「地元の中学を卒業したあと、俺たちは同じ高校に進学した。まぁ、俺は普通科で万年赤点の空手バカ、龍一は特進科で水泳部のエース、しかも3年間学年トップだったけどな。そんな中で、周囲の期待の応えて当然のように、龍一は現役で虎ノ門大学経済学部に進学した。開学始まって以来の天才と謳われ、虎ノ門の大学院生とかが参加する国際学会での発表も、龍一だけは特別に学部1年の秋から参加を許された。そして、大学1年次の冬に、世界的な有力経済誌に経営に関する理論と展望についての論文を投稿し、最優秀賞を受けた。そのことが高く評価され、2年に進級すると、それが国家戦略プロジェクトの1つに採択された。」
龍一はここで一度話を区切った。昔の自分を回顧して、自嘲気味にぽつりと言った。
「そんなこともあったな。まだ若く、やりたいことが限りなくあり、怖いもの知らずの青二才だった。」
そう話す龍一のほうを見て、少しだけ微笑むと、再び和輝が話し始めた。
「当時、その理論は非の打ち所が無く、誰もがその成果がどれだけのものに成るのかに期待を寄せていた。龍一自身の考えもそうであっただろう。だが、事はそうシナリオ通りには運ばなかった。国が公募で集めた協力者のもと、農業分野でその理論を実践しようとしたが、協力者側の古くからの慣例などが原因で、予定通りに理論を実践に組み込むことに移行できなかった。そういったことが重なっていくと、対立が増していき、次第に収拾がつかなくなってきた。何とか理論をもっと実践に組み込ませようと、反対派の中でも急先鋒の人物を、全員の目の前で解雇したこともあったな。だが、そういった強攻策は更なる反発を招くだけとなった。結局、事業は1年半でプロジェクトから外されて頓挫することとなり、人生で最初とでも言えるような大きな挫折を味わう結果となった。だが龍一、あんたはこの苦い経験をそこで終わらせはしなかった。ゴシップ誌で誹謗中傷が吹きすさぶ中、それでも自身の理論の有効性を信じて、単身アメリカの大学院へ留学し、そこで今度はITベンチャーに着手した。マーケティングから細かい分析を進め、大学院に籍を置いていた5年の間に全米のみならず、カナダやイギリスにも事業を展開した。そして今、海外での成功と巨大な力を背景に、かつての手法に戻ろうとしている。」
苦い挫折から這い上がり、立ち直った自信から、忘れかけていた過去を龍一は思い出した。和輝が言わんとしていることを、頭では理解しつつも、感情として受け入れ切れない龍一は、和輝に確かめるように口を開いた。
「何が言いたいんだ、和輝…。」
和輝は静かに、しかしどこか熱のこもった調子で、容赦なく龍一に問いかけた。
「『ヒト・モノ・カネ』この3つの要素が企業経営を成立させているということは、経営者なら百も承知のことだろう。ただ、その企業を将来にわたって成長させていくために最も重要な要素は『ヒト』だ。そして、どれだけ他の要素が満たされていようと、そこで働く人の心がバラバラであれば、企業はどこかでその代償を払わなくてはならなくなる。そのことは龍一、お前が一番身にしみて知っているはずだ。あの時と同じ過ちを、またここで繰り返す気か!?」
和輝がそこまで言い切った時、則政がまくし立てるように2人の間に割って入った。あと少しで買収成立と言うところで邪魔が入ったことで、憤りを抑えられないようであった。
「社長、今回の買収案はこの私が中心となり、幹部候補たちが最新の経営理論に則って提案いたしたものです。こんな経営のイロハも知らなそうな小娘共の戯言など、真に受けてはなりませぬぞ!」
その時、龍一の様子が一変した。先ほどまでの穏やかな表情や静かな雰囲気が消え、荒々しい雰囲気と険しい顔つきで則政近づくと、彼の襟元を掴んで椅子から立ち上がらせた。
「副社長…彼女たちは私的な感情ではなく、一介のプロとして私に意見を申し出てきた。どのような者であれ、プロに対してはプロとして敬意をもって応じるのが私の流儀だ。あなたも我が社のプロであるなら、そういう人間でありたまえ!」
そう則政を叱責した後、龍一は落ち着きを取り戻しながら和輝の問いかけに応えた。
「双葉さん、それに和輝…お前たちに言われたからというわけではないからな。あくまで俺は、経営者として最高の結果を出すことだけを考えるだけだ。」
龍一はそれだけ和輝に返した。そんな龍一に対して、和輝は少しだけ笑みを浮かべた。そして今度は、先ほどまでと同じように、紳士的な雰囲気と穏やかな口調で直樹に話し出した。
「直樹…大至急、経営理事会の役員を招集してもらいたい。打ち合わせは1時間後、形式はオンライン会議で構わない。他の会議を止めてでも全員集めるんだ。急いでくれ。」
そう言われた直樹は、勢いよく別の部屋へ向かった。途中、若菜の方を見ようとしたが、思いとどまり、真っ直ぐ部屋の出口を目指した。若菜はその場で立ちつくしていた。その様子は、戦場で民を導いた女神が、りりしく終戦を告げるかのようであった。
数日後、合併騒動の最終的な結論が病院内で告知された。
まずは技術提供という形で三浦コーポと事業提携を行うこと、三鷹病院が三浦コーポの医療分野における研究開発に全面的に協力すること、そして、買収ではなく、三浦コーポ側の新施設を井の頭に移設することなどが正式に決定したことが決められた。こうして、三鷹病院は独立性を守り通した。
その日の昼休み、若菜は和輝とミーティングルームで昼食を食べていた。今回の騒動が無事に解決して、2人ともホッとした様子であった。
「それにしても、先輩が三浦社長の友人だったなんて驚きましたよ。」
そう尋ねた若菜に対して、和輝が話し始めた。
「まあな。昨日、新橋で一緒に飲んだんだが、今回のことに関して色々話してくれたよ。若菜ちゃんには、信念を貫き通して、危うく暴走しそうになった自分を止めてくれたことを感謝しているってさ。あのままだったら、昔と同様の強攻策に戻りかねなかったってな。あと、『全くの頓挫じゃないからキャリアに傷はつかないが、直樹にとって初めての大きなプロジェクトだったから、成功はさせてやりたかった』って言ってたな。あいつは元々、巷で出回っている噂みたいな悪いやつじゃないんだ。ただ、実践的な理論に傾斜しやすい傾向があって、そうなると周りが見えなくなっちまうんだよな。昔からの悪いクセだよ。」
そう言った和輝の言葉に若菜は納得した。確かに、器の大きい人間でなければ、あの大事な会議の場で自分の話なんて聞いてくれないし、そもそも部屋にも通してくれないだろう。若菜は龍一の印象を考え直し、感謝の念を抱いた。そして、直樹に対して、申し訳ない気持ちが胸に突き刺さった。
昼休みが終わろうとしていた時、携帯に1通のメールが入った。送信元は直樹であった。
『急ですまないけど、今日の夜、青山の噴水広場で会えないかな?』
若菜の表情が曇った。青山の噴水広場…それは2人にとって「きっかけの場所」であったからだ。若菜が直樹に告白した場所、2人が初めてキスをした場所、そして、一度ピリオドを打った場所…。動揺する気持ちを抑えながら、若菜は午後の業務をこなした。そして、逃げ出したい恐怖を必死の思いで打ち消し、約束の場所へ向かった。
若菜が噴水広場についてから数分後、やや遅れて直樹が姿を現した。
「ゴメン、地下鉄乗り間違えた!!待った?」
「先輩遅―い、最初のデートの時と同じだね。」
高校の時、何度も行った広場の近くにあるファミレスで久々に夕食をとった後、再び噴水の近くまで歩いた。
「あそこのファミレス、久々だったな。それにしても、よく俺が和風ハンバーグ頼むって分かったな。」
そう話を振ってきた直樹に、若菜が笑顔で答えた。
「だって先輩、あそこに行くと、いつもそればっかり頼んでいたじゃないですか。」
「ははは、良く覚えていたな!」
そんなやり取りの後、2人とも意識して避けてきた話を若菜から切り出した。
「そういえば先輩、今回のお仕事の件だけど…。和輝先輩からいきさつを聞いたんだ。ゴメンね、私のせいで…。」
若菜がそこまで言うと、直樹が神妙な面持ちで話し出した。
「ああ、そのことか。別に気にすることじゃないよ。それにしても驚いたぜ、あの三浦社長相手に単身乗り込んできたんだからな。監督に怒られる度に、よく泣きついてきたあの頃からは、想像もつかなかったよ。」
「そう…」
若菜がそれだけ答えた後、しばしの沈黙が訪れた。噴水の音と夜の静寂だけが2人を包んでいた。やがて、直樹が独り言のように、若菜の方は見ず、どこか遠くを見つめるかのようにしてつぶやいた。
「変わったな、お前…」
若菜は悲壮な覚悟を決め、直樹に告げた。
「そうだね…覚えてる、直樹?私がマネージャーで入部したバスケ部の最初の長野合宿で、立ち入り禁止の屋上でみんなで流星群を見て、先生に物凄く怒られたり、文化祭でお店やったり…。あの頃の私たちは、とにかく幸せだった。そして私たちは、あれから月日を経て大人になった、大人になってしまった…。お互いにもう、ただ楽しかったあの頃には戻れないんだね…。」
若菜は時間の残酷さを感じた。それでも、運命を受け入れる覚悟だけは、あの時すでにできていたはずだと、自分に言い聞かせた。そして、直樹から最後の止めを待った。
そして、直樹は若菜のそばに歩み寄り、自らの『答え』を若菜に示した。
「強くなったよ、若菜。目標も何も持っていなかった、あの頃に比べてな。」
驚き、若菜は直樹の顔を見上げた。直樹は若菜の肩を優しく、それでいて、力強く両手で抱きながら自分の想いを告げた。
「俺はプロとしての若菜を尊敬する。そして、一人の人間として、君を愛している。昔も、今も。そして、これからも…」
その瞬間、若菜の目から堪えていたものが溢れ出した。離れていた時間は確かに2人を変えた。しかしそれは、成長のために必要なことだったと、その時の若菜は思えた。幾多の困難と決断を乗り越え、その夜、2人は結ばれるのであった。
翌日、テレビからジャズブームのパイオニアとなった隼人が出演している液晶テレビのCMが、ミーティングルームで流れていた。若菜がいつものように仕事に向かおうとすると、扉の前で立っていた和輝が若菜に話しかけた。
「今回の件を境に、若菜ちゃん、いい顔になったな。もうイッパシの職人の顔だ」
そんな何気ない会話に、2人はお互いに微笑んだ。
「さーて、それじゃ今日も1日頑張っていきましょう」
和輝のその言葉を合図に、仕事に向かう若菜と和輝であった。今日もまた、新しい出会いが、若菜たちを待っている―。