話を聞き終えた若菜は、二人のこれからの関係を見直すため、何よりも由衣の身の安全のために、一時的にでも、すぐに別れるべきと由衣を説得した。しかし、由衣は頑なにそれだけは拒んだ。

 

「彼のことが好きだから、それはできないよ…。それにまだ、私は彼のことを信じていたい…。」

 

由衣の気持ちは若菜にも痛いほど理解していた。愛する人の裏切りを認めることがどれだけ苦痛か、この数ヶ月の経験から、若菜も頭の中では理解していた。しかし、若菜にはこのまま由衣の彼からの暴力が止まるきっかけを見出だせなかった。何より、このまま由衣への暴力がエスカレートしていくことを何よりも恐れた。

 

そうしている間にも龍之介のDVは激しくなるばかりであった。そして、とうとう恐れていたことが現実になってしまった。その日、由衣は左目に大きな青アザができていた。原因はやはり、龍之介のギャンブルであった。仕事帰りに、そのままパチスロをしていき、大負けしたのである。それが口論の火種となり、そのまま由衣への暴力に繋がってしまったのだ。

 

「大変だったね、由衣」

「ケガは大丈夫なの?早く先生に診てもらわないと…。」

 

同僚たちはみな、由衣のことを心配して気遣った。だが、事情を知っていた若菜は、それだけでは収まらなかった。

 

「女性に、それも顔に手を挙げるなんて…もう許せない!」

 

龍之介に対して、若菜は完全に堪忍袋の緒が切れた。

 

土曜日、若菜は由衣の反対を押しきって2人のアパートに乗り込んだ。龍之介も、その日はアパートにいた。由衣が若菜を部屋に通し、3人はテーブルについた。

 

「僕に話があるということですが、一体どういった」

 

何も知らないような顔をする龍之介の態度は、若菜の怒りをさらにあおっていった。どうにか気持ちを落ち着かせつつ、単刀直入に、若菜は告げた。

 

「由衣に対して、暴力を振るうのは止めてください!それができないというのであれば、彼女との関係を考え直してください!!」

 

一瞬、龍之介の表情が曇った。しかし、すぐに冷静な表情に戻して、若菜に反論した。

 

「ハハハ、僕が彼女に手を上げるなんて、そんな馬鹿な話あるわけないでしょう。噂やデマといった、何かの間違いじゃないんですか?」

 

受け流そうとする龍之介を、若菜はさらに厳しく追及し始めた。

 

「あなたはギャンブル癖があり、そこで負けが込むとお酒をあおる癖がある。由衣とはそのことで度々、口論になっていますね。」

 

「まぁ、確かに多少のギャンブルはしているので、そのことでよく怒られてもいますが、別にそれは、よくあることでしょう。」

 

そう話す龍之介の表情は、先程までより少し険しくなっていた。真剣に取り合おうとしない龍之介に、若菜はさらにたたみ掛けた。

 

「問題はそれから先です。口論で収まるならともかく、あなたはそのことで由衣に問い詰められると、手を上げるようになってきた。由衣の手や足に、ここ最近、小さな傷が目立つようになってきました。少なくとも、今、由衣の左目にある大きな青アザは、あなたが彼女に負わせたケガですね。お酒に酔っていた、イライラしてついって言うのは、言い訳になりません!」

 

追い詰められた龍之介は沈黙した。そして、両方の手のひらでテーブルをたたき、立ち上がりざまに吐き捨てた。

 

「分かった。由衣、別れればいいんだろ?さっさと荷物まとめろよ…!」

 

そう言い放つと、龍之介はそのまま自室に籠ってしまった。龍之介の態度に、若菜は一気に頭に血がのぼった。無理矢理にでももう一度テーブルに着かせようと若菜が立ち上がった。

 

すると、由衣が渾身の力で若菜を引き止めた。

 「由…衣…!?」

 

「若菜ちゃん、もういいよ…。今の私には、彼と別れることのほうがイヤなの。心配してくれる若菜ちゃんの気持ちは痛いほど分かるし、それだけで十分だから。それに、これは私たち2人の問題だから…。」

 

少しだけ落ち着きを取り戻し、若菜はがく然とした。そして、何も解決できていないという、目の当たりにした現実に、若菜は由衣に返す言葉を見つけられなかった。

 

返り討ちに遭い、事態はさらに悪化していた。精神的に動揺が酷くなってしまった由衣は、仕事も休みがちになってきていた。

由衣が休みがちになったのと同じ時期くらいに元気を無くし始めていた若菜を見て、和輝は何か事情を知っていると踏んだ。和輝は若菜に何か知っているか尋ねた。

 

「特に何もないですよ、大丈夫ですから…。」

 

それだけ繰り返し、最初、若菜は詳細を話すことを拒んだ。自分の抱えた案件だから、自らの力で解決したかったのだ。由衣のためにも、話を大きくしたくないという気持ちもあった。そんな若菜の様子を見て、和輝は諭すように話しかけた。

 

「俺たちの役割ってのは、相談者の悩みや問題を解決することだ。抱え込まずに周りに協力を頼むのも、これから複雑な案件を担当するようになると、大事な仕事になってくる。」

 

その和輝の話に、若菜は納得した。そして、若菜のちっぽけな意地など、見透かされている気がした。自身の小さなプライドやこだわりを脇に置き、若菜はこの件についてそれまでのいきさつを和輝に話した。

 詳しい事情を聞いた和輝は、事態がここまで進行してしまった今、2人の手におえる案件ではないと判断した。そして、今時点での全力で取り組んだ若菜に落ち度はないとフォローしつつ、勇次への協力を依頼するよう勧めた。

 若菜も、最後の手段として、それは考えていた。しかし、事態をこじらせたくなく、また、2人のこれからのためにも、出来ることならば本人たちの間で解決させたかった。しかし、状況がここまで至ってしまった以上、もう他に打つ手はなかった。

就職して3ヶ月、いくつかの大きな事案も解決でき、若菜は今の仕事に自信を持ち始めていた。爽やかな日差しと南風が、若菜のやる気をさらに引き出していた。

 

金曜日、若菜は同僚たちと女子会に参加していた。そこには、普段あまり飲みにはこない、2年先輩の由衣が珍しくいた。

 由衣は短大を卒業後、事務職で採用になった。若菜は物品の発注などでしばしば彼女を頼っていた。少しそそっかしいところがあったが、彼女の愛くるしい笑顔は若菜の楽しみの1つであった。

 1時間もすると、アルコールも入り、仕事の話・恋愛の話と盛り上がってきた。その時、若菜は由衣の右手に光る指輪に気がついた。

 

「あれ、その指輪どうしたの?」

 

 若菜が思わず尋ねた。由衣はそういったものを付けるタイプには見えなかったからだ。

 

「ふふ…、気付いちゃった?」

 

そう言うと、由衣から今まで隠していた幸せそうなオーラを感じた。そして、由衣がみんなに告白した。

 

「驚かないでね…。私、彼氏と一緒に暮らし始めたの…!」

 

「えーっ!?」

 

その日一番のビッグニュースであった。一番奥手に見えた彼女に彼氏がいるだけでも十分に驚きだった。それだけではなく、同棲しているというのだから、若菜たちにとっては相当な衝撃であった。由衣の話によると、彼氏は4歳年上で、去年の夏に二輪免許を取りにいった時に知り合ったということであった。

 

幸せいっぱいの由衣をその場にいた全員で祝福し、その日の女子会はおひらきとなった。

 

それから1ヶ月、由衣とランチの時にはもっぱらその話が話題となった。

 

「彼が嫉妬して怒っちゃうの。」

 

と、前のように一緒に外出することがなくなってきたため、昼休みのランチが唯一のプライベートな話をゆっくり聞くことが出来る時間であった。ちょっと束縛があるようだけど、由衣は愛されているなぁ、若菜は何の疑いもなくそう感じていた。

 ある日、若菜は切らした蛍光ペンと封筒の発注を頼みに由衣を訪ねた。いつものように申請用紙を由衣に渡し、部屋に戻ろうとした時であった。由衣の右手に、細かな傷があるのに気付いた。

 

「あれ、どうしたのその傷は?」

 

何気なく若菜が尋ねるや否や、何かはっとしたかのように、由衣は反射的に右手を隠した。

 

「え、あ、これね。お料理していた時にできちゃって、私、とろいから…。」

 

そう笑って話す由衣の表情は、いつもの彼女の表情だった。しかし、若菜は直感的には、由衣が何かに怯え、悟られまいと隠しているように感じた。しかし、それ以外に確たる根拠もなかったので、その時は、若菜も話を合わせた。

 それから、あえて口にはしないものの、注意して観察すると、由衣の手や腕に、頻繁にそういった傷やアザが目についた。そして、どうにもそのできる場所や頻度は不可解なものであった。

 

その謎を、若菜は意外な場所で知ることとなった。

 

月曜日、若菜は忘れていた今日が期限の案件を処理するために、いつもよりかなり早目に職場に来ていた。そして、更衣室で白衣に着替えようとした時、物陰で誰かが何かこそこそしているのに気付いた。

 不審に思った若菜は音のする方向にそっと近づいてみた。すると、若菜の目に信じがたい光景が飛び込んできた。そこには、左半身のあちこちにできた外傷を泣きながら手当てしている由衣がいたのだ。その傷は、衣服で隠されていたら分からなく、そして、転んだりつまづいたりして出来るものとは明らかに違っていた。

 

「由衣、どうしたのそのケガは!?」

 

若菜の声に由衣は驚いた。いつもなら誰もいない時間に若菜がいたから、そして、今まで隠していた秘密に気づかれてしまったからだ。

 昼休み、若菜は由衣が渋るのを押しきって昼食に連れ出した。場所だけは、予定していた院外ではなく、由衣が希望した院内の食堂にした。最初、由衣は「ただ階段から転んで出来た傷」だと言い張った。しかし、小さな傷が目につくようになった由衣の最近の様子、傷の出来かたが、自分で階段から転んだにしてはアザのある箇所が散在していること、院内の先生に掛からずに自分で手当てするなど不自然であることを若菜が指摘すると、由衣は押し黙ってしまった。

 

「考えたくないけど、どう見ても由衣と同棲している彼氏との間でトラブルがあったとしか思えない。何かあると感じて、同僚の仲間がただ傷ついていくなんて、私には出来ないよ。お願いだから、事情だけでも話して…!」

 

由衣は若菜に沈黙を貫き通せないと悟り、誰にも話さないことを条件に、詳しいいきさつを話した。

 話を詳しく聞いていくと、何もない普段ならば問題ないのだが、龍之介には束縛の傾向とギャンブル癖があった。そして、負けた時にはよく外でやけ酒を煽っていた。それが原因で度々、2人は口論となった。由衣の傷やアザは、その時、龍之介による暴力で出来たものであったのであったのだ。

 

うっすらと感じていたとはいえ、実際に話を聞いた若菜は愕然とした。若菜にとっては小説やドラマでしか考えられない出来事が、こんなにも近くで起きていたからだ。

「パパ!!」

 

声のするほうを振り向くと、そこには和輝と和輝に連れられた幸恵がいた。

 

「先輩、どうして幸恵ちゃんがここに…。」

 

こういったことは、子どもは知らないほうがいい。そう考え、若菜は感づかれないように洋子への接触も行っていた。和輝はいつもの変わらない調子で、いきさつを説明し始めた。

 

「子どもだって色々考えているんだ。何も知らないと思っているのは大人だけってわけさ。」

 

言い争い自体が無くなり、両親の間で会話が消えていたり、車の中に母親のものではない口紅が落ちていたりと、幸恵は両親の異変を前々から感じ取っていた。そして、若菜が洋子に今回の計画を提示しに訪ねてきたとき、母親の動揺が尋常でなかった様子を、扉の隙間からのぞいたとき、何かあるに違いないと確信したのだ。

 
 4人のもとに連れて行くことを、最初は和輝もためらった。しかし、どんな未来の結末になっても、それを受け止める覚悟が幸恵にあることを知り、車を走らせたのであった。

「パパとママ、けんかしちゃったの?」

 

「うるさい、子どもには関係の無いことだ!あっちへ行っていなさい!!」

 

そう問いかけた幸恵を、俊彦は冷たく突き放した。全く、こんなところへノコノコと出てきて、これ以上、俺に恥をかかせるつもりか…。幸恵に対して、俊彦は背を向けたままでいた。

 子どもにはあまりにも残酷な現状の中、幸恵は、絞り出すような声で父親に尋ねた。

 

「パパ…ゆきのパパは、ずっとパパだよね…」

 

涙を浮かべながらに訴えた娘を前にして、俊彦はハッとなった。

 

幸恵が生まれる際、俊彦もその場に立ち会っていた。幸恵は難産であった。元々、子どもができにくかった洋子と俊彦が、ようやく授かったのがこの子であった。娘が生まれたとき、名前をつけたのは俊彦であった。「子のこの名前は幸恵にしよう、幸せに恵まれる子になって欲しいからな」ということが、娘の名前の由来であった。

 

そのことを思い出した今、俊彦は改めて現実と向き合った。思い通りにいかない不満から家庭を顧みず、挙句、「この子を幸せにする」というこの時の自身への誓いと今の自分自身の行いの過ちに、この時ようやく気付いた。

 

「幸恵、こっちにおいで」

 

先ほどまでの荒々しさは消え、俊彦は幸恵を呼び寄せた。胸のうちに飛び込んできた娘を俊彦は優しく、しっかり抱き寄せた。

 

「ごめんね、ごめんね…。」

 

心の奥底に封じられていた感情が、俊彦の中からこみ上げてきた。俊彦は幸恵の手を握り、今度は洋子のほうを向いた。そして、自らの答えを告げた。

 

「僕が間違っていた…。洋子、もう一度やり直してほしい。本当にすまないことをした…。」

 

我に返った俊彦を洋子は再び受け入れた。これまでの真実も偽りも、全てを3人で乗り越えていく覚悟を、洋子も決心した。2人は改めて原点に立ち戻ったのだ。

 

「何でよ…何でこんなことに…あたしと俊彦さんの愛は、本物だったはずよ」

 

一方で、目の前の出来事を受け止め切れていない歩美は呆然とした。ついさっきまで存在していた自分への愛情が、目の前で消えてしまった現実を、感情的に認められずにいた。

そして、若菜の存在を思い出すと、突き刺すような鋭い視線を向けた。失った愛情を埋め合わせるかのように、若菜への激しい憎しみが、歩美の中で湧き上がってきた。

 

「そうよ、あなたのせいよ…あなたが余計なことをしてくれたせいで、私の俊彦さんが…!!!

 

そう言って歩美が詰め寄った次の瞬間、辺りに乾いた音が響いた。

 

「痛い…何するのよ…!」

 

詰め寄った歩美を、若菜が全力で平手打ちしたのだ。

 

「甘えるんじゃないわよ、大人の女性のクセに…!」

 

地面に崩れ落ちた歩美を、今度は若菜が物凄い剣幕で問いただした。

 

「あなたの過去のこと、依頼人のお姉さんから全部教えてもらったわ。あなたが小学2年の時に、あなたたちを捨ててお父さんが不倫相手と蒸発したことも。そのことは本当にとても悲しいことだったと思う。でも、それとこれとは話は別よ。理不尽に愛する人を奪われる悲しみを誰よりも知っているはずのあなたが、どうしてこんな真似をするの!?」」

 

「おいおい、ちょっと落ち着け若菜ちゃ…」

 

あまりのストレートさに、和輝が慌てて若菜を制止しに駈け寄った。すると、歩美の様子が今までとは違っていた。目の前には、強がりも、とげとげしさも消えた、『本当の』歩美がいた。

 

「分かっていたわよ…始めから…こんな恋、誰もがみんな傷つくだけだって…。お父さんがいなくなった時から、そして今でも、3年前に亡くなった母さんも、お姉ちゃんも、私も、誰がお父さんを奪ったのか未だに分からないの…。だから、他の人に同じ思いをさせることでしか…私…。」

 

堅く、堅く閉ざしていた過去の傷と罪の意識を歩美は告白した。そして、そばに来た真理江にそのまま泣き崩れた。誰かに気づいてほしいと渇望し、今まで孤独に堪えてきた痛みや辛さを、全てぶつけるかのように…。

 

これまで、「恋が人を幸せにする」ということを信じて疑わなかった若菜にとって、今回は非常にショックの大きい出来事となった。

 思考が堂々巡りし、その夜、若菜はなかなか寝付けずにいた。気持ちを落ち着かせるため、久々にキャンドルをつけてみることにした。

 

キャンドルをぼんやりと見つめているうちに、若菜は初めて会った時の真理江と歩美、そして俊彦の様子と、最後に見た3人の姿を思い出した。

 

確かに、この件に関わった全ての人が、辛い現実と向き合い、大きな心の痛みも伴う結末になった。それでも、その痛みは後ろ向きな意味ではなく、それぞれが再び前を向いて歩いていくきっかけになったに違いない。そしてそれが、私が携わった意味になれば…。若菜はそのことを強く祈り、キャンドルを吹き消した。

 

そして後日、若菜は真理江からの手紙で、その後の経緯を伝えられた。俊彦は本社から近隣の支社へ異動となった。そして、歩美は俊彦と勤めていた会社を退職し、和輝の紹介で認知療法のカウンセリングを受けることとなった。若菜によって与えられたやり直しのチャンスの重みとそれに対する責務を、歩美たちは噛み締めていた。

土曜日、風がやや強かったものの、天気は快晴であった。赤と白の灯台が建つ海岸の防波堤に若菜はたたずんでいた。人を待っていたのである。まもなく、真理江に連れられて歩美がそこへ現れた。

 

「病院じゃなくて、こんなところに呼び出すなんて、どういうつもりかしら、先生?」

 

俊彦に予定をキャンセルされただけではなく、それと入れ違いにここへ呼び出された歩美は、苛立ちを見せながら若菜に問いかけた。若菜はそれを受け流すように逆に歩美に尋ねた。

 

「あなたは最初の集中対応の時に私に言ったわね、『歩美さんと俊彦さんの愛は本物だ』って。」

 

「当然でしょ…今の彼の心はあの女じゃなくて、私にあるのだから!」

 

そう断言した歩美の言葉など聞こえていないかのように、若菜は再び問いかけた。

 

「そういえば、今日は俊彦さんとは会わないの?」

 

 

「『何だかんだ言っても土日には会えてないんでしょう』と言いたいのね。でも、それは見当違いよ。月に1度は必ず彼と過ごしているわ。今日はたまたま彼に予定が入っていただけ。来週にはまた一緒に過ごせるのよ。他に用件がないなら、私、もう帰ってもいいかしら?」

 

敵意を剥き出しにして歩美は若菜に食って掛かかった。そんな歩美を若菜は衝撃的な言葉を告げた。

 

「彼、もうすぐここに来るわよ。」

 

歩美はキョトンとした。俊彦がこんな場所に現れる相応な理由が見当たらなかったからだ。

 

「はぁ、何言っているの?俊彦さんが何故こんなところに来るって…」

 

 歩美がそう口にした時、反対方向から人影が見えた。やがて、その姿がはっきりと見えた瞬間、歩美は落雷に打たれたような気持ちになった。

 

「俊彦さん、どうしてこんなところに…!」

 

「歩美こそ、なんでここに…。」

 

戸惑う二人に追い打ちをかけるように、若菜が事の真相を語り出した。

 

「私が呼び出したのよ、あともう1人もね。」

 

すると、歩美が来た方向から足音がした。やがて現れた人物も、この展開のカギを握る者であった。

 

「あなた…。」

 

現実を目の当たりにし、力無くそう言うだけで、その時の洋子には精一杯であった。

 

「双葉先生、これは一体どういうことなんだ!」

 

困惑する俊彦に対し、若菜は真実を語り始めた。

 

「残念だったわね。私があなたに近づいた本当の理由は、歩美さんとの恋愛の脆さをはっきり示すためよ。事前に相談に訪れたとき、奥様はあなたの不倫に感づいていた。けれど、あなたを取り戻したいって言ってたわ。本当は…こんな手段は使いたくなかった。それでも、相当深いところまできてしまったこの恋愛を止める可能性を見出すためにはもう、これしかなかった…。」

 

若菜が話し終えると、辺りは沈黙に包まれた。防波堤に打ち寄せる波や海から吹きつける浜風は、そこにいたすべての人間の心境を表しているかのようであった。若菜は4人のほうを向き、重い空気を破った。

 

「真理江さん、私にできることはここまでです…。歩美さん、洋子さん、俊彦さん、ここから先はあなた方3人の未来です。自分たちで決断をしてください。」

 

サイは投げられた。残された気力を振り絞るかのように、自らの偽りのない心情を、洋子は俊彦に訴えた。

 

 「あなたの裏切りは、きっと一生許せないと思う…。それでも、あなたとこれまで紡いできた日々を信じたい。だからお願い、目を覚まして、私ともう一度やり直してほしい…!!」

 

すると、歩美もすかさず切り替えした。

 

「はぁ、あなたのほうこそ、何勝手なこと言っているのかしら?あなたが俊彦さんのことをちゃんと考えてあげられなかった結果でしょ?ちょうど良い機会だわ。あたしを選んで、俊彦さん!今回は恋愛のプロが相手だったから騙されてしまったけど、私たちの愛こそが真実ということは変わらない。この女に、最後通告を突きつけるのよ!!」

 

 2人の声は俊彦に半分は聞こえ、半分は聞こえていなかった。試されたことに対する怒りや、手玉に取られた屈辱感で俊彦の頭は堂々巡りをしていた。右手を強く握り締めたまま、震えが止まらない状態であった。

 

『俺を…この俺を試したって言うのか…。俺は…試されるのが一番嫌いなんだ…!!』

 

怒りの矛先はまず若菜に、続けて、洋子に向けられた。目の前が真っ白になり、何も視界に入ってこない心理状態であった。そんな中、まず目に飛び込んできたのは、歩美の力強く凛とした姿であった。

 

そうだ、俺の人生は俺の人生で、1回きりしかないんだ。これから先、自分にとってより良い人生にしていくために何を決断すれば良いか、答えはもうあるじゃないか…。

 

憤りを抑え、2人に背を向けつつ俊彦は話し出した。

 

「俺は…」

 

俊彦がそう口にしたときであった、遠くから甲高い声が響いてきた

水曜日の夜、俊彦はいつものようにバーでハイボールを飲んでいた。歩美が習い事のため、水曜日はこうして行きつけのバーで時間を潰してから帰宅していた。

 

飲み始めて30分程経った頃、一人の若い女性が近づいてきた。

 

「隣、いいかしら?」

 

そう尋ねた女性に対して俊彦は淡々と答えた。

 

「別に、構わないですよ。」

 

女性は座るとノンアルコールのカクテルを注文した。そして、注文を取った店員が移動すると、再び女性が話しかけた。

 

「お一人でここへ?」

 

「ええ、いつもの連れが今日は用事があるもんでね。」

 

やけに積極的だな…そう妙な違和感を感じていた俊彦は、次の女性の言葉でその理由を知った。

 

「そう…歩美さんは今日お稽古ですものね。」

 

「君か…三鷹病院の双葉医師というのは。」

 

ある程度予測できた流れに、俊彦は冷静だった。そして、逆に若菜に尋ねた。

 

「真理江さんから聞き出したのか?まぁ、そんなことはどうでもいい。歩美の説得が難しいと踏んで、僕を説得にきたのかな?確かに、今はまだ家庭を壊す気はさらさらない。だが、今の僕が愛しているのは妻の洋子じゃなく、歩美だ。」

 

軽くいなそうとして俊彦は若菜にそう話した。だが、俊彦に対して、若菜は意外な言葉を口にした。

 

「あら、そんなんじゃなくてよ。歩美さんが奥様からそうしようとしているように、私も歩美さんからあなたを奪おうと思ってね。」

 

若い女性が自分に気を持ってくれることに俊彦は悪い気はしなかったものの、想定外の流れであった。そこで、ここは男らしくクールに対応してみた。

 

「へえ、それは意外だな。でも、それは真理江さんからの依頼と矛盾しないのかな?」

 

「私が引き受けた依頼は歩美さんに新しく素敵な恋愛をしてもらうこと、簡単に言えばあなたと別れさせることなの。だから、ビジネスとしての契約については、私があなたを奪うことに何の問題はないわ。恋は戦場、そうじゃなくて?」

 

そう答えた若菜の雰囲気はとても大学を卒業したばかりとは思えない妖艶さを放っていた。

 

自分の今の歩美との関係を壊そうとする若菜に最低限の警戒は解かず、帰り際に一言告げた。

 

「水曜日は大抵ここにいる。話し相手くらいなら構わない。」

 

それから2ヶ月ほど、2人は水曜日に洋子と歩美の目をかいくぐって落ち合っていた。回数を重ねていくにつれ、俊彦の警戒心も薄くなっていった。

 

ある水曜日の夜、俊彦は若菜を誘ってみた。時期的に頃合いと踏んだのだ。

 

「近くに落ち着いて2人きりになれる場所を用意した。行こうか?」

 

気がある男性からの誘いならば喜んで受けるだろう。そう俊彦は考えていた。しかし、その予測は当たらなかった。そして、若菜は俊彦に切り返した。

 

「私、自分に気持ちが向いていない人に許せるほど、安い女じゃないの。」

 

期待を裏切られた俊彦は不快に思った。今まで女性に断られたことなど皆無に等しかったからだ。そんな俊彦に若菜は続けて話した。

 

「でも、そうね…今度の土曜日、会ってくれて、その後でなら考えなくもないわ。」

 

それだけ伝えると、若菜はバーを後にした。

 

今度の土曜日…その日は歩美と会う約束をしていた。

 

翌日、歩美はテナントの地下にあるレストランフロアに向かっていた。地下に繋がる直通のエレベーターに乗り、扉が閉まろうとしたとき、男性が駆け込みで飛び乗ってきた。俊彦であった。

 

二人きりのエレベーターの中で、何気ない会話を二人は始めた。

 

「お疲れ様、俊彦さん。相変わらず大変みたいね。」

 

「ああ、うちの液晶が携帯会社の新製品に採用されてね。これからすぐに相手先で発注数や納期の交渉だよ。」

 

エレベーターが到着し、入り口と地下に分かれようとしていた時、歩美が俊彦に尋ねた。

 

「ところで、今度の土曜日だけど、いつもの場所でいいかしら?」

 

歩美からの問いかけに、一瞬、俊彦は答えに窮した。しかし、すぐに気を取り直して俊彦は歩美に答えた。

 

「え?ああ…その日なんだが、また来週以降にしてもらってもいいかな?」

 

「えっ!?

 

歩美の不満な感情が読み取れた。当然と言えば当然である。何とかその場をしのごうとして、俊彦は嘘ではないものの、真実でもない理由づけをした。

 

「実は…幸恵のピアノ教室の送迎をしなくっちゃならなくなってな。いつもとレッスンの時間がずれて、ちょっと迂闊に動くのはまずくなってしまってね…。」

 

もちろん、その理由に歩美は納得いかなかった。しかし、ここは1つ、洋子との違いを見せようと計算した歩美は「良き女性」を演じてみせた。

 

「そう…分かったわ。また今度の土曜ね。」

 

「ありがとう、今度この埋め合わせはするよ!」

 

別方向に別れ、俊彦は予約してあったタクシーに乗り込んだ。しばらくすると、俊彦は携帯を取り出した。そして誰かと連絡を取り出した。