夜、直樹から電話があった。

「悪いな、若菜…。お前の病院が買収先になっちまって。」

若菜は直樹を責めなかった。トップ同士のやりとりの中で生じた結果であり、どうしようもなかったからだ。

「社長には俺の事情を説明してある。知り合いの勤務先だから俺は適任ではないんじゃないかって尋ねたら、これから先にも、こうした事態は見込まれるから上手くやれって言われてさ。急な買収や他機関からの撤収は絶対にない方向に調整するよ。うちの社長、いい人なんだけど、買収関係は特に手段を選ばないからさ…。仕事だから、買収そのものはそれなりの時期には成立させないといけないけどね…。」

それからの数週間、表向きは建設的な話し合いとしつつも、裏では熾烈な延命策と買収時期の調整が続いていた。そして、基本的には、打ち合わせでは三浦社長が直々に関与したため、主導権は三浦コーポレーションにあったのは、誰の目から見ても明白であった。

そんな毎日の中で、和輝は、経営はどうこうできないから、理事長に任せるしかないよと言い、飄々といつものように仕事をしていた。だが、若菜はもつれた糸のような気持ちを引きずったままであった。

買収騒動から1ヶ月が経とうとしていたある日、若菜は外回りに行っていた。

「もう、いいじゃん…。この買収は、私には、私と直樹には関係ないことじゃない…。」

そんなことを考えていると、交差点で後ろから呼び止められた。

「あれ、若菜さんじゃない。」

声のするほうに目を向けると、見覚えのある一人の女性が、若菜に手を降っていた。

「やっぱりそうだったわ!お久しぶりね、若菜さん。」

その女性の美しさに、若菜は思い出した。そう、恋愛相談医として最初に集中対応を担当した綾である。あれから牧人ともずっと続いているらしい。これから一緒に夕食を食べに行くとのことだ。病院まで行く方向が同じなので、一緒に向かいがてら、今の病院の状況を話した。

「そう…そんなことがあったのね。お互いにまだ気持ちがあるのに、まるでロミオとジュリエット、苦しいわね。」

綾さんらしい表現だ。気持ちを察してもらい、どこか嬉しいような、しかし、虚しいような、そんな感情を若菜は抱いた。気を紛らせようと、牧人との最近の状況をもう少し詳しく聞いてみた。

「そうね…最近、彼、仕事が忙しくなってきたけど、いつも電話で声は聞けるし、毎月必ずどこかの休みで会っているわね。この前は、御殿場のアウトレットに出かけて、彼お薦めのレストランにも行ったわね。前と同じように付き合っているわ」

大人の雰囲気をまといながら、綾は嬉しそうに話していた。そして、若菜も嬉しかった。初めての大仕事で、かなりもがいたけど、その甲斐があったな、と。

そして、綾が続けて話した。

「それでも、少しだけ変わったことがあるかな。」

それは何か、気になった若菜に綾が答えた。

「感情だけで判断することは少なくなってきたわね。前に付き合っていた時は、喧嘩すると、わーって言い合って、ふてくされて、寂しくなった頃に仲直り。今は、言い合いになりそうなときは、お互いにどうしたいのかきちんと話し合えるようになったわね。もちろん、たまには言い合っちゃうけど。あと、彼、時々、口癖のように言うわね。私と付き合って、あの時、感情に任せてしまったことは凄く後悔したし、今もこれからも、その時のことは絶対に忘れちゃいけないなって。」

胸に刺さるような言葉であった。迷子のような若菜に綾が続けて言った。

「あなたなら、きっと、どんな未来になっても受け入れられると思う。でも、中途半端なものじゃなくて、考え抜いた結果としての決断であってほしいわ。ふふ、ちょっとお説教ぽくなっちゃたわね。」

そうこう話し込んでいるうちに、三鷹病院の近くに着いた。

「ありがとうございます、綾さん。話を聞いてもらえて、少し気が楽になりました。」

そうお礼を言う若菜に対して、綾が応えた。

「こちらこそ、お仕事中にごめんなさいね。それじゃあ、大変だけど頑張ってね。」

そう言って、綾は駅のほうに向かっていった。

その日の夜、一人だけの診察室で、若菜は今までの自分の診察記録や日誌に目を通していた。嬉しかったことや辛かったこと、楽しかったことや辛かったこと…。様々な出来事を思い返して、恋愛相談医としての軌跡を新ためて振り返った。そして、自分自身と静かに向き合った。やがて、若菜が自分自身の中で1つの結論を出した。

私は…この仕事に、仲間たちに誇りを持っている。

翌日、新橋にある三浦グループのビルで最終調整が行われていた。交渉の長期化がブランドイメージの低下に繋がりかねないと龍一が考え、理事長に決断を迫ったからだ。こういった修羅場をくぐり抜け、百戦錬磨と謳われた理事長も、流石に万策尽きたかと考えつつ、必死で打開策を探っていた。

その日、病院は臨時休業となっていた。若菜は電車に乗り、協議が行われている三浦グループのビルに向かっていった。どうしても相手方のトップに話したい、話さなければいけないことがある。その想いが、迷いなく若菜を突き動かしていた。

新橋のビルに着き、受付で単刀直入に切り出した。アポイントは取っていない。

「あの、私、三鷹病院の双葉若菜というものです。突然で申し訳ありません。御社の三浦社長のお会いできないでしょうか?どうしても話したいことがあるのです。」

若い受付嬢と警備員は事務的に回答をした。

「申し訳ございません、社長は大変お急がし身なので、アポイントをとった上で、またお越しくださいますよう願います。」

若菜は食い下がった、ここで引くわけにはいかなかったからだ。時間が残されていない…。

「10分…いえ、5分でいいんです。せめて、ビルから出てくる間だけでも話しかけて構わないでしょうか?」

入り口の検査ゲートをくぐれているので、怪しいものではないと思いつつも、どう対応すればよいか2人は困惑した。そこで、受付嬢がスケジュール確認を行ったところ、21時にこの会議が終わった後、社長は特に予定が入っていないこととなっていた。それを確認した警備員が若菜に話した。

「分かりました、今回だけ特別によろしいでしょう。ロビーの前で待っていてください。自販機やお手洗いなどは、私や受付嬢がご案内します。ただ、先ほどもお伝えしたように、社長はお忙しい身ですし、ビルが連なっていますので、出入り口もこのビルはいくつかあります。ここから出てくるとは限らないので、そういった点だけはご了承願いますよ。」

警備員の指示通り、若菜はロビーで待った。警備員も受付嬢も、2~3時間もすれば、諦めて帰るだろうと考えていた。

12時、若菜は待っていた。昼食はロビーのコンビニで購入した。
15時、もう諦めるだろうと警備員も受付嬢も思っていたが、若菜はまだ残っていた。
19時、ビル内で勤務する従業員もちらほら帰り始めたが、若菜はまだそこにいた。
20時半、決意は少しも揺らぐことなく、若菜はそこに留まっていた。

もう、諦めなよ…そう促そうと警備員が若菜に近づいてきたときであった。交代の警備員がやってきて、若菜のことを尋ねてきた。

「おい、誰じゃ、あの娘っこは?」

「いえ、その、社長に用があるということで…」

若い警備員がそう答えると、定年近くだと思われるもう一人の警備員が続けて尋ねた。

「んで、そこで待たせておったのか?いつから待たせておった?」

「昼からです…。移動される際でしたら構わないと思いまして。ただ、私といたしましても、『会議室には何人たりとも入れるな』という命を副社長のほうから承っておりますので。」

そう答え、若い警備員はこれまでの経過を交替の警備員に説明した。しばらく沈黙が続いた後、目をつぶりながら考え込んでいたおじいさんが、若菜に告げた。

「お嬢ちゃん、お待たせして申し訳なかったなあ。まあ、わしの方から社長に頼んでみよう。社長がアメリカで会社を興してからのつきあいですので、部下が報告に行くよりは話が通じやすかろう。ただ、社長はお忙しい身ですので、お会いできず、お話をお伝えもできないという可能性だけはお覚悟ください。」

そう伝えると、彼はエレベーターに乗って会議室へ向かった。

その頃、会議室では詰めの協議が行われていた。買収案は三浦コーポの有利な条件となり、買収時期や病院内の科の統廃合に話が変わろうとしている時であった。会議室にノックの音がした。

「何だ、入りなさい。」

龍一がそういうと、警備員が会議室の前で敬礼し、事情を説明した。

「社長にお会いしたいと言う方がお見えになっておりますが、いかがいたしましょうか?お帰り願った方がよろしいでしょうか?それとも別室でお待ちしていただくよう案内すべきでしょうか?」

モニターに移された来客を見て、理事長が思わず口を開いた。

「若菜ちゃん…どうしてここに…」

その言葉を、龍一は聞き逃さなかった。

「双葉若菜、あなたが直々に採用された方、いうなれば秘蔵っ子ってところですね。」

理事長は驚いた様子で龍一に尋ねた。幹部・役職員の略歴と職員の名前以外は伝えていないはずであったからだ。

「なぜそんなことまで…。」

龍一は不敵な笑いを浮かべて理事長に答えた。

「どんな細かいことであっても、交渉相手の情報を可能な限り調べて頭に叩き込んでおくのが私の交渉術の1つですのでね。面白い、ここへ案内しなさい。」

龍一がそう告げると、警備員が若菜のところへ戻り、会議室まで案内した。会議室まで案内されると、若菜が名乗るより先に龍一が話し始めた。


週末、若菜は高校の同級生の智美と原宿に出かけていた。

二人して相変わらず洋服を見て小物を見てといった感じで街を散策した後、近くの喫茶店に入った。

ドリンクを注文した後、「最近、スポーツジムに通い始めた」「地元のバレーボールサークルに入った」など、お互いに近況報告をしていた。智美はまだバレーを続けているんだ、すごいなぁ…。そんなことを考えていた時、智美が思い出したように若菜に伝えた。

「そういえば、バスケ部の藤原先輩、今月末に日本に帰ってくるらしいよ!」

思いがけない情報に若菜は驚いた。藤原先輩は若菜がマネージャーとして入部していたバスケットボール部の先輩である。

「ホントに!?先輩ってアメリカで就職してボストンで働いているって聞いていたけど、日本に帰ってくるの?」

「ええ、私の彼が先輩と同じ会社で働いているんだけど、六本木ヒルズの日本本社の配属になったらしいよ!」

期待を膨らませ、確かめてきた若菜に智美はそう教えた。

帰宅すると、若菜は部屋でにやけっぱなしであった。今月末は仕事が休みだ。今までにも時々、先輩は帰国していたけど、家族旅行やゼミ合宿で会えてなかった。今度こそ、先輩と再会できるんだ!前日の夜は、これから遠足に出かける子どものような気持ちであった。

当日、数名のバスケ部の先輩たちと一緒にその帰りを待った。しばらくすると、キャリーバックを運んでいる青年がゲートから出てきた。

「直樹先輩、久しぶりですー!」

そう言って、まるで出張帰りの父親に向かう少女のように彼に飛びついた。

「はは、久しぶりだな、若菜!相変わらずテンション高いなぁ!!」


直樹はそう答え、他の部活仲間とも話し始めた。みんな直樹の帰国を心待ちにしていたのだ。その夜、直樹の帰国祝いが仲間内で行われた。
直樹の帰国してからの2ヶ月半、若菜は直樹と頻繁に会った。今までの空白を埋めるかのように、遊びに出かけたり、部活仲間で夕食を一緒にしたりして過ごした。

ある日、仕事から帰宅中の若菜に直樹からメールがきた。いつものように週末に遊びに出かける誘いかなと思ってメールを開いた。すると、珍しいが若菜にとっては予想以上に嬉しい展開が待っていた。

『土曜日の夜、時間あるかな?うちの会社の提携店でリニューアルオープンがあるんだけど、よかったらどうかな?』

そのお店というのは六本木ヒルズ最上階にある有名なイタリアンのお店であった。直樹がセカンドリーダーとしてリニューアル計画に携わっていたので、招待券があったのである。いつもより少しドレスアップして、待ち合わせの駅に向かった。

当日、一緒に集まるはずであった真美と巧は仕事とインフルエンザで急遽キャンセルになってしまったため、その夜は久々に二人きりでの食事となった。

この上なく綺麗な東京の夜景をバックに、一流シェフがふるまう美味しい料理が色々と出された。自然と会話も弾み、楽しい時間があっという間に過ぎていった。

やがて、最後のデザートも食べ終わると、大分夜も更けてきた。

「先輩、今日はありがとうございます。とっても美味しかったです!」

若菜は直樹にそうお礼をすると、直樹もいつもの笑顔で返した。

「ははは、口に合ってくれたなら嬉しいよ!」。

素敵な時間を共有できた二人は微笑みあっていた。またこんな時間を過ごしたいなぁ…。若菜がそんなことを考えていた時であった。直樹から違う話を切り出された。

「若菜、大事な話があるんだ。」

いつものような親しさの中に、真剣な雰囲気を若菜は感じた。先輩は私が恋愛相談医であることを知っている。何かそういったことの悩みなら、大好きな先輩の力になろう。

「何ですか、先輩?」

そう答えた若菜に、予想をはるかに超える衝撃が待っていた。

「俺たち、ヨリを戻さないか?」

直樹がそう告げた瞬間、若菜の思考は停止した。いや、言葉は決まっていたはずなのに出てこなかった。微かに期待していたことが、現実になったにもかかわらずである。戸惑う若菜に対して直樹が続けた。

「返事はすぐじゃなくていい。答えが出たらまた話してくれ。」

その後、若菜は直樹に駅まで送ってもらい、そこで解散となった。自宅までの地下鉄の中で、ずっと外を見ていた。そして、自分と車両の内側しか映さないはずの窓越しに、直樹との出会いから告白、楽しかった思い出を心で映してみた。元々、好きだから一度は終わりにしたはずなのに…。直樹の海外留学で止まっていたはずの振り子が、再び揺れ動き始めた。

翌日、直樹は社長の龍一に呼び出された。直樹の昨日のプロジェクト成功を労うためと、次のプロジェクトの打ち合わせのためだ。

「あの短期間のうちによくやった。期待以上の結果だ。」

「ありがとうございます。いつも大事なプロジェクトに携わらせてくれます社長には感謝しています。」

アメリカ留学の当初、直樹は研究職に進むつもりでいた。しかし、博士課程2年に在籍していた時、龍一が直々に研究室を訪ねて引き抜かれた。直樹が修士課程にいた頃から、龍一は彼の研究と理論を高く評価し、幹部候補として期待を寄せていた。龍一もまた、若くしてアメリカで成功した龍一に新しい風を生み出す力と誠意を感じ、その右腕となるべく職務にあたっていた。

「さて、早速だが、君には次のプロジェクトを任せたい。アメリカでも去年取り組んでもらったものだ。今回は、君がプロジェクトリーダーとしてな。」

プロジェクトリーダー、それは幹部を目指す者にとって1つの登竜門だ。身の引き締まる思いでプロジェクトの詳細を知らされた。

話を切り出されてからの数日間、若菜の日常は基本的には普段通りであった。しかし、相談者を待つ間や昼休みといった、ちょっとした空白が訪れると、直樹のことばかり頭をよぎった。

ある朝、いつものように出勤すると、ロビーの前で人だかりができていた。何が起きたのか知ろうと前に向かうが、上手く進めない。ようやく最前列に着くと、近くにいた同期が話しかけてきた。

「大変だよ、双葉ちゃん!うちの病院が吸収合併されるらしいよ…!!」

同期からのその言葉を聞き、戦慄が走った。若菜は信じられないような気持ちで、掲示を見た。

『三鷹病院は三浦グループの傘下に移管されることを前提に話し合いが進められている旨を告知いたします』

寝耳に水とはまさにこのことだ…そんな若菜に、更なる衝撃の事実が目に入ってきた。

『本件担当者:三鷹病院副院長・米田勝、三浦コーポレーション・藤原直樹』

言葉を失った…。前の夜、確かに、直樹から、次は国内でのプロジェクトを任されるかもしれないということは聞かされていた。それが、よりによってうちの病院の買収だなんて…。

昼休みになり、今回の経緯が全職員にメールで通知された。

元々、三浦コーポレーションは法人内の学校や福祉施設で主要システムを格安で提供し、教育体制や事務体制の大幅な向上をもたらした。しかし、代表取締役の三浦龍一の意図は別にあった。国内初の本格的なIT病院の開院、すなわち三鷹病院の吸収合併である。既存の病院を利用したほうがコストも時間も少なくて済む。また、法人の他の施設は都心から離れた場所にあるのに対して、三鷹病院は比較的都心にある。アクセスも悪くない。そこで、他の施設の運営関係に深く関与することで、病院の吸収合併を有利に進めようとしたのだ。その企みに、各契約担当者はもちろん、理事長も含めた経営陣が気づかす、嵌まったのである。

昼休みの食堂はもっぱらその話でもちきりであった。そして、どこか諦めの空気が漂っていた。かつて大手外食チェーン店で働いていた事務員は若菜たちに過去の出来事を話した。

「うちが前に務めていた会社も、三浦コーポにM&Aで買収を仕掛けられたの。それでも、株式の追加発行で一度は敵対的買収を阻止した。でも、次は同業の新興会社と提携してきた。そして、大々的な公告キャンペーンや珍しさ、ITを駆使した圧倒的な回転の速さで、うちの顧客をあっという間に奪われて、会社そのものが潰されたのよ…。その新興会社も、半年後には三浦コーポの傘下に吸収合併された。そういった会社が国内外問わずたくさんあって、三浦社長は『悪魔の化身』とも呼ばれているらしいわ。だから、下手に反発しないほうが…。」

若菜が大学2年の時の出来事である。当時、全くといってニュースを見ていなかった若菜でさえ、記憶の断片に残っていた。そんな会社に目をつけられたら、うちみたいな地域の一病院が対抗出来るはずがない…。他の人たちと同じように思いつつも、どこか割り切れない感情も奥底にあった。


 数日後、由佳と隼人は立川のグランデュオ前で会うことになった。少し離れた、2人から死角になるところから若菜と和輝が見守った。

「この前はゴメンね、取り乱しちゃって…」

 由佳は先日のことを隼人に謝ると、隼人はいつものように答えた。

「ああ、別に気にすんなよ。」

 そして、自分自身の意志を由佳に伝えた。

「前から話しているけど、プロとして一流のミュージシャンになるのが俺の夢なんだ。いつまでも待たせてしまってすまないと思うけど解ってほしい」

 隼人の意志は変わらないし、変わっちゃいけない。でも、変わってほしい…。感情を整理しきれないまま、由佳は話し出した。

「うん…そうだよね…そのために今まで頑張って来たんだもんね…。ゴメンね…解っているはずなのにね…。」

 由佳は複雑な心境であった。そんな今にも泣き出しそうな由佳を前に、隼人が意を決して告げた。

「3年、待ってほしい。」

 そう切り出すと、隼人は続けて言った。

「必ず迎えに行く。3年後にミュージシャン・藤原隼人が君を迎えに行くことを信じてくれ!」

 由佳は泣いていた。しかし、先ほどまで見せていたものとは違う涙であった。由佳もまた、自らの決意を隼人に伝えた。

「私、待ってるよ…。3年後に隼人がきっと迎えに来てくれるって。信じているよ。」

 新たな決意のもと、2人は未来に向かっての約束を交わした。

「久々に聴いてもらいたい曲がある。いいかな?

 そう言うと、隼人は持っていたエレキギターを取り出し、由佳は手すりに寄りかった。

 準備ができると、真冬の夜空のもと、隼人が曲を弾き始めた。それは、隼人が初めて作ったオリジナル曲であり、2人の出会いの曲であった。夜も更け、人通りは閑散としており、由佳だけが隼人の奏でる音に耳を傾けていた。それでも、その時の2人にはそれで十分な幸せが訪れていた。

 2週間後、由佳から若菜のもとに手紙が送られてきた。大学時代の恩師を訪ね、前々から話をもらっていた本場アメリカでの留学を隼人は決断し、3ヵ月後にはニューヨークへ旅立つと言うことが書かれていた。懸案だった資金繰りは日本での活動休止と海外勤務で捻出するということであった。

 ある程度軌道に乗り始めた活動を中断することは、非常に勇気がいる決断であっただろう。しかし、隼人は未来のために決断した。こうして、2人はまた今まで以上の遠距離恋愛に立ち向かうこととなった。若菜もまた、その困難を乗り越えた先に、由佳と隼人にとって最高の未来が待っていると信じた。

 

 そして3ヵ月後、若菜と和輝、そして由佳に見送られて、隼人は海外での武者修行へと旅立って行った。

 その頃、隼人は高田馬場で行きつけのラーメンを食べていた。


『今日はついていなかった…たまにはあるとはいえ、由佳とも気持ちがすれ違ってしまったようだ…。でも、よりによって今日じゃなくていいだろう…。』


 そんなことを考えては、気持ちを切り替えようと思い、目の前のラーメンをすすった。ラーメンを食べ終え、勘定を済ませると隼人は部屋に戻ることにした。そして帰り際、自販機でコーヒーを買おうとした時、あることに気づいた。

「オヤジ…釣り間違えてるよ…。」
 

 ラーメン代を精算した際、釣りが100円足りなかったのだ。給料日前だったため、そのまま戻ることにした。その時、隼人を呼び止める声がした。

「あれ、隼人君じゃないか?」

 声のするほうに顔を向けると、コート姿の和輝がいた。会議が無事に終わり、同僚たちと一杯やった帰りだったのである。二人は歩いて新宿駅に向かった。歩きながら、和輝は隼人から事の顛末を聞いた。新宿駅に着くと、和輝がダイドーの缶コーヒーを隼人に差し入れ、2人はサテライト口のベンチに腰をおろした。

「なるほどねぇ、オーディションが上手くいかなかった上に彼女とケンカしてしまった。おまけにラーメンで釣りまで間違えられたとは、ツイてない1日だなぁそりゃ。」

「ホント、和輝さんに声かけてもらわなかったらむっちゃ凹んで部屋に戻るところでしたよ。」

 和輝に気持ちを察してもらい、隼人の口からは思わず本音が漏れた。落ち込む隼人を励ますかのように和輝は声をかけた。

「しかし、一度しかない人生、男なら夢に懸けてみたいよな!」

 その一言に、隼人は少し元気を取り戻した。

「ありがとうございます。やっぱ男同士、話が合いますね!」

 隼人は、この重い話題を変えようと思い、違う話を切り出した。

「そういえば、若菜ちゃんから聞いたんですが、和輝さんも高校から奥様と付き合っていて、学生結婚されたらしいですね。やっぱ大恋愛だったんですか?」

「まあな。でも…結婚の時には色々あったよ。」

 そう言うと、和輝は妻とのエピソードを語り始めた。その内容は、隼人の想像をはるかに超えるドラマであった。
 
 
 一方、若菜たちはしばらく街を歩いた後、近くのファミレスに入った。その時には、由佳の状態も大分落ち着きを取り戻していた。

 いきさつを話した後、由佳は隼人との出会いから若菜に話し始めた。

「私が高校の陸上部のレベルについていけなくなってきて、初めて部活をサボった日に隼人と出会ったんだ。音楽室でギターを弾いていた隼人はすごくかっこ良かった。その時、2人っきりの音楽室でいくつかオリジナル曲も弾いてくれたんだ。当時、隼人の両親は音楽の道に進むのに猛反対していて、九段坂大だけ教職免状の取得を条件に、一度だけ受験を認めてもらった。いつだって隼人は、前だけを見ていた。そのための努力を惜しまなかった。そんな隼人が好きだから、私も挫折しかけた陸上や、辛かった浪人生活も頑張れた。」

 少しだけ元気が出てきたように見えた由佳だったが、再びその表情が曇った。

「でも…周りがみんな幸せになっているのに、私はいつまで待てばいいのか、いつまで待てるのか…。隼人が好きなのに…。ゴールの見えないマラソンを走っているみたいで、自信が持てないんだ…。」

 新宿駅では、和輝が隼人に自身の過去を話していた。

「俺とかみさんが大学1年の冬、あいつの妊娠が分かった。当時、景気は今世紀最大の大恐慌と言われる悲惨な状況だった。それに、今と違って授かり婚や学生結婚への理解はほとんどなかったし、田舎の地元はなおさらだった。義両親にあいさつに行ったら、待っていたのは当然のごとく義父(おやじ)さんの右の鉄拳だったよ。義父さんの怒号とうろたえる義母(おかっ)さん、泣き叫ぶかみさんの姿だけがそこにあった。そんでもって『産む』『産ませない』『別れろ』『別れない』、最後は『生きる』『死ぬ』の大騒ぎだった。うちの実家でも同じような展開だったよ。肉体的にも精神的にもみんなボロボロになりながら、最後は親を説得しきって、何とか俺たちは長男を授かって一緒になれた。」

 隼人は和輝の意外な過去に驚いた。和輝は、普段、そんな素振りを見せたことなどなかったのである。和輝は続けて話した。

「それでも、その代償は小さくはなかった。特に、かみさんには肩身の狭い思いをさせた上に、大学生ならできたはずの楽しみも、ほとんどさせてやれなかった。だからこそ強く思ったよ、卒業後は、俺が2人をちゃんと養って、幸せな家庭を守っていくってな。当時はえり好みしている余裕など無かったが、景気が回復してきて、出来るだけ家族と一緒に過ごせる時間が持てるようにと、今の仕事を選んだ。」

 和輝の壮絶な過去に、続ける言葉を隼人は見つけられなかった。そんな隼人の背中を押すように、和輝は人生の先輩としてアドバイスを送った。

「夢を追いたいという君の気持ちは解っているつもりだ。ただ、ずっと不安に待ってくれているお姫様を安心させるのもナイトの務めってもんだぜ。」

「そう…です…ね」

 和輝の言葉に、遠くのどこか一点を見つめているようにして、隼人はそう答えた。

 近くの喫茶店に入り、オープンテラスで隼人は由佳から先輩の話を聞いた。先輩が育児休暇に入る前、隼人は彼女を通じて、インストアライブをよくやらせてもらった。先輩が頑張っている姿に、自分も励まされるような気持ちになった。先輩の話が一区切りすると、由佳が一番聞きたかったことを尋ねた。


「そういえば隼人、オーディションのほうはどうだったの?」

隼人は期待している由佳にどう答えるか、一瞬詰まった。だが、すぐに気持ちを切り替え、ありのままの結果を伝えた。

「ああ…結果は厳しそうだよ…。それでも、ギターそのものは高く評価してもらったよ!まずは来月の対バンライブに向けて頑張らないとな!」

 隼人は今回の結果をバネに、次に目を向けていた。しかし、その時の隼人の気持ちは、由佳には届いていなかった。由佳の頭の中では、ネガティブな感情が次々と沸き起こった。

『またダメだったんだ…。いくら隼人でも、ジャズじゃ…音楽の世界では…勝負出来ないんじゃないの…。』

『周りの先輩や友人たちは幸せになっていっているのに、私は一体いつまで待てばいいの?』

 いつもなら、隼人のためにそういった感情も抑えられた。しかし、先輩の幸せそうな様子を見たばかりの由佳にはあまりにも辛い現実であった。

「もう…いいよ…」

 ずっと隠してきた本心が、とうとう口から漏れてしまった。

『言ってしまった…』
 

 そう思いつつ、由佳は自分の気持ちを話した。大好きな隼人とずっと一緒にいたいから…。

「もういいよ、隼人は十分頑張ったよ。大学時代から学費・生活費を自分のアルバイト代で捻出して、その合間にストリートに立って演奏技術を磨いて、昔はどこも全く通らなかったオーディションも、今は大手レーベルでも残るようになって…。今、別の道に進んでも、隼人が頑張ってきたのを、私がずっと覚えているから…。」

 いつもと様子が違う由佳を前に、隼人は戸惑った。だが、応援してくれている由佳にそれを悟られまいとして、意識的に明るめな口調で話しかけた。

「どうしたんだよ、由佳。何があったんだよ?」

 しかし、隼人の想いは、その時の由佳には届かなかった。それだけの気持ちの余裕が、由佳にはなかったのだ。次の瞬間、由佳は自らの悲しみを、そのまま隼人にぶつけることしかできなかった。

「どうして…どうして私の気持ちを分かってくれないの…。隼人のバカ…私…知らない…!」

 涙をたたえた瞳を向け、それだけ隼人に言うと、由佳はそこから逃げ出すように店を飛び出した。行き先もなく、衝動が突き動かすままに由佳は街を駆けた。やがて、衝動が収まってくると、雑踏の中で立ち止まった。そして、助けを求めて携帯を握りしめた。


 その頃、若菜はパソコンと格闘していた。和輝からこんなメールが届いたからである。


『ワリイ、会議資料をデスクトップに保存したまま忘れていた(゜∀゜;)。大至急、資料をPDF形式に変換してメール添付で送ってくれぃ( ̄○ ̄;)。』

 普段、若菜はWindowsを使っていたのに対して、和輝はMac派であった。パソコンが苦手な若菜にとって、いつもと違うパソコンでの操作はかなりしんどいものであった。文句を言いつつ、どうにかこうにかメールを送ると、売店にお菓子を買いに席を立とうとした、その時であった。

『今日の夕方、時間ある?』
 

 由佳からメールが来た。いつもなら何か用がある時は前日までには連絡をくれる由佳にしては急だなと思いながら、過去にもないわけではなかったので、そこは特に気にしないことにした。その日は急ぎの用件もないので、7時に吉祥寺のサーティワンで待ち合わせることにした。


 7時、仕事を切り上げた若菜は待ち合わせの場所に向かった。まぁ、いつものようにどこかで夕食でもといったところだろう。そう考えながら駅を出ると、由佳の後ろ姿を見つけた。近づいて声を掛けると、若菜は驚きを隠せなかった。振り返った由佳の顔は、今にも泣き出しそうな様子であったのだ。

「どうしよう…私…隼人を困らせちゃったよ…。」

 それだけ言うと、由佳は若菜に抱きつき、その瞳からは大粒の涙がこぼれだした。

「ちょっと…どうしたの、由佳!何があったのよ!?」