『父さん、母さん、わがままな私たちの親不孝をお許しください。私にとって、良太さんのいない人生は考えられないのです。2人で、誰も見知らぬ土地で生きていきます。もし、いつか再会できた時に、幸せな家庭を築いている私たちを認めてくれたならば…そんな勝手な願いが、最後のわがままです。今までありがとうございました。父さん、母さん、愛しています。』

 

この状況に、徹也は悲しみと怒りで気が動転しそうであった。ほんの少し前まで当たり前であった日常が、無くなってしまったからだ。少し時間が経ち、思考力が戻ってきた。そして、1つ心当たりが見つかった。悲しみの代わりに、今度は怒りが込み上げてきた。

 

「あの医師め…!!

 

母親が止めるのも聞かず、徹也は三鷹病院に乗り込んだ。相手のいるはずの部屋に怒り心頭で殴り込むと、そこにはすでに先客がいた。

 

「ちょっと、どうしてくれるのよ!あんた、2人がどこへ行ったのか知っているんでしょ!さぁ、白状しなさいよ!!

 

「本当に知らないんです…!別を当たってください!!

 

美由紀は若菜に激しく詰め寄った。若菜が2人を逃す手助けをしたに違いない、そう強く思っていたからだ。

 

その様子を見た徹也は、怒りの矛先を若菜から美由紀に今度は移していった。

 

「このヤロウ…きさまのところの青二才が、ヒトの手塩にかけた娘を奪いやがって…。どうしてくれるんだ、ウチは従業員20名を食わせていかなきゃならない立場なんだ!私のメンツも立たないではないか!!

 

そういきり立つ徹也に、美由紀は鬼のような形相で言い返した。

 

「それはこちらのセリフよ、お山の大将めが!こっちは、何万という職員や関係者がいるのよ。あんたのところのドロボウ猫のせいで、どれだけ私どもの名誉にキズをつけたと思っているのよ!」

 

「ドロボウ猫、お山の大将だと…あまりと言えば失礼な!」

 

「何よ、本当のことを言っただけよ!メンツって言うけど、こちらの方が、世間体が丸潰れじゃない!!

 

その後も、相手に対する罵詈雑言が飛び交った。

 

「言い争いなら、よそでやってよ~!」

 

聞くに耐えないその状況に、若菜は仲裁に入ることすらできなかった。

 

その時、まるで車が飛び込んで来たかのような轟音が部屋中に響いた。音がした方を見ると、木製のついたてが真っ二つに粉砕され、勢いそのままに、壁にも大穴が空いていた。そして、今まで見たことがないような、仁王のような表情の和輝が立っていた。そして、怒りの感情そのままに、和輝は2人を叱責し出した。

 

「さっきから聞いていれば、工場がどうの世間体がどうのいった言葉は出てくるが、『2人が心配だ』という言葉が一言も無いじゃあねえか…。どうして2人のことを考えてやれねえんだ!!」

 

徹也と美由紀は和輝に圧倒され、返す言葉が出てこなかった。若菜は2人に対して、1つ提案をした。

 

「何とか探し出して説得してみます。ただし、こちらとしても条件があります。もし、2人が戻ってきましたら、話し合いのテーブルについてあげて下さい。」

 

徹也と美由紀は、若菜の提案に渋々同意した。とにかく愛と良太を連れ戻せれば…。そんな計算でいた。

 

1週間後、勇次から若菜たちに連絡が入ってきた。国外だと流石の勇次でも捜索できなかったが、幸いにして、2人はまだ国内にいた。

 

「捜査の合間にとはいえ、たまたま後輩が張っていた検問で出くわさなければ情報0で、探すのすんげぇ大変だったんだぜ。今度、銀座でおご…。」

 

必要な情報を全て聞き出したので、勇次からの電話を切ると、和輝は若菜に2人の居場所を伝えた。

 

「見つかったよ、静岡にいるらしい。」

 

若菜たちに伝えた、勇次が導き出した結論はこうであった。

 

良太だけならばともかく、愛が一緒となると、いくらスーツケース2つ~3つにまとめたとはいえ、そう遠くまでは行けない。また、逃避先は松ヶ崎グループ関係やその対抗勢力とは馴染みが薄い、生活が成り立てられる土地でなければならない。

 

そうした全ての条件をクリアしたのが、静岡であった。静岡県内にも松ヶ崎グループの事務所はあるが、それは静岡市であり、東海地区はあくまでも名古屋事務所が中心であった。

 

また、2人の滞在先は松ヶ崎グループにはなじみの薄い、パルプや製薬が比較的発達していた。良太は公認会計士の資格を持って実務もこなしており、生計の見通しは立てられた。良太が愛の姓を名乗ってしまえば、良太の身元は相当に判明しにくくなる。

 

若菜たちはすぐさま、2人のもとへ車を走らせた。

 

その頃、良太たちはアパートを一室借り、新婚夫婦として生活を始めていた。

 

「部屋は借りたし、こっちでの会計士登録もすませた。後は、住民票をこっちに移すことだな…。」

 

愛が心身共に消耗していたため、急には色々と動かず、愛が落ち着くまで2人でゆっくり過ごしていたのである。

 

「ねぇ、良太さん…。」

 

まだ少し覇気がない様子で、愛は良太を呼んだ。

 

「どうした、愛?どこか具合でも悪いのか!?」

 

冷蔵庫から飲み物を取り、戻った大輔は愛のもとに駆け寄った。愛は、良太に尋ねた。

 

「本当に良かったの…?私のことなんか忘れて…私との思い出なんて捨ててしまえば、あなたには、輝かしい未来があったのに…。」

 

愛の問いかけに、良太は迷いなく答えた。

 

「バカなこと言うなよ、愛…。俺には、君がいない未来なんて考えられないよ…!」

 

そう言うと、良太は今にも心が壊れそうな愛を、両腕でぐっと胸の中に抱きしめた。

 

「ごめんなさい、良太さん…。私のせいで…私の…。」

 

愛を抱きしめながら、良太は思った。どうして、こんなことになってしまったのだろう…。そしてまた、思った。愛の未来を、自分が幸せなものにしていかなければ、と。

 

その時、部屋のベルが鳴る音がした。誰が訪ねて来たのか、良太が愛の手を引きつつ、そっと覗き窓を確認した。外で待っていたのは若菜たちであった。良太たちは安堵し、玄関の扉を開けた。