「いえ、その、社長に用があるということで…」
「いえ、その、社長に用があるということで…」
二人して相変わらず洋服を見て小物を見てといった感じで街を散策した後、近くの喫茶店に入った。
数日後、由佳と隼人は立川のグランデュオ前で会うことになった。少し離れた、2人から死角になるところから若菜と和輝が見守った。
「この前はゴメンね、取り乱しちゃって…」
由佳は先日のことを隼人に謝ると、隼人はいつものように答えた。
「ああ、別に気にすんなよ。」
そして、自分自身の意志を由佳に伝えた。
「前から話しているけど、プロとして一流のミュージシャンになるのが俺の夢なんだ。いつまでも待たせてしまってすまないと思うけど解ってほしい」
隼人の意志は変わらないし、変わっちゃいけない。でも、変わってほしい…。感情を整理しきれないまま、由佳は話し出した。
「うん…そうだよね…そのために今まで頑張って来たんだもんね…。ゴメンね…解っているはずなのにね…。」
由佳は複雑な心境であった。そんな今にも泣き出しそうな由佳を前に、隼人が意を決して告げた。
「3年、待ってほしい。」
そう切り出すと、隼人は続けて言った。
「必ず迎えに行く。3年後にミュージシャン・藤原隼人が君を迎えに行くことを信じてくれ!」
由佳は泣いていた。しかし、先ほどまで見せていたものとは違う涙であった。由佳もまた、自らの決意を隼人に伝えた。
「私、待ってるよ…。3年後に隼人がきっと迎えに来てくれるって。信じているよ。」
新たな決意のもと、2人は未来に向かっての約束を交わした。
「久々に聴いてもらいたい曲がある。いいかな?」
そう言うと、隼人は持っていたエレキギターを取り出し、由佳は手すりに寄りかった。
準備ができると、真冬の夜空のもと、隼人が曲を弾き始めた。それは、隼人が初めて作ったオリジナル曲であり、2人の出会いの曲であった。夜も更け、人通りは閑散としており、由佳だけが隼人の奏でる音に耳を傾けていた。それでも、その時の2人にはそれで十分な幸せが訪れていた。
2週間後、由佳から若菜のもとに手紙が送られてきた。大学時代の恩師を訪ね、前々から話をもらっていた本場アメリカでの留学を隼人は決断し、3ヵ月後にはニューヨークへ旅立つと言うことが書かれていた。懸案だった資金繰りは日本での活動休止と海外勤務で捻出するということであった。
ある程度軌道に乗り始めた活動を中断することは、非常に勇気がいる決断であっただろう。しかし、隼人は未来のために決断した。こうして、2人はまた今まで以上の遠距離恋愛に立ち向かうこととなった。若菜もまた、その困難を乗り越えた先に、由佳と隼人にとって最高の未来が待っていると信じた。
そして3ヵ月後、若菜と和輝、そして由佳に見送られて、隼人は海外での武者修行へと旅立って行った。
その頃、隼人は高田馬場で行きつけのラーメンを食べていた。
『今日はついていなかった…たまにはあるとはいえ、由佳とも気持ちがすれ違ってしまったようだ…。でも、よりによって今日じゃなくていいだろう…。』
そんなことを考えては、気持ちを切り替えようと思い、目の前のラーメンをすすった。ラーメンを食べ終え、勘定を済ませると隼人は部屋に戻ることにした。そして帰り際、自販機でコーヒーを買おうとした時、あることに気づいた。
「オヤジ…釣り間違えてるよ…。」
ラーメン代を精算した際、釣りが100円足りなかったのだ。給料日前だったため、そのまま戻ることにした。その時、隼人を呼び止める声がした。
「あれ、隼人君じゃないか?」
声のするほうに顔を向けると、コート姿の和輝がいた。会議が無事に終わり、同僚たちと一杯やった帰りだったのである。二人は歩いて新宿駅に向かった。歩きながら、和輝は隼人から事の顛末を聞いた。新宿駅に着くと、和輝がダイドーの缶コーヒーを隼人に差し入れ、2人はサテライト口のベンチに腰をおろした。
「なるほどねぇ、オーディションが上手くいかなかった上に彼女とケンカしてしまった。おまけにラーメンで釣りまで間違えられたとは、ツイてない1日だなぁそりゃ。」
「ホント、和輝さんに声かけてもらわなかったらむっちゃ凹んで部屋に戻るところでしたよ。」
和輝に気持ちを察してもらい、隼人の口からは思わず本音が漏れた。落ち込む隼人を励ますかのように和輝は声をかけた。
「しかし、一度しかない人生、男なら夢に懸けてみたいよな!」
その一言に、隼人は少し元気を取り戻した。
「ありがとうございます。やっぱ男同士、話が合いますね!」
隼人は、この重い話題を変えようと思い、違う話を切り出した。
「そういえば、若菜ちゃんから聞いたんですが、和輝さんも高校から奥様と付き合っていて、学生結婚されたらしいですね。やっぱ大恋愛だったんですか?」
「まあな。でも…結婚の時には色々あったよ。」
そう言うと、和輝は妻とのエピソードを語り始めた。その内容は、隼人の想像をはるかに超えるドラマであった。
一方、若菜たちはしばらく街を歩いた後、近くのファミレスに入った。その時には、由佳の状態も大分落ち着きを取り戻していた。
いきさつを話した後、由佳は隼人との出会いから若菜に話し始めた。
「私が高校の陸上部のレベルについていけなくなってきて、初めて部活をサボった日に隼人と出会ったんだ。音楽室でギターを弾いていた隼人はすごくかっこ良かった。その時、2人っきりの音楽室でいくつかオリジナル曲も弾いてくれたんだ。当時、隼人の両親は音楽の道に進むのに猛反対していて、九段坂大だけ教職免状の取得を条件に、一度だけ受験を認めてもらった。いつだって隼人は、前だけを見ていた。そのための努力を惜しまなかった。そんな隼人が好きだから、私も挫折しかけた陸上や、辛かった浪人生活も頑張れた。」
少しだけ元気が出てきたように見えた由佳だったが、再びその表情が曇った。
「でも…周りがみんな幸せになっているのに、私はいつまで待てばいいのか、いつまで待てるのか…。隼人が好きなのに…。ゴールの見えないマラソンを走っているみたいで、自信が持てないんだ…。」
新宿駅では、和輝が隼人に自身の過去を話していた。
「俺とかみさんが大学1年の冬、あいつの妊娠が分かった。当時、景気は今世紀最大の大恐慌と言われる悲惨な状況だった。それに、今と違って授かり婚や学生結婚への理解はほとんどなかったし、田舎の地元はなおさらだった。義両親にあいさつに行ったら、待っていたのは当然のごとく義父(おやじ)さんの右の鉄拳だったよ。義父さんの怒号とうろたえる義母(おかっ)さん、泣き叫ぶかみさんの姿だけがそこにあった。そんでもって『産む』『産ませない』『別れろ』『別れない』、最後は『生きる』『死ぬ』の大騒ぎだった。うちの実家でも同じような展開だったよ。肉体的にも精神的にもみんなボロボロになりながら、最後は親を説得しきって、何とか俺たちは長男を授かって一緒になれた。」
隼人は和輝の意外な過去に驚いた。和輝は、普段、そんな素振りを見せたことなどなかったのである。和輝は続けて話した。
「それでも、その代償は小さくはなかった。特に、かみさんには肩身の狭い思いをさせた上に、大学生ならできたはずの楽しみも、ほとんどさせてやれなかった。だからこそ強く思ったよ、卒業後は、俺が2人をちゃんと養って、幸せな家庭を守っていくってな。当時はえり好みしている余裕など無かったが、景気が回復してきて、出来るだけ家族と一緒に過ごせる時間が持てるようにと、今の仕事を選んだ。」
和輝の壮絶な過去に、続ける言葉を隼人は見つけられなかった。そんな隼人の背中を押すように、和輝は人生の先輩としてアドバイスを送った。
「夢を追いたいという君の気持ちは解っているつもりだ。ただ、ずっと不安に待ってくれているお姫様を安心させるのもナイトの務めってもんだぜ。」
「そう…です…ね」
近くの喫茶店に入り、オープンテラスで隼人は由佳から先輩の話を聞いた。先輩が育児休暇に入る前、隼人は彼女を通じて、インストアライブをよくやらせてもらった。先輩が頑張っている姿に、自分も励まされるような気持ちになった。先輩の話が一区切りすると、由佳が一番聞きたかったことを尋ねた。
「そういえば隼人、オーディションのほうはどうだったの?」
隼人は期待している由佳にどう答えるか、一瞬詰まった。だが、すぐに気持ちを切り替え、ありのままの結果を伝えた。
「ああ…結果は厳しそうだよ…。それでも、ギターそのものは高く評価してもらったよ!まずは来月の対バンライブに向けて頑張らないとな!」
隼人は今回の結果をバネに、次に目を向けていた。しかし、その時の隼人の気持ちは、由佳には届いていなかった。由佳の頭の中では、ネガティブな感情が次々と沸き起こった。
『またダメだったんだ…。いくら隼人でも、ジャズじゃ…音楽の世界では…勝負出来ないんじゃないの…。』
『周りの先輩や友人たちは幸せになっていっているのに、私は一体いつまで待てばいいの?』
いつもなら、隼人のためにそういった感情も抑えられた。しかし、先輩の幸せそうな様子を見たばかりの由佳にはあまりにも辛い現実であった。
「もう…いいよ…」
ずっと隠してきた本心が、とうとう口から漏れてしまった。
『言ってしまった…』
そう思いつつ、由佳は自分の気持ちを話した。大好きな隼人とずっと一緒にいたいから…。
「もういいよ、隼人は十分頑張ったよ。大学時代から学費・生活費を自分のアルバイト代で捻出して、その合間にストリートに立って演奏技術を磨いて、昔はどこも全く通らなかったオーディションも、今は大手レーベルでも残るようになって…。今、別の道に進んでも、隼人が頑張ってきたのを、私がずっと覚えているから…。」
いつもと様子が違う由佳を前に、隼人は戸惑った。だが、応援してくれている由佳にそれを悟られまいとして、意識的に明るめな口調で話しかけた。
「どうしたんだよ、由佳。何があったんだよ?」
しかし、隼人の想いは、その時の由佳には届かなかった。それだけの気持ちの余裕が、由佳にはなかったのだ。次の瞬間、由佳は自らの悲しみを、そのまま隼人にぶつけることしかできなかった。
「どうして…どうして私の気持ちを分かってくれないの…。隼人のバカ…私…知らない…!」
涙をたたえた瞳を向け、それだけ隼人に言うと、由佳はそこから逃げ出すように店を飛び出した。行き先もなく、衝動が突き動かすままに由佳は街を駆けた。やがて、衝動が収まってくると、雑踏の中で立ち止まった。そして、助けを求めて携帯を握りしめた。
その頃、若菜はパソコンと格闘していた。和輝からこんなメールが届いたからである。
『ワリイ、会議資料をデスクトップに保存したまま忘れていた(゜∀゜;)。大至急、資料をPDF形式に変換してメール添付で送ってくれぃ( ̄○ ̄;)。』
普段、若菜はWindowsを使っていたのに対して、和輝はMac派であった。パソコンが苦手な若菜にとって、いつもと違うパソコンでの操作はかなりしんどいものであった。文句を言いつつ、どうにかこうにかメールを送ると、売店にお菓子を買いに席を立とうとした、その時であった。
『今日の夕方、時間ある?』
由佳からメールが来た。いつもなら何か用がある時は前日までには連絡をくれる由佳にしては急だなと思いながら、過去にもないわけではなかったので、そこは特に気にしないことにした。その日は急ぎの用件もないので、7時に吉祥寺のサーティワンで待ち合わせることにした。
7時、仕事を切り上げた若菜は待ち合わせの場所に向かった。まぁ、いつものようにどこかで夕食でもといったところだろう。そう考えながら駅を出ると、由佳の後ろ姿を見つけた。近づいて声を掛けると、若菜は驚きを隠せなかった。振り返った由佳の顔は、今にも泣き出しそうな様子であったのだ。
「どうしよう…私…隼人を困らせちゃったよ…。」
それだけ言うと、由佳は若菜に抱きつき、その瞳からは大粒の涙がこぼれだした。
「ちょっと…どうしたの、由佳!何があったのよ!?」