「双葉若菜さんですね、お待たせして申し訳なかった。若い警備員の彼か、受付の彼女がすぐ報告に来てくれれば、別室を用意してもらうなどの対応もできたが、彼らなりに考えての行動だろう。許してやってほしい。」
若菜は一瞬だけキョトンとした。『悪魔の化身』などと呼ばれる社長だから、もっと強面で無愛想かと思いきや、知的で落ち着きを払った紳士であった。しかし、すぐに気持ちを切り替えた。
問いかけるように龍一は若菜に話し続けた。
「さて、用件を聞きましょうか。」
そう言った龍一の様子を見て若菜は直感的に感じ取った。口調こそ先ほどまでと同じように紳士的であったが、龍一の表情はまるで獲物を狙う猛獣のような目をしていた。物怖じしそうになり気持ちを抑え、若菜はきっぱりと言い切った。
「今回の合併、もう一度見直していただけないでしょうか!」
龍一がその理由を尋ねると、若菜が続けて答えた。
「今回の合併に関しては、院内でも反対の声が根強いです。地域密着の医療を目指して三鷹病院を選んだ職員たちにとって、社長が描かれる富裕層をターゲットとした医療のハイテク化のビジョンがミスマッチしているからです。確かに、方法論としてはうちの病院を合併することが可能でしょう。しかし、そこで働く人たちの心が離れてしまっては、意味のある合併とは言えないからです。」
龍一は若菜の主張に静かに耳を傾けた。そして、切り返した。
「なるほど、人の感情に着目する点などは恋愛相談医らしい見解ですね。」
そう前置きをして、若菜に問いかけた。
「では、代替案を聞かせてもらいましょうか?合併を切り出したからには、我々としてはできる限りの成果を出したい。これは個人の感情としてではなく、ビジネスとしての問題だ。」
そう尋ねた龍一に対して、若菜は用意してきた代替案を話し始めた。
「合併ではなく、新規設立の方も検討しなおしていただけないでしょうか?確かに、新規参入の場合、コストも時間も掛かりますが、御社のようなITを相当に融合させた仕組みは、日本ではまだ確立されてはおりません。競合相手が皆無であり、しばらく期間が経過したとしても、国内市場でしたら採算が取れるのではないでしょうか?」
この若菜の提案に対して、龍一はすかさず切り替えした。
「残念ながら、それは我々の戦略プランからは外されている。技術の進歩は目まぐるしい。極端なたとえで言うならば、今日の画期的なシステムが、明日には化石になっているといった具合です。今持っている技術と手札を最大限に活用して、顧客満足度の高いサービスを提供し、収益を上げていくのが、我が社に限らず、経営陣の使命なのでね。」
若菜は食い下がった。ここで諦めるわけには行かないと言う使命感が彼女を後押ししていた。続けて、別のプランを龍一に話した。
「それでは、総合病院ではなく、単科病院からならコストも時間も縮小して新規設立が可能ではないでしょうか?特に、脳外科などの難しい分野に特化されたり、小児科・産婦人科などの供給が足りない分野でより回転率をあげたりすることができれば、個々では少ない収益でも、全体的にはかなりの収益になるのではないでしょうか?」
龍一もまた、トップらしくすばやく判断を下し、若菜に応じていった。
「残念ながら、我々の有するシステムは、現在、単科病院にまで対応できるような小型化・低コスト化にこぎつけていないのですよ。総合病院で、ある程度、大々的に稼動させることによってこそ、相応の収益が見込める。その案も、わが社としては選択肢からは除外されますね。」
その後、3つ4つのプランを龍一に示したが、どれも三浦コーポが受け入れるにはクリアできそうにない課題があり、退けられた。若菜は、前もって準備してきたプランの最後のものを、祈るような気持ちで話し始めた。
「この案は…理事会が認めてくれればというものですが、病院の施設シェアおよび指導医クラスの職員を出向で勤務させるというのはどうでしょうか?その間に、新施設の建設やノウハウの伝達を行えれば、時間やコストのロスをできる限り押さえた上で、御社の収益確保と本院の経営の独立性が両立可能ではないでしょうか?」
若菜にとって、この案はいわば「肉を切らせて骨を断たせない」という、一種の捨て身に近い案であった。それを聴き終えた和輝の顔は少し笑っているように見えた。決して若菜のことを侮っているのではなく、認めつつも、認めないといった様子が伺えるような表情であった。
「君は本当に理事長が見込まれただけのことはある。茶化しているように聞こえたら失礼。だが、これは本心から言っているんですよ。なぜなら、君はよく勤められているということが、十分に感じ取れたからだ。さっきのその案は、君がこの部屋を訪ねてくる直前に、理事長が同じようなことを我々に申し出ていた。それだけじゃない。他の案に関しても、緻密さこそ粗さが見受けられるが、内容については理事長がおっしゃっていたことと大体一緒だ。ですが、ここまでお話すればお分かりでしょう。先ほどの案も、わが社の選択にはありません。シェアとなると、大まかな箇所はともかく、細かい箇所で権利や責任の所在が複雑になってしまう。他には、何かありますか?」
ここに来て、若菜はなぜ龍一が『悪魔の化身』という異名を持つのかを別の視点から感じとった。
今まで、若菜は龍一の経営のやり方や今までの経歴などから、そう呼ばれているのだと考えていた。
しかし、それだけではない。彼は反論する者の話にも耳を傾けるのだ。その上で、相手の主張を1つ1つ論破していくことで、相手の手札を奪ってしまう。
若菜はすでに、用意してきた策を使い果たしてしまっていた。気付かぬ間に一人ぼっちの湖の真ん中で、羽をもがれた白鳥のような心理状態に陥った若菜は、手足が震え始め、血の気が引くのを感じた。
今まで、若菜は龍一の経営のやり方や今までの経歴などから、そう呼ばれているのだと考えていた。
しかし、それだけではない。彼は反論する者の話にも耳を傾けるのだ。その上で、相手の主張を1つ1つ論破していくことで、相手の手札を奪ってしまう。
若菜はすでに、用意してきた策を使い果たしてしまっていた。気付かぬ間に一人ぼっちの湖の真ん中で、羽をもがれた白鳥のような心理状態に陥った若菜は、手足が震え始め、血の気が引くのを感じた。
直樹はそのことに気付いていた。今までなら、そこですぐに助け舟を出すことができた。例えば、過去にはこんなことがあった。
インターハイ予選の1回戦、選手全員に配る予定だった大会用のリストバンドをいつもの練習用のものと間違え、若菜は顧問の教師にこっぴどく怒られていた。
その時、部長だった直樹は顧問と若菜の間に入り、2人の間をとりなした。
「そんなに双葉を怒らないでください、先生。だったら俺たちが、試合に勝ってそれを2回戦にもって行きます。そうだよな、みんな!」
だが、今はあの時とは状況が違う。三浦コーポレーションの一員である以上、社長の意思に背くわけにはいかない。そうは言っても、若菜をこのままにはできない。直樹は今までの経験の中から、落としどころがないか懸命に考えた。そして、若菜はそれ以上に、頭が真っ白になりそうになりながら、必死に出口を探していた、その時であった。
「ま、俺は若菜ちゃんの考えに賛成だけどね!」
若菜たちがいる会議室に無骨な声が響いた。意識が現実に移され、フッと若菜は声のするほうへ振り返った。すると、厳重な警備に守られたこの会議室にいるはずのない、いつもの人物がいた。
「よう、龍一。久しぶりだな。」
いつものあっけらかんとした笑みを浮かべながら、和輝が直樹に話しかけていた。それにしても、「久しぶり」って、2人は知り合いなの…。そんなことを考えていると、先ほどから若菜の話を退屈そうに、むしろ、やや神経質になりながら聞いていた副社長の則政が声を荒げた。
「なんだ貴様は!警備員はどうした!!」
頭に血が上っている則政を制止するかのように、龍一が静かに、それでいて迅速に対応した。
「問い詰めるだけ無駄ですよ、副社長。彼とは中学からの同級生でね。よく横暴で怠慢な教師たちに悪巧みを仕掛けて困らせてやったものだ。私が知能犯、勇次が実行犯、そして和輝が主犯だ。ばれたことは1度としてない。大学卒業後、新聞社で就職して、歌舞伎町界隈や大阪ミナミでの凶悪犯罪や政治家の闇取引など、生命の危険が常に伴う国内危険度S区域担当専門記者を勤めて、その実力は洗練されているはずだ。ここへ入り込むことぐらい訳ないだろう。」
そう話した龍一に対して、和輝は相変わらずの調子で応えた。
「へ、懐かしいな。頭にきた堅物の体育教師のワーゲンに細工して、エンジン掛けるのと同時に、アニメの音楽を大音量で校内の大勢の前で流させたり、塗装加工で帰宅中に痛車に差し替えたりもしたっけな。半年ほどやったら3ヶ月ほど登校拒否になったっけ。まぁ、今回、俺は正面玄関から堂々と入らせてもらったけどな。」
そんな和輝に対して龍一は悟ったかのように笑みを浮かべながら切り替えした。
「裏口の正面玄関から堂々と、あるいは変装して正面玄関から堂々と、と言ったところだろう。まぁ、私が1週間も調べれば見抜けるだろうが、そんなことは時間の無駄、すなわち、コストの無駄だ。別に何か盗られたりしたわけではないし、無駄なブランド力の低下にもなるからな。それよりも、用件を聞こうか。」
いけない、この手口に乗せられてはダメだ…。若菜がそう和輝を止めようとする前に、和輝が話し始めた。
「んー、昔話でもしようと思ってな。」
「そんなこと、後からよそでやればいいじゃないか!」
そういきり立った則政に対して一瞥して鎮まらせると、龍一は話を続けるように促した。和輝は部屋をまわりながら、高校入学からのことを語りだした。