全48話完走! 実に見応えのある、充実した作品だった。
 そうはいっても途中後味の悪い回の連続だった。脚本家本人が「びっくりするほど陰惨で暗い」と評している。これは心身ともに病院通い(マジで)の身に良くないのではと(しかも日曜夜に)挫折しかかったが、日曜夜の本放送を見ないで、録画して昼間に見るなどの工夫をして乗り切った。特に終盤は楽しんでみられた。

 ラストが口あんぐりものの陳腐さだった前作「麒麟がくる」(途中から見た)。大勢の家臣を巻き込んで、自ら信じるところに従いながら(この作品ではそう描いていた)、惨めな最後を迎える光秀がその死に際し何を思うか、どう描くのかが脚本家の腕の見せ所だと楽しみにしていたら、最も退屈で旧弊な締めが選択されててビックリ。ダサッ。「あれはもしや光秀様…?(マボロシ?)」的な。山中で泥にまみれて農民の手にかかる光秀が何を思うのか、どんな様子なのか、その寸前までの描写でも構わない、山崎の合戦というものがある以上、その「大いなる悲劇」に向かって作者は自ら思い描いた光秀を胸に熱く筆を進めているものとばかり思っていたら、そこはスルーの目ぱちくりラスト。一年かけてコレ?! コロナ禍とか沢尻エリカの件とかが影響してあの始末とも思えず。本当に作者はあれで納得してるのか。

 では鎌倉殿のラストをどう評価するか。うーん、麒麟より遥かにマシだけど、作者の意図がミエ過ぎと言うか、作意が前面に出すぎでちょっと白けたかなあ。このおばはん、どうしたら気に入るんだと言われそうだけど、要はちょっと「やりすぎ」。そもそも「ドラマなんだから」って感じで過程はOKだし、かなりうまいことやってきた印象だけど、事ラストに限っては、変な言い方だけど、もちっと「史実っぽく」出来なかったか。あれじゃあちょっと「作り事感」がすぎる。ラストで描こうとしていたことは共感できる(麒麟とは大違い)。義時の泰時への思い、もう自分を変えられない義時を哀れに思う政子。同時にあえて目を背けていた事実を不意に、鮮烈つきつけられる。義時が泰時を思ってわが身を犠牲にするのはいいが、政子の息子はこの弟の指示で血祭りにあげられたと頼みもしないのに自ら告白(念押し)してきた。
 でもあそこまで(解毒剤のくだり)あざとくやらなくてもそれは描けた気がしてならない。ラストになって登場人物を押しのけ、作者が前面に押し出てきた印象。素直に受け止められなかった。二人芝居の舞台劇を見せられている感じ。”事実”というよりえらく「芝居がかっている」。
 こうなると三谷氏が光秀主役のドラマを書いたら面白くなりそうな気がする。彼なら光秀の「最期」まで描き切るだろう。見てみたい。真田丸でハコちゃんが光秀演じてたけど、さすがにハコちゃん主演はないけどさ。

 考えると歴史ドラマの締め方って難しいな。歴史ドラマ以外も含めれば、人生これまで見た連続物の中で(1970年生)最も衝撃的な最終回といったらアニメ「巨人の星」だ。あれを超える迫力のラストにはまだ巡り合っていない。ホームベースの前で力尽きる伴忠太、一徹に背負われて球場を後にする飛雄馬。子供心にあの男の生きざま、絆の在り方はショッキングだった。人生というものの深さ、厳しさ、人間の業に子供ながら(子供だからか)さらされた気がした。ちなみに「あしたのジョー」とは縁がなくここまで来てしまった。ラスト含めた評判はよく聞くが。次いで「キャンディ・キャンディ」。また漫画。これは原作のほうね。私はリアルタイムで「なかよし」を購読していた。アルバートさんがウイリアム大叔父様であり、かつ丘の上の王子様とは少しも気づかない小学生の私。長い物語でありながらすごくキレイに伏線が回収された。それでアルバートさんとキャンディがいい仲になって終わりじゃないのも上品でよい。その可能性は漂わせてね。そうなると思い出されるのが「ガラスの仮面」。あれほんとに終わる日が来るのか。
 

 


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