ワンダヴィジョン(2021)
(ドラマシリーズ)
※ネタバレあり
【映画の力】

突然ですが、私は映画が好きです。それはそうです。映画レビューなんて、書いているんですから。
自分とは異なる世界を生きる人間、遠く離れた国、異なる時代の文化普通に過ごしていなかったら交わることのないもの同士を結び付け、時に新たな発見を与えたり、時に迷う背中を押したり・・・
映画には、人を前向きにする様々な力があります。私はそう信じます。しかし、大きな力を持つものに、負の側面がついてまわるのも、また事実でしょう。
善意は、些細なきっかけで悪意へ転化します。薬は、使い方を誤れば毒になります。認めるのは辛いことではありますが、映画にもやはり、負の側面はあります。
その一つは「幸せの形を一つに定義してしまうこと」映画を通じて希望を唱え続けてきたマーベル映画。長い歴史において1作のみ、そんな映画の負の側面を扱うものがあります。
それが、「ワンダヴィジョン」アベンジャーズのメンバー、スカーレット・ウィッチ=ワンダ・マキシモフ。そしてヴィジョンを主役に迎える連続ドラマシリーズです。
【ワンダ、喪失の歴史】

はたして、ワンダが安らげた時間はどれほどあったのでしょうか
幼少のころ家族全員が戦争に巻き込まれ、兄のピエトロと共に生還するも、両親を失います。
その後、戦争の兵器を作ったトニー。そして彼の率いるアベンジャーズへの復讐のためヒドラの人体実験に参加。超人的な魔術を身につけます。
その後の紆余曲折を経て、アベンジャーズと協力し、ウルトロンの脅威に対抗、ヒーローとしてのアイデンティティ獲得の矢先に兄のピエトロが戦死します。
家族を失い続けた心の虚無を埋めるが如くアベンジャーズとして人命救出活動に邁進しますが、一瞬の判断ミスにより、次は自らの手で民間人に犠牲者が生まれます。世間の非難にさらされる彼女。やがて訪れる宇宙存亡を巡る戦いにおいて、長きににわたりワンダを支え続けたヴィジョンまでもが命を落とします。
マーベルは映画と映画を繋ぎ壮大な世界を紡ぎます。その中で描かれるのは基本的にヒーロー達の成長です。
しかし、ワンダは異なります
映画が積み重なるほどに
彼女の喪失も広がります。
マーベル映画は
ワンダの喪失の歴史ともいえます。
「エンドゲーム」を経て、全てを失った彼女。そんな彼女が最後にすがるもの、それが幼少期の家族の思い出、そしてそれを象徴する「映画」です。
【理想の世界、そして別れ】

ドラマの終盤、ワンダは回想します。家族で「映画」を見るのが好きだった。特に家族の団欒を扱う「シット・コム」が好きだった。
それは
過酷な運命に放り込まれる前の
最後のモラトリアム。
決して取り戻せない「幸せ」への憧憬。
それが、彼女を暴走させたのです。
ヴィジョンを喪失したことで、心の安定を失った彼女はアメリカの郊外、ヴィジョンと過ごすことを夢見た場所へ向かいます。そこで彼女は、幻想を構築します。近隣住民を操り、衣装と建物を再現し、そして、ヴィジョンを復活させ・・・
理想の「映画」シットコムの世界を再現します。
魔術師のワンダが映画の魔術に囚われていたというのは皮肉でもあります。「画一的な幸福像」に囚われてしまうというのは「普通の人々」(1980)、「アメリカン・ビューティー」(1999)を想起します。
ワンダの作った世界は理想でありますが
停滞した世界でもあります。
幼少期に彼女を支えてくれた「映画」の世界、それは今や、彼女の幸福を固定化し、前進を阻害するものとなってしまいます。人命救助のためのモニカ・ランボーの奮闘もあり、ほころびの生まれた世界でヴィジョンはワンダに目を覚ますように説得します。その言葉は、戦死したヴィジョンの残留思念か、それとも、ワンダの深層心理か。
やがて黒幕との戦いを制した、ワンダは自らの行いを反省し、支配していた住民を開放します。苦しみゆえの暴走であっても自らの責任を自覚するワンダは、住民の非難を反論せず一身に引き受け、その場を後にします。
美しい過去の記憶に、それを象徴する映画の文脈に囚われた彼女。開放されて歩む道の先には、両親も、兄も、ヴィジョンもいません。今や、ヒーローとしての使命さえもありません。
「映画」や「ドラマ」のような救済もなく、目的もない、そんな道を歩みただ生きる。あまりにも切なく、悲しい姿。そんな彼女の姿はどこか、伏線もなく、明日の予測もできない、そんな厳しい現実を生きる私たちに重なるように思えます。
虚構のフレームの取り払われた空はどこまでも広がり、どこかで、私たちの見る空に繋がるのかも知れません。





