「こんにちは、よくここが分かりましたね、先生。」

 

安心して話せる相手に久々に会い、2人に笑みがこぼれた。だが、すぐにそれは消えてしまった。

 

「すみません、先生。色々とお力添えしていただいたにも関わらず、こんな結果なってしまって…。」

 

ばつの悪い表情で、若菜たちの尽力に応えられなかったことを良太は詫びた。すると、若菜の口からこの間のいきさつが伝えられた。

 

「良太さん、愛さん、今日はお二人にお願いがあって来ました。東京に一緒に戻ってきてください。話し合いの機会を作りました。」

 

2人は驚いた様子であった。しかし、無力感を押さえるかのような様子で、再び話し始めた。

 

「そうでしたか、そこまで…。しかし、もう手遅れです…。僕たちはここで、2人で生きていくって決めましたので…。」

 

諦めている2人を、若菜は必死の思いで説得した。2人が悔いを残さないように…。そんな気持ちからであった。

 

「お2人とも本当は気づいている、このままじゃ、例え2人で幸せを築いていけたとしても、本当の意味で祝福されたものにはならないって…。説得の最後のチャンスだと思って、話し合いの場に来てください!」

 

「分かりました…。多分、そう上手くはいかないとは思いますが…。」

 

良太たちと同じ心配は、若菜にもあった。そして、そういうことに限って、現実になってしまうのであった。

 

「とにかく、2人の交際には反対だ!」

「絶対に釣り合いません!」

 

「どうして私たちを認めてくれないの…!」

「僕たちも、努力します。お願いします、僕らのことを認めてください!」

 

そんな虚しいやりとりが、延々と続いていた。その様子は、和輝が同席していなければ、力ずくで引き離されていたかもしれなかったものであった。

 

話し合いが平行線のまま、お互いに疲れが見え始めた時であった、和輝がこの場で初めて口を開いた。

 

「話が平行線になってしまってきているし、そもそもの発端まで振り返ってみるか。親父さんにお袋さん、2人とも、子どもの幸せを何よりも願っているはずだ。そこに違いはないはずだ。で、1つだけ尋ねたい。そう考えたとき、お互いにその存在をこれほどまでに大切に思っている者同士を引き裂くことが、子どもの幸せに繋がるかい?力ずくで無理に思い通りにしたとして、今回の展開のように、悲しみと後悔以外に、そこに何か残るものはあるのかい?」

 

和輝の投げかけに、徹也と美由紀は少し平静さを取り戻し始めた。2人にとっては、だからこそこの結婚に反対の立場であった。しかし、これまでのように、ただ感情が優先して反対するだけではなく、何のための反対なのかも、この時思い出した。

 

2人が「目的」を思い出したと感じると、和輝はすかさず、愛と良太にも覚悟の程を尋ねた。

 

「もちろん、そうは言っても後継者や家柄という『オトナの事情』もある。気持ちだけじゃ乗り越えるのが困難な場面もあるだろう。そんな時でも、支えて乗り越えていく気概があるか、2人にも求められるけどな。」

 

しばしの沈黙が部屋の空気を支配した。緊張感で張り詰めた空気をまず破ったのは良太であった。

 

「僕には、機械での作業はまだできません。工場の現場で作業する時間もまず確保ができないです。それでも、事務・経営面についての見識は活かせる強みだと思っております。できることは全面的に協力していきます。グループの経営も今までどおり、いや、今まで以上に全力で取り組みます。ですから、愛との交際を認めてください!」

 

良太に続けて、愛も自らの決意を話し始めた。

 

「私も、良太さんのパートナーとしては、まだまだ至らないところがあります。名家としての立ち居振る舞いを学んで、彼にふさわしい女性になってみせます。どうか、私たちのことを認めてください!」

 

良太と愛の覚悟に、2人の強い絆を徹也と美由紀は認めざるを得なかった。

 

「そこまでの決意があるのなら…」

 

「認めざるを得ないな…」

 

長かった1週間は、こうして2人の3年越しの想いを実らせた。決して揺るがない決意と覚悟によって、ようやく良太と愛は交際を認めてもらえることとなった。

 

数日後、和輝は朝からムンクのような顔をしてミーティングルームに入ってきた。理事長から壊したついたてと壁の修理代の請求書が渡され、相当な金額が飛ぶことになったのだ。当然、その埋め合わせは和輝の小遣いからであり、小遣い半額カットが約3ヵ月となったのである。せっかくの夏に娘たちと出かける機会が減ることを、和輝は大いに嘆いていた。

 

一方で、良太と愛の交際はあれから順調であった。もちろん、工場同士の独自のきまりや細かいテーブルマナーなど、思い込みや不慣れな場面で上手くいかないときにもしばしば直面した。それでも、夜遅くまでの作業に加わったり、同じ習い事を始めたりするなど、公私共にお互いの環境を理解しようと積極的に関係を深めていき、真摯なその姿から相手の両親への理解を得て、悪戦苦闘しながら交際を重ねていったのであった。

『父さん、母さん、わがままな私たちの親不孝をお許しください。私にとって、良太さんのいない人生は考えられないのです。2人で、誰も見知らぬ土地で生きていきます。もし、いつか再会できた時に、幸せな家庭を築いている私たちを認めてくれたならば…そんな勝手な願いが、最後のわがままです。今までありがとうございました。父さん、母さん、愛しています。』

 

この状況に、徹也は悲しみと怒りで気が動転しそうであった。ほんの少し前まで当たり前であった日常が、無くなってしまったからだ。少し時間が経ち、思考力が戻ってきた。そして、1つ心当たりが見つかった。悲しみの代わりに、今度は怒りが込み上げてきた。

 

「あの医師め…!!

 

母親が止めるのも聞かず、徹也は三鷹病院に乗り込んだ。相手のいるはずの部屋に怒り心頭で殴り込むと、そこにはすでに先客がいた。

 

「ちょっと、どうしてくれるのよ!あんた、2人がどこへ行ったのか知っているんでしょ!さぁ、白状しなさいよ!!

 

「本当に知らないんです…!別を当たってください!!

 

美由紀は若菜に激しく詰め寄った。若菜が2人を逃す手助けをしたに違いない、そう強く思っていたからだ。

 

その様子を見た徹也は、怒りの矛先を若菜から美由紀に今度は移していった。

 

「このヤロウ…きさまのところの青二才が、ヒトの手塩にかけた娘を奪いやがって…。どうしてくれるんだ、ウチは従業員20名を食わせていかなきゃならない立場なんだ!私のメンツも立たないではないか!!

 

そういきり立つ徹也に、美由紀は鬼のような形相で言い返した。

 

「それはこちらのセリフよ、お山の大将めが!こっちは、何万という職員や関係者がいるのよ。あんたのところのドロボウ猫のせいで、どれだけ私どもの名誉にキズをつけたと思っているのよ!」

 

「ドロボウ猫、お山の大将だと…あまりと言えば失礼な!」

 

「何よ、本当のことを言っただけよ!メンツって言うけど、こちらの方が、世間体が丸潰れじゃない!!

 

その後も、相手に対する罵詈雑言が飛び交った。

 

「言い争いなら、よそでやってよ~!」

 

聞くに耐えないその状況に、若菜は仲裁に入ることすらできなかった。

 

その時、まるで車が飛び込んで来たかのような轟音が部屋中に響いた。音がした方を見ると、木製のついたてが真っ二つに粉砕され、勢いそのままに、壁にも大穴が空いていた。そして、今まで見たことがないような、仁王のような表情の和輝が立っていた。そして、怒りの感情そのままに、和輝は2人を叱責し出した。

 

「さっきから聞いていれば、工場がどうの世間体がどうのいった言葉は出てくるが、『2人が心配だ』という言葉が一言も無いじゃあねえか…。どうして2人のことを考えてやれねえんだ!!」

 

徹也と美由紀は和輝に圧倒され、返す言葉が出てこなかった。若菜は2人に対して、1つ提案をした。

 

「何とか探し出して説得してみます。ただし、こちらとしても条件があります。もし、2人が戻ってきましたら、話し合いのテーブルについてあげて下さい。」

 

徹也と美由紀は、若菜の提案に渋々同意した。とにかく愛と良太を連れ戻せれば…。そんな計算でいた。

 

1週間後、勇次から若菜たちに連絡が入ってきた。国外だと流石の勇次でも捜索できなかったが、幸いにして、2人はまだ国内にいた。

 

「捜査の合間にとはいえ、たまたま後輩が張っていた検問で出くわさなければ情報0で、探すのすんげぇ大変だったんだぜ。今度、銀座でおご…。」

 

必要な情報を全て聞き出したので、勇次からの電話を切ると、和輝は若菜に2人の居場所を伝えた。

 

「見つかったよ、静岡にいるらしい。」

 

若菜たちに伝えた、勇次が導き出した結論はこうであった。

 

良太だけならばともかく、愛が一緒となると、いくらスーツケース2つ~3つにまとめたとはいえ、そう遠くまでは行けない。また、逃避先は松ヶ崎グループ関係やその対抗勢力とは馴染みが薄い、生活が成り立てられる土地でなければならない。

 

そうした全ての条件をクリアしたのが、静岡であった。静岡県内にも松ヶ崎グループの事務所はあるが、それは静岡市であり、東海地区はあくまでも名古屋事務所が中心であった。

 

また、2人の滞在先は松ヶ崎グループにはなじみの薄い、パルプや製薬が比較的発達していた。良太は公認会計士の資格を持って実務もこなしており、生計の見通しは立てられた。良太が愛の姓を名乗ってしまえば、良太の身元は相当に判明しにくくなる。

 

若菜たちはすぐさま、2人のもとへ車を走らせた。

 

その頃、良太たちはアパートを一室借り、新婚夫婦として生活を始めていた。

 

「部屋は借りたし、こっちでの会計士登録もすませた。後は、住民票をこっちに移すことだな…。」

 

愛が心身共に消耗していたため、急には色々と動かず、愛が落ち着くまで2人でゆっくり過ごしていたのである。

 

「ねぇ、良太さん…。」

 

まだ少し覇気がない様子で、愛は良太を呼んだ。

 

「どうした、愛?どこか具合でも悪いのか!?」

 

冷蔵庫から飲み物を取り、戻った大輔は愛のもとに駆け寄った。愛は、良太に尋ねた。

 

「本当に良かったの…?私のことなんか忘れて…私との思い出なんて捨ててしまえば、あなたには、輝かしい未来があったのに…。」

 

愛の問いかけに、良太は迷いなく答えた。

 

「バカなこと言うなよ、愛…。俺には、君がいない未来なんて考えられないよ…!」

 

そう言うと、良太は今にも心が壊れそうな愛を、両腕でぐっと胸の中に抱きしめた。

 

「ごめんなさい、良太さん…。私のせいで…私の…。」

 

愛を抱きしめながら、良太は思った。どうして、こんなことになってしまったのだろう…。そしてまた、思った。愛の未来を、自分が幸せなものにしていかなければ、と。

 

その時、部屋のベルが鳴る音がした。誰が訪ねて来たのか、良太が愛の手を引きつつ、そっと覗き窓を確認した。外で待っていたのは若菜たちであった。良太たちは安堵し、玄関の扉を開けた。

すっきりしない気分のままミーティングルームに戻ると、若菜は相談調書の作成に取りかかった。

 

夜食を買って戻ると、診察を終えた和輝がいた。

 

「どうだった、今回の相談者たちは?」

 

「本人たちがかわいそうですよ!あんなに愛し合っているのに認めてもらえないなんて…。説得は長期戦になりそうですね…。」

 

率直な感想を若菜は話した。疲れきっていた若菜はベットに飛び込むかのような勢いでデスクに突っ伏した。和輝もまた、若菜と同じ意見であった。若菜はめずらしく、プライベートなことを和輝に尋ねた。

 

「先輩も、結婚する時ってやっぱり簡単には行きませんでしたか?」

 

その問いかけに、和輝は一呼吸置いて答えた。

 

「めずらしいな、若菜ちゃんからそういった質問がくるなんて。まぁな、学生結婚だったしな。でも、そういった困難も、かみさんとの絆を強くしてくれたってもんよ。」

 

和輝の半分納得しつつ、余裕を見せつけるその答えに、若菜はため息をついた。こっちはこれからその修羅場を対処しなければならないのに…。

 

その時、和輝は1つ気がかりなことを口にしだした。

 

「それにしても、最初に決めた時から3年も辛抱強く待っているのか。ふとしたきっかけで、キレなきゃいいけどな…。」

 

和輝のその一言に、若菜は一瞬、寒気を感じた。しかし、あの2人ならそんなことあるわけないとすぐに思い直し、再び調書の作成に戻った。

 

最初の訪問以降、若菜は機会を作っては説得に当たった。

 

愛の父親には

「良太は元々、技術面でも飲み込みが早くて見識も深く、工場を支える人材にもなりうる」「若いけれども職場や取引先での信頼も厚い」

ということを、

良太の母親には

「愛は家事全般をこなせ、良太の良い伴侶になれる」「人当たりが良くて友人も多く、語学が堪能。作法とかは時間をかけて身に付けていけばいいのではないか?」

と、二人の人柄や強みとなるスキル、可能性を中心にアピールした。そして、心配なところは後から時間をかけて解決していけばいいのではないかと主張していった。

 

しかし、それらは認められつつも、「1から教え込む余裕などない」「『生まれ』による違いには、努力だけでは埋められないものもある」と、一向に解決は進まなかった。

 

解決を焦る若菜にとって、良太と愛からの忍耐力と信頼が支えであった。そして、2人にとっても、良太の父親と愛の母親は2人の交際を応援していること、そして何より、お互いを想う気持ちが、ぎりぎりで踏みとどまれる支えであった。

 

そんな日々が続いたある日、愛がいつものように仕事を終えると、徹也が愛に話しかけた。

 

「愛、ちょっといいか?大事な話がある。」

 

もしかしたら、ようやく父も良太との交際を認めてくれたのではないのか、そんな期待を胸に秘め、工場の事務所に向かった。

 

事務所で待っていた徹也は妙に上機嫌であった。そして、デスクからおもむろに何かを取り出した。

 

「実は、お前に見合いの話があってな。ほら、隣町で金属加工をやっている山中さんのところの三男の銀次君だよ!」

 

愛は目の前が真っ白になった。銀次のことは、同じ中学と高校の先輩で、何となくは知っている。大学を卒業後、自動車メーカーに就職し第一線を走り続けてきた銀次との見合い話は、確かに父にとってはこれ以上ない話だった。しかし、それは同時に、愛に良太を諦めろという宣告でもあった。

 

その日の真夜中、愛は家を抜け出し、良太と落ち合った。愛が事情を話すと、良太も今日あったことを愛に話し始めた。

 

「実は、俺にも提携財閥の令嬢との見合い話が来てな…。」

 

この皮肉とも言えるような運命に、2人が出した答えは同じであった。もう、その時の2人には選択肢がそれしか思い浮かばなかった。

 

翌日、いつもと同じような日常が過ぎていった。朝が来て、仕事をしているうちに昼となり、夜が更けていった。やがて眠りに就くと、またいつもの朝が来る…。だが、徹也と美由紀に、その朝はやって来なかった。愛と良太が姿を消していたのだ。代わりに、一枚の置き手紙が残されていた。

夏も終わりに近づき、夏の暑さも次第に和らいでいた。

 

恋愛相談医として半年が経ち、若菜は今の仕事に比較的余裕が出来てきた。

 

今までは仲違いをしたり片想いだったりした相談者がほとんどであった。しかし、今回若菜のもとを訪ねた相談者は、今までとは少し違う事情を抱えていた。

 

相談者は松ヶ崎良太と三浦愛の2人であった。若菜の元を尋ねてきたとき、まるで何かに引き裂かれまいとするかのように、2人はずっと固く手を握っていた。

 

お互いが愛し合っていることは明白であった。しかし、ここを訪ねて来たということは、何かしらの問題を抱えているからだ。これといった手がかりの見当がつかない若菜は、ここを訪ねた理由を尋ねた。

 

少し寂しい表情を浮かべ、二人はそれぞれの問題を語りだした。

 

「僕たち2人は同じ高校の同級生で、付き合って10年近くになるんです。もちろん、その間に結婚の話もありました。」

 

「でも、彼は地元の名家の生まれで長男、私は下町工場の一人娘。機械が専門ではない彼に父は『曾祖父の代から続いた工場の跡継ぎでないと、結婚は認めない』と頑ななのです。」

 

「そして、私の母も『由緒ある松ヶ崎家には由緒ある者と親類関係を築かなければならない』と、愛との結婚を認めてくれないのです。先生のお力添えで、何とか説得に協力してもらえませんでしょうか?」

 

良太の切実な想いを若菜は感じ取っていた。愛し合う2人の力になりたい!若菜は、良太たちに最大限の協力を約束した。

 

2週間後の土曜日、若菜はまず愛の自宅を訪ねた。愛の自宅はネジやボルトを加工・生産する工場を営んでいた。仕事終わりを見計らい、約束した夕方遅くに出向くと、作業着姿の愛が工場から迎えにきた。

 

「こんばんは、先生!そろそろ工場も終わりますので、自宅のほうで待っていてください。」

 

2人は工場の隣にある愛の自宅前で待ち合わせることにした。若菜がもう少しだけ待っていると、まもなく、父親の徹也とともに愛が帰ってきた。

 

客間に通された若菜は名刺を差し出し、徹也に簡単なあいさつをした。若菜の肩書きを見た徹也は、やや渋い表情を浮かべた。その表情のまま、若菜に尋ねた。

 

「愛が先生に何か頼んだようですね。それで、恋愛相談医の先生が、私に一体どういった用件でしょうか?」

 

若菜が答えるよりも先に、愛が話を切り出した。

 

「父さん、良太さんとの交際を認めてほしいの。」

 

「確かに、彼はお父様の希望される『機械屋さん』ではありません。しかし、良太さんは誠実でしっかりした青年ですし、そこは目をつぶられても。」

 

若菜がそう付け加えた時であった、続く言葉が遮られた。

 

「ダメだ、それだけは認めん!」

 

若菜たちの主張はあっさりと一蹴された。徹也は続けて言った。

 

「確かに、良太君は愛にとって良き友人だ。能力も高いし、人間的にも出来とる。しかし、曾祖父の代から続いた工場は守らねばならない。工場を継げる者でしか、私は愛のいいなずけとは断じて認めん!」

 

その時の徹也には、工場を守ることしか頭になかった。時間を掛けて説得に当たることにした若菜は、その日は戻ることにした。帰り際に、不安そうな様子の愛を若菜は励ました。

 

「お父さん、ちょっと周りが見えていないから長期戦になりそうね。私も頑張って説得するから、挫けちゃダメですよ!」

 

翌日、今度は良太の自宅を訪ねた。明治から続く名家にふさわしい屋敷を構えており、ここから三代に渡って歴代首相を輩出したのである。そして今は、関東一円にあらゆる事業を展開し、強力な地盤を持っていた。

 

そのスケールの大きさに圧倒されつつ、良太の案内で屋敷を進んで行った。

 

通されたのは母親の美由紀が執務を行っている離れであった。美由紀は財閥家の次女であり、松ヶ崎グループを現社長の良一郎と共に拡大・成長させてきた。その仕事ぶりは男性顔負けであった。

 

若菜があいさつをすると、2人が話し始めるよりも先に、美由紀が話を封じ込めてきた。

 

「先生のことは良太から聞きました。恐らくは三浦さんのところのお嬢さんとのことですね。交際ということになりましたら、それは認めません!」

 

いきなりの展開に、話の主導権を持っていかれそうになった。若菜は今までの経験を引き出しに気持ちを立て直した。

 

「そうですか。それでは、何故お2人の交際を認めてくださらないのか、その理由を教えていただけないでしょうか?」

 

口調は丁寧であったが、きっぱりと美由紀は若菜たちに告げた。

 

「我が松ヶ崎家は明治からこの地域に続く伝統のある家です。この家を代々繁栄していくためには、由緒ある者とのつながりをより強固にしていくべきなのです。」

 

相変わらずの母親の対応に、良太が思わず反論した。

 

「母さん、俺には、愛よりもふさわしいヒトはいないんだよ!」

 

「お黙りなさい!」

 

美由紀は良太の言葉をピシャリと抑えた。そして、逆に良太を諭し始めた。

 

「まぁ、ご友人として、色々な人と親睦を深めることはとても大事だわ。でも、結婚ということになれば話は別。あなたは松ヶ崎家の長男であることを自覚し、自らの運命を受け入れなければなりません!」

 

良太としても、その運命を理解はしていた。松ヶ崎家は自分たちだけでなく、その下で携わる多くの人々やその家族の人生を預かっている。その責任を宗家の長男である以上、引き受けなければならない。だからといって、愛と未来を共にしたい気持ちを捨てることなんて出来はしない


その日の話し合いは平行線のままで終えることとなった。

単純な足の速さであれば、陸上部であった亮が圧倒的に優位であった。

 

しかし、幸太も曲がりなりにプロである。今までこうした修羅場は幾度もくぐり抜けてきた。ペットボトルや空き缶を投げたり、駅近くに捨てられていた自転車やタイヤの山を蹴飛ばしてバリケードにしたりと、あらゆる手段を使って抵抗した。

 

そうこうしているうちに、亮と若菜は幸太の姿を見失ってしまった。曲がり角を巧みに使われ、まんまと幸太に巻かれてしまったのだ。ひとまず、これ以上の捜索は無意味だと2人は悟った。そして、紗季を1人にしたままで、これ以上不安にさせないために、喫茶店にもどることにした。

 

一方、幸太も、しばらくは逃げていた。しかし、2人が追いかけてこないと分かると、勝利を確信し、空に突き刺さんばかりの、卑しい高笑いを上げた。

 

「くっくくく…はーはっはっは!どうやら上手く巻いたみたいだな。」

 

幸太は悠然と、撮影場所から少し離れた場所に止めておいた車まで上機嫌で戻っていった。

 

「これは高値がつくなぁ。今日はこいつをタブロイド紙に売り捌いたら、夕飯は寿司か焼肉だな。」

 

そんなことを考え、車まで数百メール手前まで来た時であった、誰かが幸太の襟を後ろから力ずくで引っ張った。

 

「やぁ、初めまして。」

 

声の主は和輝であった。涼しい笑顔で逃げるスキを全く与えない和輝に、幸太は心底震え上がった。

 

「は、初めまして…。あ、あの…私みたいな名もなきジャーナリストに何の用でしょうか?」

 

和輝は表情1つ変えず、用件だけを幸太に伝えた。

 

「さっき、おっちゃんが撮っていたカメラ、こっちに渡してもらえないかな?」

 

和輝が要求したのは、紗季たちをスクープしたカメラの引き渡しであった。

 

「あの…こんなカメラ、大したものじゃないですよ…。お、お金でしたら、手持ちであるだけ払いますので…。」

 

幸太は和輝のことを芸能事務所の関係者だと思い、警戒した。うかつに抵抗した場合、どんな報復があるか分からないからだ。被害は最小限に、なおかつ写真を守ることを最優先に幸太は動いた。

 

「うちの後輩とお客様が困ってしまうんだよね、さっきのおっちゃんの写真が出回ってしまうとさ。なぁ、人様のプライベートを食い物にするようなことからは足を洗おうぜ、悲しみと憎しみしか残らねえじゃん。」

 

和輝は幸太のえりそでを掴んだ手を弛めることなくそう、しかし、丁寧な口調で幸太を諭した。

 

和輝が若菜の上司だと分かると、幸太は先ほどよりも強気に出てきた。

 

「ファンを裏切る紗季ちゃんが悪いんですよ…。そんなことより、庶民の正義である我々マスコミに暴力ですか、き、記事にしますよ?」

 

幸太は脅しを交えて、反発し始めた。業界の人間でなければ「記事にする」の殺し文句で返り討ちにできると踏んだのである。

 

幸太の態度から、和輝は埒があかないと判断した。そこで今度は、幸太の正面から首根っこを掴みながら前に押して行った。恐怖におののく幸太は、声を上げて叫ぶことすら忘れていた。

 

しばらく引きずられると、体格の良さそうな人にぶつかった。恐怖で引きつった顔で振り返ると、ぶつかった相手は刑事であった。近くに止まっていたパトカーと格好から幸太はそう判断できた。

 

「あ、刑事さん、助けてください!見てくださいよ、早くこの男捕まえて…。」

 

刑事の登場に、幸太は安堵していた。刑事は二人に近づくと、手錠をかけた。

 

「はいはい、先日の病院騒動も含めた威力業務妨害、および、不法浸入容疑の現行犯で逮捕ね。逮捕状もこのとおりあるから。」

手錠をかけられたのは幸太であった。勇次に手錠を掛けられた瞬間、あっけに取られた幸太であったが、すぐさま状況を理解すると、今度は勇次に怒鳴り始めた。

 

「何だと、何で僕が逮捕されなきゃいけないんだ!それより、目の前の暴力男を捕まえ…」

 

そこまで幸太がわめいた時、ゴギャっと鈍い音がした。勇次が幸太の関節を外し、逃げられないようにしたのだ。痛みと不満で騒ぐ幸太を、勇次は淡々とパトカーに押し込み、連行していった。

 

数分後、和輝から連絡を受けた若菜たちは駆けつけた。和輝が幸太を警察に突き出し、写真についても警察のほうで上手く処理してもらえることを亮に伝えた。亮と紗季は騒動以来、ようやく安心する時間を取り戻した。

 

「ちょっと話があるんだけど、いいかい?」

 

礼をする亮と紗季に、和輝が1つ提案をした。

 

翌週、テレビや週刊誌では二人の交際がワイドショーのトップで報じられていた。紗季に連ドラの話がちょうどきていたこともあり、これを機に、真剣交際であることを発表したのだ。

 

「今回は追い返せたが、ずっとこういうハイエナ対策をしなけれゃならんのはキツいぜ。それと、キャッチコピーが、いわゆる「みんなのアイドル」だけじゃ、代謝の激しい芸能界で生き残るのも大変だ。紗季ちゃんを一流の芸能人に育てたいんだろ?」

 

若菜と和輝から同じアドバイスを受け、交際の公表にも踏み切ったのであった。当初予想されていた批判についても、亮が先手を打ってあいさつ回りなどをこなして味方を増やし、影響を最小限に留めた。これは、それまでの2人の誠実な仕事への取り組みも評価されてのことであった。

 

その日の夜、若菜に1通のメールが届いた。

 

「先生、この間はありがとうございました。元気に可愛く振る舞うことがメインだったアイドルとはまた違って、毎日が勉強です。哀しさや怒り、もちろん、喜びといった色々な感情表現に必要な表情や仕草、発声など、きちんとお芝居の学ぶのは、とても大変です…。上手くいかないことも多くて、落ち込むこともしばしばあります。だけど、大好きな彼がいつも支えてくれる。私、立派な女優になって、彼と必ず幸せになります!」

 

新しい一歩を歩き始めた2人の幸せを若菜は願った。若菜はエールをこめて、紗季に返信を送った。

 

「ガンバレ、応援しているよ!」