた。2月23日には日本と大韓帝国の間で日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書が締結される。
ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロパブロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開する。これに対し日本海軍は第三艦隊に代わり「上村 彦之丞」中将率いる第二艦隊の大部分を引き抜いてこれに当たらせたが捕捉できず、ウラジオストク艦隊は4月25日に日本軍の輸送艦金州丸を撃沈している。この時捕虜となった日本海軍の少佐は、戦後免官となった。