□262.能狂言(世阿弥の能楽3書)文化史◇C
[ゴロ](世阿弥が)家伝(かでん)の/進学談義/書きよった
(花伝書)(申楽談儀(さるがくだんぎ))(花鏡(かきょう))
[句意](世阿弥が)家に代々伝わる進学談義を書きよったぜ、という句。「談義」とは、物事の意義・内容などをやさしく説くこと、また、その話のこと。「儀」の字にも注意。
[ポイント]
1.世阿弥の能楽書に、『風姿花伝(花伝書)』『申楽談儀』『花鏡』がある。
[解説]
1.観世座に出た観阿弥(1333~84)・世阿弥(1363~1443?)父子は、将軍義満の保護を受け、洗練された芸の美を追求して、芸術性の高い猿楽能(能・能楽)を完成した。
2.観阿弥・世阿弥父子は、能の脚本である謡曲を数多く著すとともに、世阿弥は、物まねや話芸を主体とするものから、歌舞中心の幽玄(優美)な能へと、総合芸術として大成させた。
3.世阿弥関連の能楽書には、『風姿花伝』(花伝書)・『花鏡』・『申楽談儀』がある。『風姿花伝』では能の真髄をのべている。『花鏡』は、『風姿花伝』以後約20年の著述を集めた能芸論書。『申楽談儀』は、世阿弥の芸談を次男が筆録した書。
〈2013同志社大学・法グロコミュ:「
能楽の観世座の創始者を父にもつ彼は、12歳の時、父が京都今熊野において興行した猿楽に出演し、見物していたc将軍足利義満の目にとまり、以後、義満の愛顧を受けることになった。その美童ぶりと猿楽の芸の巧みさに加えて、連歌や蹴鞠にも非凡な才能を示し、義満の一層の寵愛を得て、さらに公家の代表者であるエ)二条良基にも目をかけられた。
至徳元年(1384)に父が没して家督を継ぐが、すでに稚児時代のような義満の独占的な愛顧は失われていた。情趣本位の近江猿楽が好まれるようになったからである。それでも、応永6年(1399)には、京都一条竹鼻で義満後援による3日間の勧進能を興行し、時のオ)将軍足利義持も観覧しているので、すでに名人としての評価を得ていたのである。この頃に代表的な芸術論の執筆を開始した。
近江猿楽に大きな影響を受けた彼は、物まね芸から歌舞中心に芸風を転換させた。義満が没し、禅に傾倒した義持の時代になると、知性と洗練された趣昧を有し、高度の鑑賞眼を持った上層武家を相手に、動作表現の美を極限まで昇華した身体表現を追求すると同時に、演劇的思考を深化させ、夢幻能形式を完成した。
カ)60歳で家督を長男に譲って出家した後、能楽理論書を次々に執筆した。しかし、応永35年(d正長元年、1428)義持が没し、義教が将軍になると、一家は圧迫を受け、永享6年(1434)には佐渡に流されたり、長男が急死したりするなど、晩年は不遇であった。
【設問】
問c.建武3年(1336)に生まれ、若くして僧籍に入り、後に明に留学して文名を挙げ、帰国の後には義満に重んじられ、義堂周信とともに五山文学の双璧と称された禅僧の名を記せ。
問エ.1372年に成立し、連歌の規則を集大成した二条良基の著書を選べ。
1『節用集』 2『塵芥集』
3『山家集』 4『応安新式』
問オ.義持と同じ時代に生き、京都大徳寺の住持となった禅僧を選べ。
1夢窓疎石 2一休宗純
3無学祖元 4蘭渓道隆
問カ.60歳以後の彼の談話を、次男の元能が筆録し、永享2年(1430)に完成した能楽の芸道論の書名を選べ。
1『花鏡』 2『閑吟集』
3『風姿花伝』 4『申楽談儀』
問d.正長の土一揆をひき起こすきっかけをつくった近江の職業集団の名称を記せ。」
(答:c絶海中津、エ4、オ3、カ4、d馬借)〉