週末、若菜は高校の同級生の智美と原宿に出かけていた。

二人して相変わらず洋服を見て小物を見てといった感じで街を散策した後、近くの喫茶店に入った。

ドリンクを注文した後、「最近、スポーツジムに通い始めた」「地元のバレーボールサークルに入った」など、お互いに近況報告をしていた。智美はまだバレーを続けているんだ、すごいなぁ…。そんなことを考えていた時、智美が思い出したように若菜に伝えた。

「そういえば、バスケ部の藤原先輩、今月末に日本に帰ってくるらしいよ!」

思いがけない情報に若菜は驚いた。藤原先輩は若菜がマネージャーとして入部していたバスケットボール部の先輩である。

「ホントに!?先輩ってアメリカで就職してボストンで働いているって聞いていたけど、日本に帰ってくるの?」

「ええ、私の彼が先輩と同じ会社で働いているんだけど、六本木ヒルズの日本本社の配属になったらしいよ!」

期待を膨らませ、確かめてきた若菜に智美はそう教えた。

帰宅すると、若菜は部屋でにやけっぱなしであった。今月末は仕事が休みだ。今までにも時々、先輩は帰国していたけど、家族旅行やゼミ合宿で会えてなかった。今度こそ、先輩と再会できるんだ!前日の夜は、これから遠足に出かける子どものような気持ちであった。

当日、数名のバスケ部の先輩たちと一緒にその帰りを待った。しばらくすると、キャリーバックを運んでいる青年がゲートから出てきた。

「直樹先輩、久しぶりですー!」

そう言って、まるで出張帰りの父親に向かう少女のように彼に飛びついた。

「はは、久しぶりだな、若菜!相変わらずテンション高いなぁ!!」


直樹はそう答え、他の部活仲間とも話し始めた。みんな直樹の帰国を心待ちにしていたのだ。その夜、直樹の帰国祝いが仲間内で行われた。
直樹の帰国してからの2ヶ月半、若菜は直樹と頻繁に会った。今までの空白を埋めるかのように、遊びに出かけたり、部活仲間で夕食を一緒にしたりして過ごした。

ある日、仕事から帰宅中の若菜に直樹からメールがきた。いつものように週末に遊びに出かける誘いかなと思ってメールを開いた。すると、珍しいが若菜にとっては予想以上に嬉しい展開が待っていた。

『土曜日の夜、時間あるかな?うちの会社の提携店でリニューアルオープンがあるんだけど、よかったらどうかな?』

そのお店というのは六本木ヒルズ最上階にある有名なイタリアンのお店であった。直樹がセカンドリーダーとしてリニューアル計画に携わっていたので、招待券があったのである。いつもより少しドレスアップして、待ち合わせの駅に向かった。

当日、一緒に集まるはずであった真美と巧は仕事とインフルエンザで急遽キャンセルになってしまったため、その夜は久々に二人きりでの食事となった。

この上なく綺麗な東京の夜景をバックに、一流シェフがふるまう美味しい料理が色々と出された。自然と会話も弾み、楽しい時間があっという間に過ぎていった。

やがて、最後のデザートも食べ終わると、大分夜も更けてきた。

「先輩、今日はありがとうございます。とっても美味しかったです!」

若菜は直樹にそうお礼をすると、直樹もいつもの笑顔で返した。

「ははは、口に合ってくれたなら嬉しいよ!」。

素敵な時間を共有できた二人は微笑みあっていた。またこんな時間を過ごしたいなぁ…。若菜がそんなことを考えていた時であった。直樹から違う話を切り出された。

「若菜、大事な話があるんだ。」

いつものような親しさの中に、真剣な雰囲気を若菜は感じた。先輩は私が恋愛相談医であることを知っている。何かそういったことの悩みなら、大好きな先輩の力になろう。

「何ですか、先輩?」

そう答えた若菜に、予想をはるかに超える衝撃が待っていた。

「俺たち、ヨリを戻さないか?」

直樹がそう告げた瞬間、若菜の思考は停止した。いや、言葉は決まっていたはずなのに出てこなかった。微かに期待していたことが、現実になったにもかかわらずである。戸惑う若菜に対して直樹が続けた。

「返事はすぐじゃなくていい。答えが出たらまた話してくれ。」

その後、若菜は直樹に駅まで送ってもらい、そこで解散となった。自宅までの地下鉄の中で、ずっと外を見ていた。そして、自分と車両の内側しか映さないはずの窓越しに、直樹との出会いから告白、楽しかった思い出を心で映してみた。元々、好きだから一度は終わりにしたはずなのに…。直樹の海外留学で止まっていたはずの振り子が、再び揺れ動き始めた。

翌日、直樹は社長の龍一に呼び出された。直樹の昨日のプロジェクト成功を労うためと、次のプロジェクトの打ち合わせのためだ。

「あの短期間のうちによくやった。期待以上の結果だ。」

「ありがとうございます。いつも大事なプロジェクトに携わらせてくれます社長には感謝しています。」

アメリカ留学の当初、直樹は研究職に進むつもりでいた。しかし、博士課程2年に在籍していた時、龍一が直々に研究室を訪ねて引き抜かれた。直樹が修士課程にいた頃から、龍一は彼の研究と理論を高く評価し、幹部候補として期待を寄せていた。龍一もまた、若くしてアメリカで成功した龍一に新しい風を生み出す力と誠意を感じ、その右腕となるべく職務にあたっていた。

「さて、早速だが、君には次のプロジェクトを任せたい。アメリカでも去年取り組んでもらったものだ。今回は、君がプロジェクトリーダーとしてな。」

プロジェクトリーダー、それは幹部を目指す者にとって1つの登竜門だ。身の引き締まる思いでプロジェクトの詳細を知らされた。

話を切り出されてからの数日間、若菜の日常は基本的には普段通りであった。しかし、相談者を待つ間や昼休みといった、ちょっとした空白が訪れると、直樹のことばかり頭をよぎった。

ある朝、いつものように出勤すると、ロビーの前で人だかりができていた。何が起きたのか知ろうと前に向かうが、上手く進めない。ようやく最前列に着くと、近くにいた同期が話しかけてきた。

「大変だよ、双葉ちゃん!うちの病院が吸収合併されるらしいよ…!!」

同期からのその言葉を聞き、戦慄が走った。若菜は信じられないような気持ちで、掲示を見た。

『三鷹病院は三浦グループの傘下に移管されることを前提に話し合いが進められている旨を告知いたします』

寝耳に水とはまさにこのことだ…そんな若菜に、更なる衝撃の事実が目に入ってきた。

『本件担当者:三鷹病院副院長・米田勝、三浦コーポレーション・藤原直樹』

言葉を失った…。前の夜、確かに、直樹から、次は国内でのプロジェクトを任されるかもしれないということは聞かされていた。それが、よりによってうちの病院の買収だなんて…。

昼休みになり、今回の経緯が全職員にメールで通知された。

元々、三浦コーポレーションは法人内の学校や福祉施設で主要システムを格安で提供し、教育体制や事務体制の大幅な向上をもたらした。しかし、代表取締役の三浦龍一の意図は別にあった。国内初の本格的なIT病院の開院、すなわち三鷹病院の吸収合併である。既存の病院を利用したほうがコストも時間も少なくて済む。また、法人の他の施設は都心から離れた場所にあるのに対して、三鷹病院は比較的都心にある。アクセスも悪くない。そこで、他の施設の運営関係に深く関与することで、病院の吸収合併を有利に進めようとしたのだ。その企みに、各契約担当者はもちろん、理事長も含めた経営陣が気づかす、嵌まったのである。

昼休みの食堂はもっぱらその話でもちきりであった。そして、どこか諦めの空気が漂っていた。かつて大手外食チェーン店で働いていた事務員は若菜たちに過去の出来事を話した。

「うちが前に務めていた会社も、三浦コーポにM&Aで買収を仕掛けられたの。それでも、株式の追加発行で一度は敵対的買収を阻止した。でも、次は同業の新興会社と提携してきた。そして、大々的な公告キャンペーンや珍しさ、ITを駆使した圧倒的な回転の速さで、うちの顧客をあっという間に奪われて、会社そのものが潰されたのよ…。その新興会社も、半年後には三浦コーポの傘下に吸収合併された。そういった会社が国内外問わずたくさんあって、三浦社長は『悪魔の化身』とも呼ばれているらしいわ。だから、下手に反発しないほうが…。」

若菜が大学2年の時の出来事である。当時、全くといってニュースを見ていなかった若菜でさえ、記憶の断片に残っていた。そんな会社に目をつけられたら、うちみたいな地域の一病院が対抗出来るはずがない…。他の人たちと同じように思いつつも、どこか割り切れない感情も奥底にあった。