夜、直樹から電話があった。

「悪いな、若菜…。お前の病院が買収先になっちまって。」

若菜は直樹を責めなかった。トップ同士のやりとりの中で生じた結果であり、どうしようもなかったからだ。

「社長には俺の事情を説明してある。知り合いの勤務先だから俺は適任ではないんじゃないかって尋ねたら、これから先にも、こうした事態は見込まれるから上手くやれって言われてさ。急な買収や他機関からの撤収は絶対にない方向に調整するよ。うちの社長、いい人なんだけど、買収関係は特に手段を選ばないからさ…。仕事だから、買収そのものはそれなりの時期には成立させないといけないけどね…。」

それからの数週間、表向きは建設的な話し合いとしつつも、裏では熾烈な延命策と買収時期の調整が続いていた。そして、基本的には、打ち合わせでは三浦社長が直々に関与したため、主導権は三浦コーポレーションにあったのは、誰の目から見ても明白であった。

そんな毎日の中で、和輝は、経営はどうこうできないから、理事長に任せるしかないよと言い、飄々といつものように仕事をしていた。だが、若菜はもつれた糸のような気持ちを引きずったままであった。

買収騒動から1ヶ月が経とうとしていたある日、若菜は外回りに行っていた。

「もう、いいじゃん…。この買収は、私には、私と直樹には関係ないことじゃない…。」

そんなことを考えていると、交差点で後ろから呼び止められた。

「あれ、若菜さんじゃない。」

声のするほうに目を向けると、見覚えのある一人の女性が、若菜に手を降っていた。

「やっぱりそうだったわ!お久しぶりね、若菜さん。」

その女性の美しさに、若菜は思い出した。そう、恋愛相談医として最初に集中対応を担当した綾である。あれから牧人ともずっと続いているらしい。これから一緒に夕食を食べに行くとのことだ。病院まで行く方向が同じなので、一緒に向かいがてら、今の病院の状況を話した。

「そう…そんなことがあったのね。お互いにまだ気持ちがあるのに、まるでロミオとジュリエット、苦しいわね。」

綾さんらしい表現だ。気持ちを察してもらい、どこか嬉しいような、しかし、虚しいような、そんな感情を若菜は抱いた。気を紛らせようと、牧人との最近の状況をもう少し詳しく聞いてみた。

「そうね…最近、彼、仕事が忙しくなってきたけど、いつも電話で声は聞けるし、毎月必ずどこかの休みで会っているわね。この前は、御殿場のアウトレットに出かけて、彼お薦めのレストランにも行ったわね。前と同じように付き合っているわ」

大人の雰囲気をまといながら、綾は嬉しそうに話していた。そして、若菜も嬉しかった。初めての大仕事で、かなりもがいたけど、その甲斐があったな、と。

そして、綾が続けて話した。

「それでも、少しだけ変わったことがあるかな。」

それは何か、気になった若菜に綾が答えた。

「感情だけで判断することは少なくなってきたわね。前に付き合っていた時は、喧嘩すると、わーって言い合って、ふてくされて、寂しくなった頃に仲直り。今は、言い合いになりそうなときは、お互いにどうしたいのかきちんと話し合えるようになったわね。もちろん、たまには言い合っちゃうけど。あと、彼、時々、口癖のように言うわね。私と付き合って、あの時、感情に任せてしまったことは凄く後悔したし、今もこれからも、その時のことは絶対に忘れちゃいけないなって。」

胸に刺さるような言葉であった。迷子のような若菜に綾が続けて言った。

「あなたなら、きっと、どんな未来になっても受け入れられると思う。でも、中途半端なものじゃなくて、考え抜いた結果としての決断であってほしいわ。ふふ、ちょっとお説教ぽくなっちゃたわね。」

そうこう話し込んでいるうちに、三鷹病院の近くに着いた。

「ありがとうございます、綾さん。話を聞いてもらえて、少し気が楽になりました。」

そうお礼を言う若菜に対して、綾が応えた。

「こちらこそ、お仕事中にごめんなさいね。それじゃあ、大変だけど頑張ってね。」

そう言って、綾は駅のほうに向かっていった。

その日の夜、一人だけの診察室で、若菜は今までの自分の診察記録や日誌に目を通していた。嬉しかったことや辛かったこと、楽しかったことや辛かったこと…。様々な出来事を思い返して、恋愛相談医としての軌跡を新ためて振り返った。そして、自分自身と静かに向き合った。やがて、若菜が自分自身の中で1つの結論を出した。

私は…この仕事に、仲間たちに誇りを持っている。

翌日、新橋にある三浦グループのビルで最終調整が行われていた。交渉の長期化がブランドイメージの低下に繋がりかねないと龍一が考え、理事長に決断を迫ったからだ。こういった修羅場をくぐり抜け、百戦錬磨と謳われた理事長も、流石に万策尽きたかと考えつつ、必死で打開策を探っていた。

その日、病院は臨時休業となっていた。若菜は電車に乗り、協議が行われている三浦グループのビルに向かっていった。どうしても相手方のトップに話したい、話さなければいけないことがある。その想いが、迷いなく若菜を突き動かしていた。

新橋のビルに着き、受付で単刀直入に切り出した。アポイントは取っていない。

「あの、私、三鷹病院の双葉若菜というものです。突然で申し訳ありません。御社の三浦社長のお会いできないでしょうか?どうしても話したいことがあるのです。」

若い受付嬢と警備員は事務的に回答をした。

「申し訳ございません、社長は大変お急がし身なので、アポイントをとった上で、またお越しくださいますよう願います。」

若菜は食い下がった、ここで引くわけにはいかなかったからだ。時間が残されていない…。

「10分…いえ、5分でいいんです。せめて、ビルから出てくる間だけでも話しかけて構わないでしょうか?」

入り口の検査ゲートをくぐれているので、怪しいものではないと思いつつも、どう対応すればよいか2人は困惑した。そこで、受付嬢がスケジュール確認を行ったところ、21時にこの会議が終わった後、社長は特に予定が入っていないこととなっていた。それを確認した警備員が若菜に話した。

「分かりました、今回だけ特別によろしいでしょう。ロビーの前で待っていてください。自販機やお手洗いなどは、私や受付嬢がご案内します。ただ、先ほどもお伝えしたように、社長はお忙しい身ですし、ビルが連なっていますので、出入り口もこのビルはいくつかあります。ここから出てくるとは限らないので、そういった点だけはご了承願いますよ。」

警備員の指示通り、若菜はロビーで待った。警備員も受付嬢も、2~3時間もすれば、諦めて帰るだろうと考えていた。

12時、若菜は待っていた。昼食はロビーのコンビニで購入した。
15時、もう諦めるだろうと警備員も受付嬢も思っていたが、若菜はまだ残っていた。
19時、ビル内で勤務する従業員もちらほら帰り始めたが、若菜はまだそこにいた。
20時半、決意は少しも揺らぐことなく、若菜はそこに留まっていた。

もう、諦めなよ…そう促そうと警備員が若菜に近づいてきたときであった。交代の警備員がやってきて、若菜のことを尋ねてきた。

「おい、誰じゃ、あの娘っこは?」

「いえ、その、社長に用があるということで…」

若い警備員がそう答えると、定年近くだと思われるもう一人の警備員が続けて尋ねた。

「んで、そこで待たせておったのか?いつから待たせておった?」

「昼からです…。移動される際でしたら構わないと思いまして。ただ、私といたしましても、『会議室には何人たりとも入れるな』という命を副社長のほうから承っておりますので。」

そう答え、若い警備員はこれまでの経過を交替の警備員に説明した。しばらく沈黙が続いた後、目をつぶりながら考え込んでいたおじいさんが、若菜に告げた。

「お嬢ちゃん、お待たせして申し訳なかったなあ。まあ、わしの方から社長に頼んでみよう。社長がアメリカで会社を興してからのつきあいですので、部下が報告に行くよりは話が通じやすかろう。ただ、社長はお忙しい身ですので、お会いできず、お話をお伝えもできないという可能性だけはお覚悟ください。」

そう伝えると、彼はエレベーターに乗って会議室へ向かった。

その頃、会議室では詰めの協議が行われていた。買収案は三浦コーポの有利な条件となり、買収時期や病院内の科の統廃合に話が変わろうとしている時であった。会議室にノックの音がした。

「何だ、入りなさい。」

龍一がそういうと、警備員が会議室の前で敬礼し、事情を説明した。

「社長にお会いしたいと言う方がお見えになっておりますが、いかがいたしましょうか?お帰り願った方がよろしいでしょうか?それとも別室でお待ちしていただくよう案内すべきでしょうか?」

モニターに移された来客を見て、理事長が思わず口を開いた。

「若菜ちゃん…どうしてここに…」

その言葉を、龍一は聞き逃さなかった。

「双葉若菜、あなたが直々に採用された方、いうなれば秘蔵っ子ってところですね。」

理事長は驚いた様子で龍一に尋ねた。幹部・役職員の略歴と職員の名前以外は伝えていないはずであったからだ。

「なぜそんなことまで…。」

龍一は不敵な笑いを浮かべて理事長に答えた。

「どんな細かいことであっても、交渉相手の情報を可能な限り調べて頭に叩き込んでおくのが私の交渉術の1つですのでね。面白い、ここへ案内しなさい。」

龍一がそう告げると、警備員が若菜のところへ戻り、会議室まで案内した。会議室まで案内されると、若菜が名乗るより先に龍一が話し始めた。