水曜日の夜、俊彦はいつものようにバーでハイボールを飲んでいた。歩美が習い事のため、水曜日はこうして行きつけのバーで時間を潰してから帰宅していた。
飲み始めて30分程経った頃、一人の若い女性が近づいてきた。
「隣、いいかしら?」
そう尋ねた女性に対して俊彦は淡々と答えた。
「別に、構わないですよ。」
女性は座るとノンアルコールのカクテルを注文した。そして、注文を取った店員が移動すると、再び女性が話しかけた。
「お一人でここへ?」
「ええ、いつもの連れが今日は用事があるもんでね。」
やけに積極的だな…そう妙な違和感を感じていた俊彦は、次の女性の言葉でその理由を知った。
「そう…歩美さんは今日お稽古ですものね。」
「君か…三鷹病院の双葉医師というのは。」
ある程度予測できた流れに、俊彦は冷静だった。そして、逆に若菜に尋ねた。
「真理江さんから聞き出したのか?まぁ、そんなことはどうでもいい。歩美の説得が難しいと踏んで、僕を説得にきたのかな?確かに、今はまだ家庭を壊す気はさらさらない。だが、今の僕が愛しているのは妻の洋子じゃなく、歩美だ。」
軽くいなそうとして俊彦は若菜にそう話した。だが、俊彦に対して、若菜は意外な言葉を口にした。
「あら、そんなんじゃなくてよ。歩美さんが奥様からそうしようとしているように、私も歩美さんからあなたを奪おうと思ってね。」
若い女性が自分に気を持ってくれることに俊彦は悪い気はしなかったものの、想定外の流れであった。そこで、ここは男らしくクールに対応してみた。
「へえ、それは意外だな。でも、それは真理江さんからの依頼と矛盾しないのかな?」
「私が引き受けた依頼は歩美さんに新しく素敵な恋愛をしてもらうこと、簡単に言えばあなたと別れさせることなの。だから、ビジネスとしての契約については、私があなたを奪うことに何の問題はないわ。恋は戦場、そうじゃなくて?」
そう答えた若菜の雰囲気はとても大学を卒業したばかりとは思えない妖艶さを放っていた。
自分の今の歩美との関係を壊そうとする若菜に最低限の警戒は解かず、帰り際に一言告げた。
「水曜日は大抵ここにいる。話し相手くらいなら構わない。」
それから2ヶ月ほど、2人は水曜日に洋子と歩美の目をかいくぐって落ち合っていた。回数を重ねていくにつれ、俊彦の警戒心も薄くなっていった。
ある水曜日の夜、俊彦は若菜を誘ってみた。時期的に頃合いと踏んだのだ。
「近くに落ち着いて2人きりになれる場所を用意した。行こうか?」
気がある男性からの誘いならば喜んで受けるだろう。そう俊彦は考えていた。しかし、その予測は当たらなかった。そして、若菜は俊彦に切り返した。
「私、自分に気持ちが向いていない人に許せるほど、安い女じゃないの。」
期待を裏切られた俊彦は不快に思った。今まで女性に断られたことなど皆無に等しかったからだ。そんな俊彦に若菜は続けて話した。
「でも、そうね…今度の土曜日、会ってくれて、その後でなら考えなくもないわ。」
それだけ伝えると、若菜はバーを後にした。
今度の土曜日…その日は歩美と会う約束をしていた。
翌日、歩美はテナントの地下にあるレストランフロアに向かっていた。地下に繋がる直通のエレベーターに乗り、扉が閉まろうとしたとき、男性が駆け込みで飛び乗ってきた。俊彦であった。
二人きりのエレベーターの中で、何気ない会話を二人は始めた。
「お疲れ様、俊彦さん。相変わらず大変みたいね。」
「ああ、うちの液晶が携帯会社の新製品に採用されてね。これからすぐに相手先で発注数や納期の交渉だよ。」
エレベーターが到着し、入り口と地下に分かれようとしていた時、歩美が俊彦に尋ねた。
「ところで、今度の土曜日だけど、いつもの場所でいいかしら?」
歩美からの問いかけに、一瞬、俊彦は答えに窮した。しかし、すぐに気を取り直して俊彦は歩美に答えた。
「え?ああ…その日なんだが、また来週以降にしてもらってもいいかな?」
「えっ!?」
歩美の不満な感情が読み取れた。当然と言えば当然である。何とかその場をしのごうとして、俊彦は嘘ではないものの、真実でもない理由づけをした。
「実は…幸恵のピアノ教室の送迎をしなくっちゃならなくなってな。いつもとレッスンの時間がずれて、ちょっと迂闊に動くのはまずくなってしまってね…。」
もちろん、その理由に歩美は納得いかなかった。しかし、ここは1つ、洋子との違いを見せようと計算した歩美は「良き女性」を演じてみせた。
「そう…分かったわ。また今度の土曜ね。」
「ありがとう、今度この埋め合わせはするよ!」
別方向に別れ、俊彦は予約してあったタクシーに乗り込んだ。しばらくすると、俊彦は携帯を取り出した。そして誰かと連絡を取り出した。