「お疲れ様です。」

俺はまだ残っている隣の係にそう言って、いつもの家路に着いた。満員電車に揺られ、窓に映る覇気のない表情を眺めては、出てくるのはため息ばかりであった。

小森亮介、40歳。創立100年目を迎える大手金融機関でシステム保守を担当している。役職はチームリーダー、一応…。

一応…というのは、本来であれば、俺はチームリーダーにもなれなかったであろう。しかし、景気の影響で、うちの会社はしばらく新規採用を抑えていた。入社時期や、だいぶ離れてしまった次の世代との兼ね合いで、なんとかお情けでならせてもらったという状況だ。当然、チームリーダーは名ばかりで、やっている業務は相変わらず。今日もチーフに怒られる毎日だ。

家に帰ればかみさんと子どもたちはもう寝ている。日曜日にごろごろしていると、かみさんに置物扱いされているという、平凡な家庭で見かけられるような、お決まりの展開だ。

もっとも、俺だって最初からこんな性格であったわけではない。もともとは、今とは正反対の性格であったといえるだろう。

若い頃は、志望する大学に入って卒業し、希望する分野への就職も決まり、

「俺はやってやる!」

という野心に燃えていた。

だが、就職してからは何をやっても上手くいかず、次第にこう思うようになっていった。

「俺の限界は、ここまでだったんだな…。」

と。

別に、今の生活には、誰もが抱くような些細な不満がありつつも、まぁ、こんなもんかと思っている。だから、特段大きく変える気もさらさらもっていない。

ただ、時々考えてしまうんだよな。今思えば、高校の頃が、俺が一番輝いていた頃かな、と。そして、できることなら、あの頃の輝いていた時間に戻りたいと―。

テレビのソファーで横になり、そんなことを考えていた。次に目が覚めると、俺はブレザーの制服を着て、屋上で眠っていた。屋上の扉が開いたかと思うと、一人の少年が自分を呼んだ。

お久しぶりです。
まずは前作に関しての追記です。

昨年5月、前作の作品のイメージのきっかけとなったバンドが解散していました。

非常に残念ではありますが、彼らなりの考えがあっての決断だとは思います。これまで素晴らしい音楽を提供してくれた感謝とともに、彼らの未来がより良きものになっていくことを願います。

さて、ここからは新作についての紹介。
約2年ぶりの新作です。

「Another Past―もし、過去をやり直せるとしたら―」

何か上手くいかないとき、みなさんも考えたことがあるかもしれません。

「あの頃は良かったのにな、戻れたらいいのにな。」

と。

あるいは、こんなことを考えたことがあるかもしれません。

「今だったら、あの時こうしていればよかったのにな。」

と。

もちろん、少なくとも現在の技術では、実際に過去に戻ることはできません。
しかし、そんなありえないことが、ある時偶然、現実のものになったとしたら。


今回の作品は、そんな「予期せぬタイムスリップ」をテーマに構成してみました。
最後までお付き合いいただけましたら幸いです。

今回の作品にオープニングとエンディングを付けるなら、この2曲です。

実際に、作品を作る過程で、後者の曲を聴きながら作り上げ、その後、作品に合う他の曲は何かなと考えたら、この組み合わせになりました。

オープニング「ビデオテープ」SomethingELse



※動画はほかのアーティストによるカバー演奏です

エンディング「time flies」Megumild



それでは。
こんばんは、今日もお疲れ様です。

『LOVE DOCTOR~恋の相談医~』、いかがだったでしょうか?

楽しんでいただき、この作品が、立ち寄って読んでいただいた方の心に宿ったのであれば、これに勝る幸いはないです。親バカ(?)かもしれませんが、私も、お届けする作品の中で、主人公である若菜が成長していく姿は、とても嬉しいものでした。

魂を込めてお送りした作品が終わるのは寂しいものですが、1つの区切りとして、この作品はひとまず、ここまでとなります。

いつになるかは分かりませんが、また次回作でお会いいたしましょう。
あくまでも希望的観測ですが、3年以内にお届けできるといいなとは思っています。

それでは。

感謝を込めて 2012.5.19 藤川 貴大


「地元の中学を卒業したあと、俺たちは同じ高校に進学した。まぁ、俺は普通科で万年赤点の空手バカ、龍一は特進科で水泳部のエース、しかも3年間学年トップだったけどな。そんな中で、周囲の期待の応えて当然のように、龍一は現役で虎ノ門大学経済学部に進学した。開学始まって以来の天才と謳われ、虎ノ門の大学院生とかが参加する国際学会での発表も、龍一だけは特別に学部1年の秋から参加を許された。そして、大学1年次の冬に、世界的な有力経済誌に経営に関する理論と展望についての論文を投稿し、最優秀賞を受けた。そのことが高く評価され、2年に進級すると、それが国家戦略プロジェクトの1つに採択された。」

龍一はここで一度話を区切った。昔の自分を回顧して、自嘲気味にぽつりと言った。

「そんなこともあったな。まだ若く、やりたいことが限りなくあり、怖いもの知らずの青二才だった。」

そう話す龍一のほうを見て、少しだけ微笑むと、再び和輝が話し始めた。

「当時、その理論は非の打ち所が無く、誰もがその成果がどれだけのものに成るのかに期待を寄せていた。龍一自身の考えもそうであっただろう。だが、事はそうシナリオ通りには運ばなかった。国が公募で集めた協力者のもと、農業分野でその理論を実践しようとしたが、協力者側の古くからの慣例などが原因で、予定通りに理論を実践に組み込むことに移行できなかった。そういったことが重なっていくと、対立が増していき、次第に収拾がつかなくなってきた。何とか理論をもっと実践に組み込ませようと、反対派の中でも急先鋒の人物を、全員の目の前で解雇したこともあったな。だが、そういった強攻策は更なる反発を招くだけとなった。結局、事業は1年半でプロジェクトから外されて頓挫することとなり、人生で最初とでも言えるような大きな挫折を味わう結果となった。だが龍一、あんたはこの苦い経験をそこで終わらせはしなかった。ゴシップ誌で誹謗中傷が吹きすさぶ中、それでも自身の理論の有効性を信じて、単身アメリカの大学院へ留学し、そこで今度はITベンチャーに着手した。マーケティングから細かい分析を進め、大学院に籍を置いていた5年の間に全米のみならず、カナダやイギリスにも事業を展開した。そして今、海外での成功と巨大な力を背景に、かつての手法に戻ろうとしている。」

苦い挫折から這い上がり、立ち直った自信から、忘れかけていた過去を龍一は思い出した。和輝が言わんとしていることを、頭では理解しつつも、感情として受け入れ切れない龍一は、和輝に確かめるように口を開いた。

「何が言いたいんだ、和輝…。」

和輝は静かに、しかしどこか熱のこもった調子で、容赦なく龍一に問いかけた。

「『ヒト・モノ・カネ』この3つの要素が企業経営を成立させているということは、経営者なら百も承知のことだろう。ただ、その企業を将来にわたって成長させていくために最も重要な要素は『ヒト』だ。そして、どれだけ他の要素が満たされていようと、そこで働く人の心がバラバラであれば、企業はどこかでその代償を払わなくてはならなくなる。そのことは龍一、お前が一番身にしみて知っているはずだ。あの時と同じ過ちを、またここで繰り返す気か!?」

和輝がそこまで言い切った時、則政がまくし立てるように2人の間に割って入った。あと少しで買収成立と言うところで邪魔が入ったことで、憤りを抑えられないようであった。

「社長、今回の買収案はこの私が中心となり、幹部候補たちが最新の経営理論に則って提案いたしたものです。こんな経営のイロハも知らなそうな小娘共の戯言など、真に受けてはなりませぬぞ!」

その時、龍一の様子が一変した。先ほどまでの穏やかな表情や静かな雰囲気が消え、荒々しい雰囲気と険しい顔つきで則政近づくと、彼の襟元を掴んで椅子から立ち上がらせた。

「副社長…彼女たちは私的な感情ではなく、一介のプロとして私に意見を申し出てきた。どのような者であれ、プロに対してはプロとして敬意をもって応じるのが私の流儀だ。あなたも我が社のプロであるなら、そういう人間でありたまえ!」

そう則政を叱責した後、龍一は落ち着きを取り戻しながら和輝の問いかけに応えた。

「双葉さん、それに和輝…お前たちに言われたからというわけではないからな。あくまで俺は、経営者として最高の結果を出すことだけを考えるだけだ。」

龍一はそれだけ和輝に返した。そんな龍一に対して、和輝は少しだけ笑みを浮かべた。そして今度は、先ほどまでと同じように、紳士的な雰囲気と穏やかな口調で直樹に話し出した。

「直樹…大至急、経営理事会の役員を招集してもらいたい。打ち合わせは1時間後、形式はオンライン会議で構わない。他の会議を止めてでも全員集めるんだ。急いでくれ。」

そう言われた直樹は、勢いよく別の部屋へ向かった。途中、若菜の方を見ようとしたが、思いとどまり、真っ直ぐ部屋の出口を目指した。若菜はその場で立ちつくしていた。その様子は、戦場で民を導いた女神が、りりしく終戦を告げるかのようであった。

数日後、合併騒動の最終的な結論が病院内で告知された。

まずは技術提供という形で三浦コーポと事業提携を行うこと、三鷹病院が三浦コーポの医療分野における研究開発に全面的に協力すること、そして、買収ではなく、三浦コーポ側の新施設を井の頭に移設することなどが正式に決定したことが決められた。こうして、三鷹病院は独立性を守り通した。

その日の昼休み、若菜は和輝とミーティングルームで昼食を食べていた。今回の騒動が無事に解決して、2人ともホッとした様子であった。

「それにしても、先輩が三浦社長の友人だったなんて驚きましたよ。」

そう尋ねた若菜に対して、和輝が話し始めた。

「まあな。昨日、新橋で一緒に飲んだんだが、今回のことに関して色々話してくれたよ。若菜ちゃんには、信念を貫き通して、危うく暴走しそうになった自分を止めてくれたことを感謝しているってさ。あのままだったら、昔と同様の強攻策に戻りかねなかったってな。あと、『全くの頓挫じゃないからキャリアに傷はつかないが、直樹にとって初めての大きなプロジェクトだったから、成功はさせてやりたかった』って言ってたな。あいつは元々、巷で出回っている噂みたいな悪いやつじゃないんだ。ただ、実践的な理論に傾斜しやすい傾向があって、そうなると周りが見えなくなっちまうんだよな。昔からの悪いクセだよ。」

そう言った和輝の言葉に若菜は納得した。確かに、器の大きい人間でなければ、あの大事な会議の場で自分の話なんて聞いてくれないし、そもそも部屋にも通してくれないだろう。若菜は龍一の印象を考え直し、感謝の念を抱いた。そして、直樹に対して、申し訳ない気持ちが胸に突き刺さった。

昼休みが終わろうとしていた時、携帯に1通のメールが入った。送信元は直樹であった。

『急ですまないけど、今日の夜、青山の噴水広場で会えないかな?』

若菜の表情が曇った。青山の噴水広場…それは2人にとって「きっかけの場所」であったからだ。若菜が直樹に告白した場所、2人が初めてキスをした場所、そして、一度ピリオドを打った場所…。動揺する気持ちを抑えながら、若菜は午後の業務をこなした。そして、逃げ出したい恐怖を必死の思いで打ち消し、約束の場所へ向かった。

若菜が噴水広場についてから数分後、やや遅れて直樹が姿を現した。

「ゴメン、地下鉄乗り間違えた!!待った?」

「先輩遅―い、最初のデートの時と同じだね。」

高校の時、何度も行った広場の近くにあるファミレスで久々に夕食をとった後、再び噴水の近くまで歩いた。

「あそこのファミレス、久々だったな。それにしても、よく俺が和風ハンバーグ頼むって分かったな。」

そう話を振ってきた直樹に、若菜が笑顔で答えた。

「だって先輩、あそこに行くと、いつもそればっかり頼んでいたじゃないですか。」

「ははは、良く覚えていたな!」

そんなやり取りの後、2人とも意識して避けてきた話を若菜から切り出した。

「そういえば先輩、今回のお仕事の件だけど…。和輝先輩からいきさつを聞いたんだ。ゴメンね、私のせいで…。」

若菜がそこまで言うと、直樹が神妙な面持ちで話し出した。

「ああ、そのことか。別に気にすることじゃないよ。それにしても驚いたぜ、あの三浦社長相手に単身乗り込んできたんだからな。監督に怒られる度に、よく泣きついてきたあの頃からは、想像もつかなかったよ。」

「そう…」

若菜がそれだけ答えた後、しばしの沈黙が訪れた。噴水の音と夜の静寂だけが2人を包んでいた。やがて、直樹が独り言のように、若菜の方は見ず、どこか遠くを見つめるかのようにしてつぶやいた。

「変わったな、お前…」

若菜は悲壮な覚悟を決め、直樹に告げた。

「そうだね…覚えてる、直樹?私がマネージャーで入部したバスケ部の最初の長野合宿で、立ち入り禁止の屋上でみんなで流星群を見て、先生に物凄く怒られたり、文化祭でお店やったり…。あの頃の私たちは、とにかく幸せだった。そして私たちは、あれから月日を経て大人になった、大人になってしまった…。お互いにもう、ただ楽しかったあの頃には戻れないんだね…。」

若菜は時間の残酷さを感じた。それでも、運命を受け入れる覚悟だけは、あの時すでにできていたはずだと、自分に言い聞かせた。そして、直樹から最後の止めを待った。

そして、直樹は若菜のそばに歩み寄り、自らの『答え』を若菜に示した。

「強くなったよ、若菜。目標も何も持っていなかった、あの頃に比べてな。」

驚き、若菜は直樹の顔を見上げた。直樹は若菜の肩を優しく、それでいて、力強く両手で抱きながら自分の想いを告げた。

「俺はプロとしての若菜を尊敬する。そして、一人の人間として、君を愛している。昔も、今も。そして、これからも…」

その瞬間、若菜の目から堪えていたものが溢れ出した。離れていた時間は確かに2人を変えた。しかしそれは、成長のために必要なことだったと、その時の若菜は思えた。幾多の困難と決断を乗り越え、その夜、2人は結ばれるのであった。

翌日、テレビからジャズブームのパイオニアとなった隼人が出演している液晶テレビのCMが、ミーティングルームで流れていた。若菜がいつものように仕事に向かおうとすると、扉の前で立っていた和輝が若菜に話しかけた。

「今回の件を境に、若菜ちゃん、いい顔になったな。もうイッパシの職人の顔だ」

そんな何気ない会話に、2人はお互いに微笑んだ。

「さーて、それじゃ今日も1日頑張っていきましょう」

和輝のその言葉を合図に、仕事に向かう若菜と和輝であった。今日もまた、新しい出会いが、若菜たちを待っている―。


「双葉若菜さんですね、お待たせして申し訳なかった。若い警備員の彼か、受付の彼女がすぐ報告に来てくれれば、別室を用意してもらうなどの対応もできたが、彼らなりに考えての行動だろう。許してやってほしい。」

若菜は一瞬だけキョトンとした。『悪魔の化身』などと呼ばれる社長だから、もっと強面で無愛想かと思いきや、知的で落ち着きを払った紳士であった。しかし、すぐに気持ちを切り替えた。

問いかけるように龍一は若菜に話し続けた。

「さて、用件を聞きましょうか。」

そう言った龍一の様子を見て若菜は直感的に感じ取った。口調こそ先ほどまでと同じように紳士的であったが、龍一の表情はまるで獲物を狙う猛獣のような目をしていた。物怖じしそうになり気持ちを抑え、若菜はきっぱりと言い切った。

「今回の合併、もう一度見直していただけないでしょうか!」

龍一がその理由を尋ねると、若菜が続けて答えた。

「今回の合併に関しては、院内でも反対の声が根強いです。地域密着の医療を目指して三鷹病院を選んだ職員たちにとって、社長が描かれる富裕層をターゲットとした医療のハイテク化のビジョンがミスマッチしているからです。確かに、方法論としてはうちの病院を合併することが可能でしょう。しかし、そこで働く人たちの心が離れてしまっては、意味のある合併とは言えないからです。」

龍一は若菜の主張に静かに耳を傾けた。そして、切り返した。

「なるほど、人の感情に着目する点などは恋愛相談医らしい見解ですね。」

そう前置きをして、若菜に問いかけた。

「では、代替案を聞かせてもらいましょうか?合併を切り出したからには、我々としてはできる限りの成果を出したい。これは個人の感情としてではなく、ビジネスとしての問題だ。」

そう尋ねた龍一に対して、若菜は用意してきた代替案を話し始めた。

「合併ではなく、新規設立の方も検討しなおしていただけないでしょうか?確かに、新規参入の場合、コストも時間も掛かりますが、御社のようなITを相当に融合させた仕組みは、日本ではまだ確立されてはおりません。競合相手が皆無であり、しばらく期間が経過したとしても、国内市場でしたら採算が取れるのではないでしょうか?」

この若菜の提案に対して、龍一はすかさず切り替えした。

「残念ながら、それは我々の戦略プランからは外されている。技術の進歩は目まぐるしい。極端なたとえで言うならば、今日の画期的なシステムが、明日には化石になっているといった具合です。今持っている技術と手札を最大限に活用して、顧客満足度の高いサービスを提供し、収益を上げていくのが、我が社に限らず、経営陣の使命なのでね。」

若菜は食い下がった。ここで諦めるわけには行かないと言う使命感が彼女を後押ししていた。続けて、別のプランを龍一に話した。

「それでは、総合病院ではなく、単科病院からならコストも時間も縮小して新規設立が可能ではないでしょうか?特に、脳外科などの難しい分野に特化されたり、小児科・産婦人科などの供給が足りない分野でより回転率をあげたりすることができれば、個々では少ない収益でも、全体的にはかなりの収益になるのではないでしょうか?」

龍一もまた、トップらしくすばやく判断を下し、若菜に応じていった。

「残念ながら、我々の有するシステムは、現在、単科病院にまで対応できるような小型化・低コスト化にこぎつけていないのですよ。総合病院で、ある程度、大々的に稼動させることによってこそ、相応の収益が見込める。その案も、わが社としては選択肢からは除外されますね。」

その後、3つ4つのプランを龍一に示したが、どれも三浦コーポが受け入れるにはクリアできそうにない課題があり、退けられた。若菜は、前もって準備してきたプランの最後のものを、祈るような気持ちで話し始めた。

「この案は…理事会が認めてくれればというものですが、病院の施設シェアおよび指導医クラスの職員を出向で勤務させるというのはどうでしょうか?その間に、新施設の建設やノウハウの伝達を行えれば、時間やコストのロスをできる限り押さえた上で、御社の収益確保と本院の経営の独立性が両立可能ではないでしょうか?」

若菜にとって、この案はいわば「肉を切らせて骨を断たせない」という、一種の捨て身に近い案であった。それを聴き終えた和輝の顔は少し笑っているように見えた。決して若菜のことを侮っているのではなく、認めつつも、認めないといった様子が伺えるような表情であった。

「君は本当に理事長が見込まれただけのことはある。茶化しているように聞こえたら失礼。だが、これは本心から言っているんですよ。なぜなら、君はよく勤められているということが、十分に感じ取れたからだ。さっきのその案は、君がこの部屋を訪ねてくる直前に、理事長が同じようなことを我々に申し出ていた。それだけじゃない。他の案に関しても、緻密さこそ粗さが見受けられるが、内容については理事長がおっしゃっていたことと大体一緒だ。ですが、ここまでお話すればお分かりでしょう。先ほどの案も、わが社の選択にはありません。シェアとなると、大まかな箇所はともかく、細かい箇所で権利や責任の所在が複雑になってしまう。他には、何かありますか?」

ここに来て、若菜はなぜ龍一が『悪魔の化身』という異名を持つのかを別の視点から感じとった。

今まで、若菜は龍一の経営のやり方や今までの経歴などから、そう呼ばれているのだと考えていた。
しかし、それだけではない。彼は反論する者の話にも耳を傾けるのだ。その上で、相手の主張を1つ1つ論破していくことで、相手の手札を奪ってしまう。
若菜はすでに、用意してきた策を使い果たしてしまっていた。気付かぬ間に一人ぼっちの湖の真ん中で、羽をもがれた白鳥のような心理状態に陥った若菜は、手足が震え始め、血の気が引くのを感じた。

直樹はそのことに気付いていた。今までなら、そこですぐに助け舟を出すことができた。例えば、過去にはこんなことがあった。

インターハイ予選の1回戦、選手全員に配る予定だった大会用のリストバンドをいつもの練習用のものと間違え、若菜は顧問の教師にこっぴどく怒られていた。

その時、部長だった直樹は顧問と若菜の間に入り、2人の間をとりなした。

「そんなに双葉を怒らないでください、先生。だったら俺たちが、試合に勝ってそれを2回戦にもって行きます。そうだよな、みんな!」

だが、今はあの時とは状況が違う。三浦コーポレーションの一員である以上、社長の意思に背くわけにはいかない。そうは言っても、若菜をこのままにはできない。直樹は今までの経験の中から、落としどころがないか懸命に考えた。そして、若菜はそれ以上に、頭が真っ白になりそうになりながら、必死に出口を探していた、その時であった。

「ま、俺は若菜ちゃんの考えに賛成だけどね!」

若菜たちがいる会議室に無骨な声が響いた。意識が現実に移され、フッと若菜は声のするほうへ振り返った。すると、厳重な警備に守られたこの会議室にいるはずのない、いつもの人物がいた。

「よう、龍一。久しぶりだな。」

いつものあっけらかんとした笑みを浮かべながら、和輝が直樹に話しかけていた。それにしても、「久しぶり」って、2人は知り合いなの…。そんなことを考えていると、先ほどから若菜の話を退屈そうに、むしろ、やや神経質になりながら聞いていた副社長の則政が声を荒げた。

「なんだ貴様は!警備員はどうした!!」

頭に血が上っている則政を制止するかのように、龍一が静かに、それでいて迅速に対応した。

「問い詰めるだけ無駄ですよ、副社長。彼とは中学からの同級生でね。よく横暴で怠慢な教師たちに悪巧みを仕掛けて困らせてやったものだ。私が知能犯、勇次が実行犯、そして和輝が主犯だ。ばれたことは1度としてない。大学卒業後、新聞社で就職して、歌舞伎町界隈や大阪ミナミでの凶悪犯罪や政治家の闇取引など、生命の危険が常に伴う国内危険度S区域担当専門記者を勤めて、その実力は洗練されているはずだ。ここへ入り込むことぐらい訳ないだろう。」

そう話した龍一に対して、和輝は相変わらずの調子で応えた。

「へ、懐かしいな。頭にきた堅物の体育教師のワーゲンに細工して、エンジン掛けるのと同時に、アニメの音楽を大音量で校内の大勢の前で流させたり、塗装加工で帰宅中に痛車に差し替えたりもしたっけな。半年ほどやったら3ヶ月ほど登校拒否になったっけ。まぁ、今回、俺は正面玄関から堂々と入らせてもらったけどな。」

そんな和輝に対して龍一は悟ったかのように笑みを浮かべながら切り替えした。

「裏口の正面玄関から堂々と、あるいは変装して正面玄関から堂々と、と言ったところだろう。まぁ、私が1週間も調べれば見抜けるだろうが、そんなことは時間の無駄、すなわち、コストの無駄だ。別に何か盗られたりしたわけではないし、無駄なブランド力の低下にもなるからな。それよりも、用件を聞こうか。」

いけない、この手口に乗せられてはダメだ…。若菜がそう和輝を止めようとする前に、和輝が話し始めた。

「んー、昔話でもしようと思ってな。」

「そんなこと、後からよそでやればいいじゃないか!」

そういきり立った則政に対して一瞥して鎮まらせると、龍一は話を続けるように促した。和輝は部屋をまわりながら、高校入学からのことを語りだした。