その記事のあらましは、次のようなものであった。

 

『スクープ、人気急上昇中アイドルSに熱愛疑惑!カギを握るのは都内病院勤務のアブナイ美人女医!!』

 

この見出しから始まり、幸太が以前に撮った写真を、その後に今回撮影した写真が、記事の内容を強調するように展開されていた。

 

しかも、大勢の人に紛れて個別に相談に応じている若菜の面会方法を逆手に取り、

 

「略奪密会か?」

「昼下がりの雑踏、気づくと二人は消えていった…」

「平然と相談に応じている美人女医F…実は何も知らないのはアイドルSだけ?」

 

と、あることないことを推測で、おもしろおかしく脚色されていた。

 

その日はワイドショーが多い土曜日であった。紗季たちの事務所はもちろん、三鷹病院にもマスコミが大勢押しかけていた。

 

「すみません!今回の件について何か一言を!」

 

「利用者として、この件をどう思いますか?」

 

マスコミが中まで入って来るのを、増員した警備員と屈強な男性職員で食いとめはしていたが、病院前は混乱を極めた。来院の患者に対しても、手当たり次第にレポーターから声が掛けられていた。

 

その頃、幸太は病院の裏口で若菜が出てくるのを待ち構えていた。

 

「くっくっく、今回ばかりは裏の裏をかいて正面からというわけにはいかないからなぁ。」

 

やがて、幸太の張り巡らしたワナに、獲物がかかった。

 

「あ、双葉先生が来たぞ!」

 

正面玄関にいたマスコミにも聞こえるようにと、わざと大声で幸太が叫んだ。

 

車から降りたばかりの若菜もすぐに気づき、急いで入り口に向かった。正面玄関から裏口まではやや距離があり、走ればぎりぎり振り切れる距離だと若菜は思った。

 

その時、誰かが若菜の行く手を阻んできた。冷静であったならば、そこまで注意が向いたかもしれない、しかし、その時の若菜には無理な注文であった。

 

「お久しぶりです、先生。『芸能じゃーなる』の山本です。今回の記事について何か一言を!」

 

勝ち誇った薄ら笑いを浮かべていたその男を、若菜は全力で張り倒したい衝動に駆られた。怒りと悲しみが錯綜し、殺気すら込められた瞳を幸太に向けた。

 

だが、まもなくそれさえも若菜はできなくなっていた。他のマスコミが追いつき、囲まれてしまったのだ。

 

正面口で待ち構えていたマスコミに囲まれてしまったのだ。プリンに群がる蟻のように、若菜に向けてフラッシュと尋問が次々と浴びせられた?

 

「双葉先生、今朝の週刊誌やスポーツ各誌で報道されていた件についてですが、記事の内容は事実なんですか?」

 

「紗季さんを騙してマネージャーの市川さんと付き合っていたことに、罪悪感はなかったのですか?」

 

「先生、何かコメントを!」

 

若菜は前に進むことすらできず、ただこの状況が終わるのをじっと待つしかなかった。

 

「何もお話しすることはありません…。通してください!」

 

若菜とマスコミの押し問答がいたちごっこのように続いていた。

 

その時、裏口から理事長が現れた。その様子は、まるで般若のように恐ろしい形相であった。若菜は自分を責めた。あぁ、私の不注意で、相談者だけでなく、病院にも迷惑をかけてしまった…。

 

理事長は騒々しいその場を貫くような声で一喝した。

 

「皆様、仮にもここは病院、命を扱う場所であります!静粛にされてください!」

 

理事長のその強烈な一言で、その場は一気に静まりかえった。そのスキに、若菜は建物の中に入った。慌てて後を追いかけてきた取材陣を理事長がさえぎり、先ほどとはうって変わり、トップとしてふさわしく丁寧に応対した。

 

「この度はうちのものがお騒がせしました。また場を改めてお答えいたしますので、今日のところはどうぞお引き取り願います。」

 

取材陣が解散すると、若菜は理事長室に呼ばれた。

 

「しくじったわね…。まさかこんな展開になるなんて…。」

 

元々、2人から別々に相談を受けるようにしていたのは、理事長の指示であった。同時に行うことで、マスコミに下手に書かれるリスクを回避するためである。また、院外で行なっていたのも、場所を変えることで、特定させない目的があった。しかし、それが裏目に出る形となった。まさかこんな展開になるとは、理事長自身も思いもよらなかった。

 

「とにかく、一度、紗季ちゃんと市川さんにも直接会って、今後の対応を話し合う必要があるわね。私の方から連絡を入れておくから、今後の対応方針の案を考えてちょうだい。巻き添えにしてしまって申し訳ないわ、若菜ちゃん…。」

 

翌週、これからのことについて打ち合わせをするため、人気のない喫茶店に3人は集まっていた。マスターは理事長の旧友であり、周囲は立入禁止のビルが前にあるだけで、外部に出したくない話をするにはうってつけであった。

 

「すみません、ご迷惑をかけてしまうことになってしまいまして…。」

 

「いえ、社長にはきつく言われましたが、最悪の大事に至らなかったので、まだ…。ただ、これ以上何か起きるのはまずいですね。紗季には、来月から始まる連ドラの話が来ています。その撮影が始まって、ほとぼりが冷めるまでは…。」

 

「辛いですが、あまりお仕事以外では会わないほうが良いですね。あるいは…」

 

その様子を、幸太はビルの屋上から覗き込んでいた。この間の騒ぎの際に、若菜のバッグに盗聴器を仕掛けていたのだ。そこから今日の件について情報を手に入れた幸太は、余裕をもってカメラを構えることができた。

 

「くっくくく…。立入禁止のビルだけど、バレずに立ち去れば問題ない。3人そろって油断している今が絶好のシャッターチャンスなんだ。さて、僕たちジャーナリズムをないがしろにした罰だ、まとめて明日のスポーツ紙のトップ記事になっちまいな!」

 

そう薄ら笑いを浮かべ、幸太はシャッターをきった。

 

中では、若菜の提案に対して、紗季と亮が悩ましい反応をしていた。

 

「そうですね…それで上手く収まった前例も、もちろんないわけではありません。しかし、今の紗季にはリスクがまだ高すぎると…。」

 

その時、向かいのビルからフラッシュが光ったことに4人が気づいた。亮がすかさず辺りを見回したが、人影すら見つけられなかった。その時、マスターが誰もいないはずのビルを指差して叫んだ。

 

「おい、あそこの屋上に誰かいるぞ!」

 

マスターが指差した先には、フラッシュが光り、機材の撤去に慌てていた幸太の姿があった。その時、初めて、お互いにその存在に気づいた。

 

「あいつ、確かあの時の…。くそ、捕まえてやる!」

 

亮が勢いよく店を飛び出すと、若菜はマスターに紗季のことを頼み、その後を追いかけた。

 

フラッシュが光ったビルの前まで来ると、ちょうど機材を抱えてビルから出てきた幸太と鉢合わせした。

 

「待て!」

 

逃げる幸太を、亮と若菜が追いかけた。

その日の夜、あるビルの一室で、男が荒れていた。

 

「くっそー、二人が三鷹病院に入って行くところを目撃して、裏口で待ち伏せていたのに、まさか正面玄関から逃げられるとは…!」

 

幸太はゴミ箱やボツの原稿に怒りをぶつけていた。和輝の発案で、亮はそのままで、紗季は帽子やだて眼鏡で軽めに変装させた上で逃したのである。

 

「まぁ、二人の交際を確認できただけでもいいじゃないですか。それにしても、これがもし純粋な交際だったら、事実を確実に押さえてからじゃないと、記事にするのは引け目を感じるなぁ。」

 

アシスタントの女性がそうぼやくと、幸太はチクチクと説教し始めた。

 

「甘いんだよ、君は!この世界で記事の信憑性なんて関係ない。面白いか面白くないかが価値を決めるんだよ!そんなんだから、君の記事はボツになったり安値で叩かれたりするんだ。今回のスクープ、他の連中に先を越されてなるものか…!」

 

そう、幸太こそが前回の現場を撮影し、決定的な場面を狙う人物であった。業界内でもその豪腕ぶりは有名であり、裁判沙汰すれすれの暴露記事が、読者の購買欲求を煽っていた。

 

それからの1年間、両者のいたちごっこが続いた。

 

相談は電話やメールを中心に行い、どうしても面会の必要があるときには人が多い喫茶店で行なった。容易にシャッターを押させないためだ。何度かあった危機も、若菜と和輝のアドバイスでうまく巻いていった。

 

そんなある日、中々うだつが上がらない幸太は、1から計画を練り直すことにした。

 

「そもそも、いきなり現場を押さえようとしたのがまずかった。まずは外堀から埋めていくか。くっくっく…上手くいったら、現場を作り出せるかもしれないなぁ。」

 

幸太はまず、二人が三鷹病院に行った日の回診日程を洗い出した。

 

「内科、外科、眼科…」

 

診察を行っていた科は沢山あった。その中から、二人でいく必要がありそうなものを絞っていった。

 

そこまで絞り込んでいくと、残ったのは1つだけであった。そして、当時やその後の紗季やマネージャーの状況などを踏まえた3日間の推理から、最も可能性が高い医師を探し当てた。

 

翌日、幸太は病院が開く前から三鷹病院の前に並んでいた。もちろん、診察のためなどではなかった。何時間でも待つつもりでいたが、ターゲットは思っていたよりも早く現れた。

 

「おはようございます。ボク、『芸能じゃーなる』の山本幸太と言います。双葉先生、アイドルの内田紗季ちゃんについて少しだけお話よろしいですか?」

 

若菜は一瞬、激しい動揺が走った。上手くかわしきれていると思っていた相手にシッポを見つけられてしまったからだ。

 

これ以上、この件について嗅ぎ付けられないよう、若菜は無難な対応をした。

 

「すみません、ちょっと急ぎますので…。」

 

そう一言だけ言うと、足早に病院内に入っていった。

 

だが、幸太はこの数秒のやりとりで、若菜が何らかのネタとなる情報を持っているという確信した。そこからの取材手口は悪質極まりなかった。勤務中はもちろん、プライベートの時にも若菜の前に現れては、ヘビのように執拗に問い詰めた。そんな日々が1ヶ月近く続き、若菜のストレスもピークに達した。

 

「すみません、芸能じゃーなるの山本幸太です。あのー、アイドルの内田紗季ちゃんの交際について情報をお持ちだと思いますので、ちょっと…」

 

この日、この瞬間、若菜の限界がオーバーしてしまった。

 

「何もお話しすることはありません!知っていたとしても、守秘義務ですから!!」

 

若菜は苛立ちをあらわにそう言うと、ずんずんと病院内に入っていった。

 

だが、これが幸太の反発を招くこととなってしまった。

 

「何だ…僕のようなジャーナリストに対してあの対応は!」

 

幸太は事務所に戻ると、アシスタントにある写真を撮ってくるように注文した。

 

その写真とは、

 

「若菜の担当日に市川亮が病院内に入っていく場面」

 

「若菜の担当日に内田紗季が病院内に入っていく場面」

 

「双葉若菜が個別に二人と会っている場面」

 

であった。

 

これだけで何か意味があるのか分からなかったが、とりあえずは幸太の指示に従うことにした。

 

顔が割れていないアシスタントならば、病院から離れたところで、まして病院外からなら比較的簡単に写真を撮ることはできた。

 

金曜日、出来上がった写真を渡すと、幸太は顔色一つ変えずにそれを受け取った。そして、アシスタントをその日はそこで揚がらせた。

 

デスクに戻ると、幸太は早速記事の作成に取りかかった。その表情は、気味の悪い薄ら笑いを浮かべていた。

 

「くっくっく、明日が楽しみだなぁ。」

 

翌朝、若菜はいつもと変わらない朝を迎えていた。

 

「おはよう…、うぅ、眠い…」

 

するとバイトに行ったはずの妹が、血相を変えて戻ってきた。

 

「お姉ちゃん、大変!今日発売の雑誌に、お姉ちゃんのことが書かれているよ!!」

 

思いもよらない事態に、若菜は心臓が止まりそうなくらいに驚いた。そして、記事を見てがく然とした。亮と紗季の交際が白昼に曝されることは危惧していたが、ここまでの手口は想定していなかったからだ。

梅雨が明け、夏に向けて日に日に暑くなっていた。若菜は時々、同僚の紹介で参加し始めたキッズサークルのボランティアに顔を出していた。

 

子どもたちと遊んでいる時も休憩中も、テレビの話題が多かった。中でも、内田紗季というアイドルは必ず話題にのぼった。

 

ティーンモデルとして活躍する彼女は、可愛らしいルックスとはじける笑顔を武器に、幅広い年齢層の心を掴んでいた。

 

和輝の娘たちも彼女のとりこになっており、親ばかの和輝は、休憩時間のたびに双子の娘たちが真似をしている話をしていた。

 

そんなある日、いつものように和輝がその話をしていると、診療リハビリ科長が辺りを警戒するようにミーティングルームに入ってきた。

 

「武田君、双葉君、ちょっといいかな?」

 

そう尋ねた科長に対して、和輝が逆に問いかけた。

 

「いいっすけど…どういった用件っすか?」

 

「あまり大きな声では言えない。とにかくついてきてくれ、院長と相談者がお待ちだ。」

 

普段は威風堂々としている科長の様子が明らかに違っていた。重要な案件であることを確信し、若干の戸惑いを抱きつつ、科長の後をついていった。院内の誰にも見られることなく、普段は役職の者しか通されないトビラをくぐり、3人は奥の部屋の前まで来た。

 

こうした状況から、誰か有名人に会えるかもしれないことを若菜と和輝は察知した。日常ではまず体験出来ないであろう展開に、若菜は半ば浮かれ気分であった。トビラを開ける前に、科長が一言、念を押した。

 

「今回の相談者も、基本的には普段通りに対応してくれれば良い。ただ、情報が外に漏れてしまうことだけは絶対に避けてほしい。」

 

そう言って科長がトビラを開けると、目の前の光景に若菜たちは驚かされた。

 

院長と一緒にいた今回の相談者は、内田紗季であったのだ。しかし、いつものような明るく人懐っこい様子は影を潜め、何かに怯えているようであった。

 

もう一人、男性が彼女の隣に座っていた。誰だろうかと若菜が思っていると、院長が二人を紹介し始めた。

 

「悪いわね、いきなり呼び出して。こちらの二人は、内田紗季さんと、マネージャーの市川亮さん。紗季ちゃんは中学からの友人の妹で、二人の助けになってほしいって頼まれてね。」

 

院長からの紹介が済むと、マネージャーの亮は、若菜たちに名刺を差し出した。

 

若菜たちも一通り紹介を終えると、今回の核心を若菜は尋ねた。

 

「今回、こちらを訪ねた理由のほうを教えていただけないでしょうか?」

 

若菜も和輝も、何となく見当はついていた。相談者の二人は、顔を見合わせると、事情を話し始めた。

 

「実は、僕たちは付き合っていまして…。」

 

想定通りの展開であった。亮は説明を続けた。

 

「紗季が今みたいにブレイクする前、一度だけ遠くから現場を撮られてしまったんです。その時は画質も粗悪でしたし、一部のアイドル専門誌に小さく載る程度で収まりました。しかし、紗季の今回のブレイクから、またマークされている可能性が高いんです。うちの社員も、何度か怪しいカメラマンを見ているそうですので。男として、マネージャーとしても、こんな状況になってしてしまって情けないですが、紗季を守る対策を一緒に考えてもらえないでしょうか…?」

 

唇を噛み締めるように、亮が言い終わると、紗季も自らの心境を告げた。

 

「亮さん、私、あなたとずっと一緒にいられるなら、このお仕事辞めても構わない。私のために、亮さんを苦しめたくないよ。」

 

そんな紗季に、亮もまた、彼女を想う気持ちを伝えた。

 

「何を言っているんだよ。君はホンモノのアイドルなんだ!君の夢や才能を、僕なんかのせいで終わらせたくないよ!」

 

お互いを想う二人に、若菜は強く心を動かされた。二人を何とかして、現状から抜け出させたい。若菜もまた、強い決意と覚悟で答えた。

 

「分かりました。全力でこちらも協力しましょう!」

 

「本当ですか!?ありがとうございます!お力添え、よろしくお願いします。」

 

そう言うと、亮と紗季は若菜たちに一礼した。

 

「それじゃあ、今日はこんなところね。紗季ちゃん、この後に雑誌撮影があるからね。騒ぎにならないように裏口から送ってあげてちょうだい。」

 

院長がそう言って、科長が彼女たちを案内しようとした時であった。

 

「いや、裏口ではなくて正面玄関からのほうが安全だ。」

 

思いもよらないことを和輝は切り出した。そんなことをして見つかったりしたら、病院内がパニックになってしまうんではないか。

 

「ちょっと、先輩…見つかったら大変じゃないですか!」

 

若菜がそう言うと、和輝は涼しい顔をして答えた。

 

「まぁ、大丈夫だって。要するに、木の葉は森に隠せってやつよ。」

龍之介が駆け足で呼び出された会議室に入ると、勇次と由衣、そして若菜が待ち構えていた。机の上では、龍之介が由衣に手を上げていた一部始終が再生されていた。事態を飲みこめず、呆然とする龍之介に、若菜が経緯を説明し始めた。

 

「私が追い返された翌日、大沢刑事に証拠の確保を依頼したの。情報の収集ツールは由衣の携帯とiPodに仕込んだ盗聴器よ。油断させるために大沢刑事にも部屋を訪ねてもらい、何事もないという一芝居も打ってもらった。そして1ヶ月後の結果が、目の前にある通りよ…!」

 

状況を受け入れきれていなかった龍之介だが、若菜から説明を受け、少し落ち着きを取り戻した。そして、そばにある「邪魔もの」を払い除けようとした。テープを壁に投げて壊すと、勇次にすさまじい剣幕でまくし立てた。

 

「先輩、お言葉ですが、これは僕と由衣の問題です!先輩が出てくるような話では…。」

 

「龍之介…。」

 

勇次がそう呟いたかと思った瞬間、龍之介は勇次によって壁へ叩きつけられた。龍之介の胸ぐらを掴み、勇次は問いただした。

 

「何でだ、答えろ!信じてくれる人を、支えてくれてる人間を傷つけるなんて、絶対にやっちゃいけないんだ!!オマエほどのヤツが、どうして、そんな、愚かなことを…。」

 

龍之介は返す言葉がなかった。もちろん、頭の中では決してやってはいけないことを十分理解していた。その度に激しく後悔し、何度も直そうと試みた。しかし、その時に感情をコントロールする術を、龍之介は持ち合わせていなかった。

 

「…連れて行け。」

 

勇次が控えていた部下に命じ、龍之介に手錠を掛けた。龍之介が部屋を連れ出される直前、由衣が呼び止めた。

 

「龍之介!」

 

龍之介は立ち止まり、由衣のほうを振り返った。少しだけ由衣を見ると、龍之介は再び顔を背けた。その時の表情は、決して由衣を恨んだり憎んだりしているものではなかった。ただただ、この負の連鎖を断ち切れなかったことへの無念と由衣への懺悔、それから開放されることへの安堵であった。

 

「私、あなたに手を上げられている時、ホントに辛かった、それ以上に、心がズタズタで、悲しかった…。それでも、時折見せてくれた、それまでのあなたの優しさを信じていた…。どうして…どこで私たち、間違ってしまったの…。」

 

「すまない…。」

 

由衣の問いかけに、龍之介はそう答えるので精一杯であった。龍之介と勇次が部屋を出ると、由衣は若菜に泣き崩れた。

 

1ヵ月後、龍之介は辞職したことを、若菜は勇次から伝えられた。一連の騒動自体は示談となり、また、龍之介への処分そのものは戒告処分にとどまり、そこまでの必要はないと勇次は引き止めた。しかし、一からやり直したいという龍之介の意向を尊重し、最終的には辞表を受け取った。そして、由衣は別の部署でカウンセリング治療をしながらの勤務となっていた。

 

「どうした、いつもの元気がないじゃないか。」

 

朝から激しい落ち込み具合の若菜に、和輝は声を掛けた。若菜はテンションの低いまま、和輝に本音を話し出した。

 

「外から見れば、怖いもの知らずでこの数ヶ月を走ってきた。相談にも具体的に方針を示せるようになってきて、少しずつだけど、自信もついてきた。…そのつもりだった。でも今回、私一人じゃ、何も解決できなかった…。何も彼女の力になれなかった…。結局、私のこの数ヶ月の自信なんて薄っぺらなものだって思い知らされされた。私、今まで何をしてきたんだろう…。」

 

 コーヒーを飲みながら、和輝は若菜の言葉に耳を傾けていた。自身の若き日と重ね合わせるかのように、和輝は若菜に声を掛けた。

 

「いきなりスーパースターなんて、そういないし、長い社会人生活で、うまくいかないこともあるもんさ。若菜ちゃんは、今まで通り、今できることを全力でやればいいのさ。」

 

 そう若菜を励まし、淹れたてのコーヒーを差し出した。

 

 「今、出来ることから、か…」

 

手痛い代償と引き換えに得た経験を絶対に忘れてはいけないと、若菜は胸に刻んでいた。コーヒーを飲み終えると、相談の時間になり、若菜は立ち上がって相談室に向かった。

その頃、勇次はスケジュール調整に悩んでいた。合コンで意気投合した相手と出かける話になったのだが、あいにく、その日は上司とのゴルフの予定が入っていたのだ。携帯が鳴ると、珍しい若菜からの電話に、勇次のイタズラ心が湧いてきた。

 

「どうしたんだい、若菜ちゃん。僕にデートのお誘いかい?予約待ちたけどねねー!」

 

冷やかす勇次に若菜は思わずため息をついた。

 

「相変わらずですね、大沢さん。ちょっと相談したいことがあるんです。」

 

ふざけてはいるが、勇次のスキルの高さは若菜も十分に承知していた。由衣が彼氏からDVを受けていること、なるべく穏便に解決に導いてほしいことを勇次に伝えた。話を聞き終え、若菜に共感するように勇次も話し出した。

 

「ひでぇ話だな…、最近そういった事例が増えているとはいえ、ガイシャの気持ちを考えるとやりきれない気持ちになるな。で、被疑者はどこの馬のホネか、何か具体的な情報持っているかい?」

 

勇次がより具体的な情報を尋ねると、若菜は由衣たちの最寄り駅と龍之介のフルネームを伝えた。すると、勇次の声の調子が明らかに変わった。

 

「え、最寄り駅が東久留米で、被疑者の名前が村田龍之介、これで間違いないんだよな?」

 

勇次は驚きを隠せない様子で若菜に内容を確認をしてきた。

 

「ええ、そうですけど…。何かあるんですか?」

 

「あぁ、多分そいつ、俺の部下だわ。間違いない。少し前に、彼女と暮らし始めたとか言っていた。」

 

恐らく勇次と同じくらいに若菜も驚いた。意外な人物から、接点が見つかったからだ。しかし、若菜の話を聞いてもなお、勇次は半信半疑であった。

 

「しかし、俺が知っているアイツは冷静で優秀な人間だ。若菜ちゃんの言っている人物とそいつは同姓同名の別人か、そいつならばその時偶然にとしか思えないな、俺が受ける龍之介の印象だと。」

 

 勇次はしばらく時間が欲しいと若菜に伝え、その時はそこまでとなった。直後に勇次のところに現れた龍之介には、勇次が上手く話を隠した。

 

数日後、研修で立川まで出てきた勇次と龍之介は、直帰してそのまま飲みに行っていた。研修や仕事の話に交えて、新生活の様子を聞き出した。時々ケンカになるが、慣れてきて上手く軌道に乗り始めたと、これといって気になる様子は見受けられなかった。

 先日、大規模な組織密売の中枢の壊滅に手柄をたて、ついに警視への昇任かと噂された勇次は、龍之介にとって憧れの先輩であった。そんな噂もあってか、龍之介から見て、珍しく勇次のアルコールがすすんでいるように思えた。

 

帰り道、いつもならばそのまま2人は帰宅していた。しかし、その日に限って、勇次が龍之介に急な注文をしてきた。

 

「たしか、村田の家って、ここか近かったよな。ちょっと寄らせてもらってもいいか?」

 

「え、今からですか?」

 

 龍之介は戸惑った。今からだと部屋も大して片付いてなく、勇次を十分にもてなすことができないと考えたのだ。そして、それ以上に、勇次に隠している秘密が万が一にでも知られることを恐れていた。

 

 しかし、流れからしてすでに、勇次を招き入れるよりほかなく、龍之介が由衣に電話を入れてから2人で部屋に向かっていった。

 

 ある程度片付けられ、勇次を招き入れるには問題ない状態になっていた。気になっていた壁や床も、ポスターやカーペットで隠し通せそうであった。由衣の作った軽食を片手に、出会いのきっかけから今の生活、これからの2人のことについて、勇次は話を振った。

 

 小1時間ほどして、終電が近づいてきたため、勇次は帰っていった。由衣が眠った後、龍之介は部屋を確認し始めた。勇次が2~3度、お手洗いを借りたため、怪しい動きがなかったかを念のために調べるためであった。30分ほど見て回り、特段そうした痕跡もなかったため、不安を抱えつつも龍之介も眠ることにした。翌日の勇次の様子も、突然押しかけたことを詫びた以外はいつもの頼れる勇次であった。

 

 1ヶ月後、管轄の車上荒らしの事件を整理していた時、勇次が龍之介を呼び出した。

 

「話があるんだが、ちょっといいか?」

 

急ぎの用事もなく、龍之介は作業にメドをつけると、呼び出された会議室まで足を運んだ。その会議室は、主に業務を行う部屋からは少し離れた場所にあり、内密な話をするのによく利用された。おおかた、勇次の人事異動か増員、自身の担当変更のことだろうと龍之介は考えていた。

 

龍之介が渡り廊下を進むと、何やらテープか何かの再生音が聞こえてきた。最初、何か物音や激しい声がする以外、龍之介は特に気にはしなかった。しかし、部屋に近づくにつれ、その内容が次第にはっきりと分かるようになってきた。