その頃、隼人は高田馬場で行きつけのラーメンを食べていた。


『今日はついていなかった…たまにはあるとはいえ、由佳とも気持ちがすれ違ってしまったようだ…。でも、よりによって今日じゃなくていいだろう…。』


 そんなことを考えては、気持ちを切り替えようと思い、目の前のラーメンをすすった。ラーメンを食べ終え、勘定を済ませると隼人は部屋に戻ることにした。そして帰り際、自販機でコーヒーを買おうとした時、あることに気づいた。

「オヤジ…釣り間違えてるよ…。」
 

 ラーメン代を精算した際、釣りが100円足りなかったのだ。給料日前だったため、そのまま戻ることにした。その時、隼人を呼び止める声がした。

「あれ、隼人君じゃないか?」

 声のするほうに顔を向けると、コート姿の和輝がいた。会議が無事に終わり、同僚たちと一杯やった帰りだったのである。二人は歩いて新宿駅に向かった。歩きながら、和輝は隼人から事の顛末を聞いた。新宿駅に着くと、和輝がダイドーの缶コーヒーを隼人に差し入れ、2人はサテライト口のベンチに腰をおろした。

「なるほどねぇ、オーディションが上手くいかなかった上に彼女とケンカしてしまった。おまけにラーメンで釣りまで間違えられたとは、ツイてない1日だなぁそりゃ。」

「ホント、和輝さんに声かけてもらわなかったらむっちゃ凹んで部屋に戻るところでしたよ。」

 和輝に気持ちを察してもらい、隼人の口からは思わず本音が漏れた。落ち込む隼人を励ますかのように和輝は声をかけた。

「しかし、一度しかない人生、男なら夢に懸けてみたいよな!」

 その一言に、隼人は少し元気を取り戻した。

「ありがとうございます。やっぱ男同士、話が合いますね!」

 隼人は、この重い話題を変えようと思い、違う話を切り出した。

「そういえば、若菜ちゃんから聞いたんですが、和輝さんも高校から奥様と付き合っていて、学生結婚されたらしいですね。やっぱ大恋愛だったんですか?」

「まあな。でも…結婚の時には色々あったよ。」

 そう言うと、和輝は妻とのエピソードを語り始めた。その内容は、隼人の想像をはるかに超えるドラマであった。
 
 
 一方、若菜たちはしばらく街を歩いた後、近くのファミレスに入った。その時には、由佳の状態も大分落ち着きを取り戻していた。

 いきさつを話した後、由佳は隼人との出会いから若菜に話し始めた。

「私が高校の陸上部のレベルについていけなくなってきて、初めて部活をサボった日に隼人と出会ったんだ。音楽室でギターを弾いていた隼人はすごくかっこ良かった。その時、2人っきりの音楽室でいくつかオリジナル曲も弾いてくれたんだ。当時、隼人の両親は音楽の道に進むのに猛反対していて、九段坂大だけ教職免状の取得を条件に、一度だけ受験を認めてもらった。いつだって隼人は、前だけを見ていた。そのための努力を惜しまなかった。そんな隼人が好きだから、私も挫折しかけた陸上や、辛かった浪人生活も頑張れた。」

 少しだけ元気が出てきたように見えた由佳だったが、再びその表情が曇った。

「でも…周りがみんな幸せになっているのに、私はいつまで待てばいいのか、いつまで待てるのか…。隼人が好きなのに…。ゴールの見えないマラソンを走っているみたいで、自信が持てないんだ…。」

 新宿駅では、和輝が隼人に自身の過去を話していた。

「俺とかみさんが大学1年の冬、あいつの妊娠が分かった。当時、景気は今世紀最大の大恐慌と言われる悲惨な状況だった。それに、今と違って授かり婚や学生結婚への理解はほとんどなかったし、田舎の地元はなおさらだった。義両親にあいさつに行ったら、待っていたのは当然のごとく義父(おやじ)さんの右の鉄拳だったよ。義父さんの怒号とうろたえる義母(おかっ)さん、泣き叫ぶかみさんの姿だけがそこにあった。そんでもって『産む』『産ませない』『別れろ』『別れない』、最後は『生きる』『死ぬ』の大騒ぎだった。うちの実家でも同じような展開だったよ。肉体的にも精神的にもみんなボロボロになりながら、最後は親を説得しきって、何とか俺たちは長男を授かって一緒になれた。」

 隼人は和輝の意外な過去に驚いた。和輝は、普段、そんな素振りを見せたことなどなかったのである。和輝は続けて話した。

「それでも、その代償は小さくはなかった。特に、かみさんには肩身の狭い思いをさせた上に、大学生ならできたはずの楽しみも、ほとんどさせてやれなかった。だからこそ強く思ったよ、卒業後は、俺が2人をちゃんと養って、幸せな家庭を守っていくってな。当時はえり好みしている余裕など無かったが、景気が回復してきて、出来るだけ家族と一緒に過ごせる時間が持てるようにと、今の仕事を選んだ。」

 和輝の壮絶な過去に、続ける言葉を隼人は見つけられなかった。そんな隼人の背中を押すように、和輝は人生の先輩としてアドバイスを送った。

「夢を追いたいという君の気持ちは解っているつもりだ。ただ、ずっと不安に待ってくれているお姫様を安心させるのもナイトの務めってもんだぜ。」

「そう…です…ね」

 和輝の言葉に、遠くのどこか一点を見つめているようにして、隼人はそう答えた。