明治初期立法府の変遷(6機関)の覚え方 | 東海林直人のゴロテマ日本史ブログ

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*受験生を応援したいと思っています。これらは勤務校の教え子に紹介してきたものですが、全国の受験生に紹介し、少しでも役に立てばと思います。なおゴロ句は苦労の発明品につき、無断複製・転載は禁止です。

□明治初期(太政官制の下の)立法府の変遷(6機関) ◇B
[ゴロ]犠牲者ぶる/格好つけ主義下げろって
議政官(ぎせいかん)の)(局(かきょく)・議所(こうぎしょ)・集議院)(院(さいん)・元老院・国議会)

[句意]犠牲者ぶって格好をつける主義を下げろ、やめろって、という句。


[ポイント]

1.立法府にあたる部署は議政官の下局公議所集議院 左院元老院帝国議会と変遷。

[解説]

1.1868(明治元)年閏4月に、政体書を制定して政府の組織を整えた。すなわち、国家権力を太政官とよぶ中央政府に集めた。

2.政体書は、アメリカ合衆国憲法を模倣した三権分立制をとり入れ、高級官吏を4年ごとに互選で交代させるなど、多分に形式的とはいえ、欧米的な近代政治の体裁をとった。


3.実際には、太政官における立法と行政との区別は明瞭ではなく、官吏の互選1回実施されただけで終った。


4.立法機関とされた議政官は当初、議定・参与からなる上局と、各府県・各藩選出の貢士からなる下局から構成される二院制だった。


5.版籍奉還後の、翌1869(明治2)年6月,太政官2官6省制になり、下局公議所となり、さらに集議院へと再編成された。


6.1871(明治4)年7月、太政官の規模を拡充し正院右院左院三院制と再編成された。


7.左院は立法についての諮問機関で、官選の議員で構成。


8.1874(明治7)年1月、民撰議院設立建白書左院に提出された。


9.1875年の大阪会議での大久保利通・木戸孝允・板垣退助らの妥協によって漸次立憲政体樹立の詔が出され、左院・右院にかわり元老院・大審院がおかれ三権分立の形式がとられた。


10.1890年、帝国議会開設により元老院も廃止された。


〈2013中大・中大・法(国際企業関係法):「b.民撰議院設立建白書は、行政上の諮問機関である右院に提出された。(×:左院)」〉


〈2013中大・中大・法(国際企業関係法):「下線部②漸次立憲政体樹立の詔に関連する説明文として正しいものにはイ、誤っているものにはロをマークしなさい。

a この詔に基づき1890年に国会を開設することになった。(×ロ漠然と立憲政体への移行方針を示したもので、まして国会の開設などの時期は明示されてない。)
b この詔に基づき、大審院・元老院・地方官会議が設置された。(〇イ)
c 大阪会議を主宰したのは、内閣総理大臣大久保利通だった。(×ロ内閣制度が始まるのは1885年、大久保は1878年に暗殺されている。)〉

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