いつものように午前中の診察を終えた若菜は、昼食を食べた後、外回りに向かおうとしていた。

すると、病院の門を出た辺りで、若菜を呼ぶ声がした。

「あれ、若菜じゃないの?」

聞き覚えのある声であった。見ると、一人の若い女性が立っていた。それに気づいた瞬間、若菜が驚いた様子で彼女に話しかけた。

「由佳じゃないの!久しぶり、元気だった!?いつこっちに戻ってきたの?」

村上由佳は若菜の大学の同級生である。もっとも、歳は彼女の方が1コ上なのだが。ホームセンターに就職して山梨で働いていたが、近々、都内に異動になるという話を耳にはさんでいた。

「一昨日こっちに来たんだよ、今日は有給もらって引越しの最中さ。まぁ、立川の実家に荷物入れるだけなんだけどね。」

その週末、久々に女友達同士で飲みに行った。酔うと上機嫌になってよくしゃべるようになる由佳は、しばらくすると若菜に絡んできた。

「若菜ちゃーん、ようやく遠距離恋愛から超近距離恋愛になったよー。何だかんだ言ったっても、遠距離は寂しかったんだよー。でもね、たまには東京から隼人が遊びに来てくれたんだー。今年の夏は、一緒に夏フェスに行ったんだよ。うらやましいでしょー」

完全に酔っ払っていた由佳は、その後も延々とのろけ話をした。家までタクシーで送っていくのは大変だったが、二人が順調に交際を重ねていることが伝わり、嬉しい気持ちになった。

翌日、そのことを和輝に話した。すると、何か思いついた和輝は若菜に頼み事をした。

「2週間後に院内コンサートが予定されているんだけど、あと一組が決まらなくてな。デモとかを聴いてからじゃないと判断は出来ないけど、良かったら声掛けてもらえないか?」

コンサート当日、新人アーティストやクラシック演奏者が素敵な音色を院内で奏でる中、隼人も任された時間で観客の心をしっかり掴んだ。

演奏が終わると、隼人は由佳と一緒に若菜のもとにやってきた。

「久しぶりだな、若菜!この間は由佳が相当悪酔いしていたらしいな。」

「ちょ…もう、隼人ったら!」

隼人が冷やかすと、由佳は恥ずかしそうに顔を真っ赤にして軽く隼人の胸を叩いた。

そこへ、このコンサートの責任者であった和輝が現れた。隼人は今回のコンサートに招待してくれた和輝にお礼をした。和輝はコンサートの感想を伝えた。

「ありがとう、患者さんたちも楽しめて、良いコンサートになったよ!」
和輝がそう言うと、由佳が付け加えるように隼人に話しかけた。

「かなり多くの人が足を止めてくれたもんね!来週のオーディション前に良い手応えが掴めたんじゃない?」

「え、来週のオーディションって?」

若菜が尋ねると、由佳が詳細を話し始めた。

「隼人、今度の土曜日に大手レーベルの最終選考があるんだ。それを通過したら、めでたくメジャーデビュー出来るかもってわけ!」

由佳が話し終えると、隼人がオーディションの意気込みを口にした。

「もっと多くの人にジャズの良さを知ってもらいたいからな。それまでに、少しでも良い演奏が出来るように頑張らないとな!」

そんな隼人を、若菜と和輝が激励した。その日は、それで解散となった。

土曜日、由佳は職場の先輩と会っていた。去年の秋から育児休暇を取得し、子育てに奮闘していた。由佳が子育てのことを聞くと、毎日が闘いだけど、色々な発見もあって自分自身も成長出来るよと話した。先輩も、由佳がこの前に話したことを思い出し、話を振った。

「そういえば、隼人君、今日オーディションが最終選考だったよね。これを通れば、両親からも同居が認められるんだから、頑張ってもらいたいわね、由佳。」

その頃、隼人は3千組の中からここまでくぐり抜けてきた7組うち、最後の選考となっていた。選考は希望調査を行った後、実演を個別審査することになっていた。

自分の番が回ってくると、隼人はカバーとオリジナルを1曲ずつスカウトの前で演奏した。演奏中、これまでにない良い感触を隼人は実感することが出来た。

演奏が終わると、スカウト陣の一人から演奏を称える言葉をかけられた。

「素晴らしい!長時間審査をしてきて『飽き』が来ていた私どもの目を醒してくれる見事な演奏だ!」

スカウトからも高い評価を受け、順調な流れであった。スカウト陣が一通り感想を伝えた後、一人が尋ねた。

「ところで、君はポップスには関心はないかね?」

「いえ、あくまでもジャズギタリストとして勝負していきたいと希望しています!」

質問に対して、隼人はキッパリと断言した。ジャズで一流になることが由佳との、そして、自分自身との誓いだからだ。すると、先ほどまでの明るい雰囲気が変わり始めた。そして、質問したスカウトが口惜しそうに話し出した。

「そうか…。君が素晴らしい実力を持っていることは、ここにいる誰もが認めるだろう。そして、私たちももちろん、良い音楽を聴きたい。しかし、良い音楽と売れる音楽はまた別物だ。営利企業として、我々は売れる音楽を市場に提供しなければならない。ジャズは認知度が低く、商品としてはリスクが高すぎるのだよ。」

スカウトからのその言葉が何を意味しているのか、隼人は理解していた。突きつけられた現実に、悔しさを覚えながらも、一人の力ではどうにもならない無力さに隼人はかられた。

「売れる音楽か…」

そうぼやいて隼人は駅に向かっていた。また最初からやり直しだな…。そんなことを考えていた時、改札口前に由佳が待っていた。先輩とは近くで会っていて、そろそろオーディションが終わるんじゃないかと思い、ここまで来たということだ。
その頃、有沙は部屋でネットショッピングを楽しんでいた。人気作家の新刊を購入し、次は映画のDVDを購入しようとした時であった。有沙の携帯が鳴り出した。

呼び出し主を確かめると、それは『今、最も会いたくない男』からであった。しばらく放置すれば諦めるだろうと、居留守であしらおうとした。しかし、その後も10分おきくらいに、電話は鳴り続けた。

そして、7回目の呼び出し音が鳴り出した。有沙は深いため息を一度つくと、荒々しく携帯を手に取った。

「もしもし、もう連絡しないでって言ったでしょう!」

それだけ言って、電話を切ろうとした時であった。太一から必死の声が耳に入ってきた。

「大変なんだ、クローバーの様子がおかしいんだ!」

太一のその言葉に、有沙は驚いた。クローバーの容態が悪くなっていることもそうであったが、太一があれからもクローバーの世話をみていることが、有沙にとって意外な事実であった。

「夕方までは元気だったのに、今は部屋でうずくまったままで…。ネットで調べても、今から受け付けているところなんて、駅前には見つからないし…。」

初めは半信半疑だった有沙だが、太一の切羽詰まった口調から、次第に疑いは薄らいでいった。

「なぁ、頼むよ有沙ちゃん。今の俺には…有沙ちゃんしか頼りになる人がいないんだよ!」

太一の真剣な訴えに、有沙の心が動かされた。夜間にも受け付けている知り合いの動物病院を教えると、自らもそこへ向かった。

吹雪いてきた中、有沙が病院前に着くと、ちょうど目の前に、クローバーを抱き抱えて病院を探してさまよっている太一が飛び込んできた。

「太一君、こっち!」

有沙からの呼びかけに、太一は慣れない雪道を踏み分けていった。途中で転んだらしく、左頬から血が出ていた。それでも、クローバーに外傷は何もなかった。

「クローバー!太一君も…血が出ているじゃない…」

「それより、早く獣医さんを!」

「うん、分かったわ。」

紹介されたのは、有沙の友人が勤めている動物病院であった。クローバーを預けると、待ち合い室で有沙が太一の傷の手当てをした。

「ありがとう…。ごめん、君から預かっている大切な家族なのに…。」

太一は申し訳なさそうに有沙に話した。

「ううん、気にしないで。東京では元気だったのに、こっちで体調崩すなんて思わないもんね…。私は、太一君がクローバーのことを全力で大事にしてくれている優しさが、嬉しかったよ。」

一呼吸置くと、有沙は続けて、その胸の内を話した。

「太一君と出かけていた時、楽しかったには楽しかったけど、何となく、お手本通りな印象があったんだ。だから、本当に私のことを見てくれているのか、ずっと不安だった。誕生日を忘れられたのも、どうせ私のことなんて代わりがいる『彼女』という役の一人としか見ていなかったんだって思った。でも、そんなことなかったんだね。ごめんね、困らせて。」

有沙の言葉に、太一は今まで見ることが出来なかった世界が開いたような気がした。

「笑わないで…くれよ…。」

そう前置きすると、今までの自分の世界と決別するため、太一は『初めて』自分自身のことを有沙に話し始めた。

「有沙ちゃんが言っていたこと、大体当たっているんだ。俺、小学校から就職するまでは受験勉強しかしていなくて、高校までずっと男子校だった。だから、恋愛のこととか全く分からなくて、とにかくハウツー本の通りにすれば何とか『正解』に辿り着けるんじゃないかと思っていた。何度も同じ失敗をして、それでも、それしか無くて…。今思えば、バカだよな、ホント…。」

自嘲する太一に、有沙が寄り添うように確かめてきた。

「でも、変われるよね…私たちのために。」

有沙のその言葉に、太一も自然に言葉が出た。

「あぁ、変われるよ、きっと。約束する。」

「それじゃ、約束」

小指に想いを込め、2人は新しい1歩を踏み出した。

それから間もなく、診察室から担当の獣医師である絵理奈が出てきた。

「先生、クローバーは!?」

「クローバーの容態は大丈夫なの?」

絵理奈は硬い表情のままマスクを外した。それが2人の不安に拍車をかけた。

「大丈夫、少し風邪をこじらせただけみたいだよ。肺炎の疑いもあったけど、その心配も無いですし、2~3日のうちに退院できるよ。」

診察の緊張から解放された絵理奈が笑顔で結果を伝えた。

「良かった…無事で…ホント良かった…!」

クローバーが無事であったことにほっとし、太一と有沙はどちらともなく微笑んだ。長かったその夜に見た有沙の笑顔は、太一にとって忘れられない記憶となった。

クリスマス当日、若菜が病院の飾りつけの買出しに外出していると、女子高生たちと気さくに話している、散歩中の太一を見つけた。若菜に気づいた太一はクローバーを連れ、手を振って近づいてきた。

「お久しぶりです、先生!」

「こんにちは、広尾さん。あれから上手くいっていますか?」

「ええ、これから彼女とデートで、さっきまでクリスマスプレゼント探していたんですよ。最近ランニング始めたって言うので、前に欲しいって言ってたウェアを買ってきました。」

これまでのように気後れすることなく、太一は自信を持って若菜とコミュニケーションを図っていた。

「あの時の先生のアドバイスおかげで、クローバーと出会えて、今までの自分から変わることができました。あれは、クローバーと向き合ったように、彼女にも真正面から向き合えっていう意味だったんですね。今なら、その意味も理解できます。本当に、先生には感謝しています。あ、そろそろ電車の時間なのでこれで。」

駅の方向に歩き始めた太一を、若菜は少しだけ見送った。太一の成長を若菜は心から嬉しく思った。ちょっとした後押しがきっかけで、相手が大きく前に進むことができる、その瞬間に関われたことを、若菜は少し早いクリスマスプレゼントのように思えた。


その頃、有沙もまた以前の日常に戻っていた。ある夜、一人暮らしをしている姉の麻衣から電話がきた。

「そういえば、最近は例の彼とは会っているの?」

有沙の誕生日に合わせて、きっとどこかに行っただろう。そう見込んでいた麻衣にとって、有沙からの返事は意外なものであった。

「ううん、最近は全く連絡取ってないの。」

そう答えると、まるで後からふつふつと沸いてきたような太一への不満を、何でも相談できる姉に思い切りぶつ出した。

「だって聞いてくれない?私はアイツの誕生日を祝ってあげたのに、アイツは私の誕生日に何もしてくれなかったんだよ!少しは私に気があるのかなって期待させといて、信じられない!」

太一への怒りを一気に吐き出すと、その刹那、一度だけ行ったことのある太一の部屋のことを思い出した。太一の部屋には、以前に彼女がいたような形跡が一切なかった。テーマパークでのお土産といったものはともかく、クローバーのことが気がかりになった。しかし、今更こっちから連絡するなんて…。

「どうしたの、有沙。何か気になることでもあるの?」

「あ、ううん、何でもないよ!」

そう取り繕うと、また別の話題に移っていった。

クリスマスも目前に迫ったある日、太一はクローバーを連れて、甲府出張に出かけていた。両親が海外旅行で自宅を離れていたため、クローバーを残していくわけにいかなかったからだ。皮肉にも、出張先の甲府は、有沙が住んでいる街であった。有沙とあの日以来連絡が取れない辛さと、クローバーを会わせられない寂しさを抱えつつ、業務そのものは順調にこなしていった。

土曜日、甲府では雪が積もり、初めて見る雪景色にクローバーは興奮していた。特に用事もなかった太一は、クローバーを連れて散歩に出かけることにした。

雪はそれほど降ってはいなかったが、外は思いのほか寒かった。途中のコンビニで肉まんとホットミルクティーを買い、クローバーにも少し分けて食べさせた。

適当な広場に着くと、先ほどのペットボトルを使ってクローバーと遊び始めた。クローバーは投げられたボールを取りに行くのが大好きであった。ボールがないので、ペットボトルを代用して遊ぶことにしたのである。太一がペットボトルを投げると、クローバーはいつものように勢いよく飛びついた。

『雪はもう降っていないとはいえ、この寒さなのに、クローバーは元気だなぁ。』

しかし、次第にクローバーの様子が変わってきた。ペットボトルを投げても鈍い反応しか示さなくなってきたのだ。そして、ペットボトルのそばでうずくまると、とうとうそこから動かなくなってしまった。

明らかに様子がおかしいクローバーのもとにかけよると、クローバーが体を震わせているようにも見えた。

「どうした、疲れたのかな?…もしかしたら、風邪でも引いたのか?」 

話しかける太一にも、クローバーは動きをほとんど示さなかった。

心配した太一は、ペットボトルを公園のごみ箱に捨てると、クローバーを連れて急いで宿に戻った。

太一の期待とは裏腹に、宿に戻ってからも、クローバーの様子は回復に向かっている気配はなかった。そのため、クローバーを動物病院へ連れて行こうと太一は考えた。しかし、1つ問題があった。

「俺、この時間に開いている甲府の動物病院知らないよ…。」

この問題を解決するために、真っ先に思い浮かんだのは、有沙を頼ることであった。しかし、それは太一にはできなかった。

『怒っている彼女と仲直りするためには、相手が静まるまで待つべし』

と、愛読の恋愛指南書にあったからである。そこで、まずは合コン仲間の慎吾と雅昭に連絡を取ってみることにした。ペットも飼っている物知り博士の2人なら、何か情報を持っているだろうと太一見込んでいた。

ところが、何度電話を掛けても、2人とも連絡がつかなかった。それもそのはずであった。慎吾は別の合コンですでに相当酔っており、雅昭は携帯を忘れてジムに出かけていたのである。

太一は2人に連絡を取るのを諦め、携帯サイトから情報を集め始めた。しかし、見つかるのは今日は開いていないところや、同じ甲府市内でも、現在地からかなり離れたところにあるところばかりであった。

情報収集に必死になっていたところに、クローバーの様子が再び目に入ってきた。時計を見ると、あれから相当に時間が経過していた。だが、クローバーは相変わらず小刻みに体を震わせており、むしろ悪化しているのではないかと太一には思えた。

有沙の電話番号を開いた携帯を片手に、太一は判断に迷った。

『これ以上は自力で調べても、いたずらに時間が過ぎていくだけだ。しかし、今の状況で有沙ちゃんに連絡を取るわけには…。』

クローバーの様子と指南書の文章が、太一の頭の中をリピートしていった。フラッシュのように両者は繰り返し、太一は決断した。

「ええい、クローバーも守れないような男が、有沙ちゃんに会う資格なんてないだろうが!」

腹をくくった太一は、有沙の携帯番号を発信した。

付き合い始めてから3ヶ月経った頃、太一は有沙とのデートを今週末に控えていた。今週の水曜日に和歌山で研修出張があって慌ただしけど、ここさえ乗りきれば…。週末の楽しみに胸を踊らせながら、何か肝心なことを忘れている気がしつつ、飛び交う業者との電話対応に追われていた。

午後になり、デスクで仮眠を取っていた太一のもとに課長が近づいてきた。

「広尾君、ちょっといいかな?明後日の研修に関してなんだが…。」

課長の表情からして、何やらよろしくない内容らしいということを太一は察した。課長は太一に事情を一部始終話した

「先ほど主催の都から連絡を受けたんだが…どうも日程が土曜日に変更になるそうなんだ。何でも、講師の先生が他には予定がつかないらしくてな…。」

更に詳しく事情を尋ねると、研修で招かれた講師に、同じく水曜日に開かれる環境国際会議に関連する依頼が、急遽、体調を崩した師匠の代わりとして舞い込んだためとのことであった。納得いかなかったものの、どうしようもないことと割りきった。太一は携帯を手に取ると、有沙にメールで連絡を入れた。

『今度の土曜日なんだけど、仕事で会えなくなっちゃったよ、ごめんね…。また今度の土曜日に会おうよ!』

終業後、携帯を開き、いつものように有沙から連絡が来ていないか確認した。すると、いつもならばすぐに返信をくれるにもかかわらず、まだ返信メールが来ていなかった。何かまずい内容でもあったのかなと送ったメールの内容を確認してみた。しかし、これといって思い当たることが見つからなかった。翌日も、そのまた翌日も、有沙からの連絡はないまま、太一は研修当日を迎えてしまった。研修中、基本的には集中していたものの、ふとしたすき間の時間に考えるのは有沙のことばかりであった。

研修終了後、受講者同士で杯を酌み交わした。翌日が休みということもあり、夜遅くまで研修仲間との話が弾んだ。太一もアルコールが入り、有沙との現実をしばし忘れることができた。宿に戻ると、どっと押し寄せてきた疲れから、ベッドに倒れ込むように眠りに落ちた。

翌日、チェックアウトを済ました太一は、神戸に住む友人夫妻を訪ねた。

慎吾は小学校からの旧友であり、今は製薬会社で研究者として勤務していた。また、奥さんの楓は太一のいとこであり、3人はよく一緒に遊んだものであった。久々にあった2人は変わらず元気そうであった。

午後、太一はお土産にユーハイムのバウムクーヘンを買いに向かった。すると、偶然通りかかったラジオ局の前で、新人アイドルと思われる3人組がファンの前で公開収録をしていた。トークの内容が、彼女たちが飼っているペットについてであり、太一も輪の中に入っていった。

「うちのハムスターは世界一かわいいの!」

「最近、インコが私の名前を呼んでくれるようになったんだ~。」

そんなアイドルたちのトークを聴き、太一は改めて若菜のアドバイスの的確さに感心した。

収録もそろそろ終了になると思われたその時、司会の男性が切り出した。

「えー、そろそろエンディングに近づいてまいりました。さて、ここ神戸は江戸の開国から西洋との貿易があり、洋菓子が大変美味しい街ですね。そこで今回、2人が総力を挙げて、リーダーのためにとっておきの洋菓子を探して参りました。」

そう言うと、スタジオの扉から、別のスタッフが中に入ってきた。持ち込んだ台車にはデコレーションを施したショートケーキが載せられていた。

「せーの、リーダー、誕生日おめでとう!」

メンバーの掛け声を合図に、会場全体にファンから祝福の声が響いた。最初、太一は何となくその光景を見ていた。しかし、次第に忘れかけていたもやのような感覚が頭の中で渦巻き、輪郭を現し始めた。そして、太一にもそれがはっきりと見えた瞬間、半ばパニックに似た感情を抱く状況に陥った。

先月会った時に、二人は太一の誕生日をお祝いした。そして帰り際に、有沙が不安そうな視線を送りながら太一にお願いをしていた。

「来月の私の誕生日、一緒に祝ってね…。」

運命は皮肉にも、あのメールをその日に太一に送らせたのである。

今までの恋愛歴の中で、最低のミスを犯してしまったことにようやく気づいた太一は、すぐさま有沙に5日遅れのフォローのメールを送った。

『忘れてて本当にゴメン…有沙ちゃん、誕生日おめでとう!』

そして、神戸のロフトで、有沙が前に欲しがっていたリラッくまのお弁当セットをプレゼントに購入した。

夜10時、太一の自宅に戻り、近くの居酒屋に呑みに向かっていた。そろそろ行きつけの立ち飲み屋に着こうとした時、携帯の着信音が鳴った。携帯を開くと、5日ぶりの有沙からのメールが届いていた。

久々の有沙からのメールに、太一は思わず笑顔になった。フォローのメールが上手くいったのだと。しかし、メールを開いてまもなく、笑顔は消え、絶望の淵に落とされることとなった。

『もう…連絡しないで…』

何度こうしてチャンスを逃したか…。頭の中は後悔と無力感が堂々巡りしていた。太一の涙も悲しみの叫びも、2人の恋心とともに、降りしきる雨によってかき消された。


翌日、振替休日であった太一は、部屋の片付けをしていた。愛用の指南書に、こう書いてあるからだ。

『失敗は次への糧、リセットして再スタートを!』

本当ならば有沙との楽しいデートを予定していた太一は、その報わない感情を押し込めるかのように身の回りを整理していった。

「あの雑誌も、このグッズも…」

太一は有沙との思い出のものを次々と倉庫にしまっていった。せっかくのチャンスに自分は何をやっていたんだ…。そんな不甲斐なさを太一はもて余していた。

夜、クローバーを散歩に連れていった。もう片方の手には段ボールが、リュックには水やドッグフードが入っていた。

自宅から少し離れた位置にある公園まで連れていくと、太一は入口から少し入った木にクローバーをつないだ。段ボールの中へ水やドッグフード、そしてクローバーを入れると、クローバーに告げた。

「ゴメンな、もうこれ以上は一緒にはいられない。新しい家で元気にやってくれよ。」

それだけクローバーに言うと、そのまま太一は公園を後にした。

明日からはこれまでと同じ、出会いを求める日常に戻っていくのか…。いつまでも引きずっていないで、新しい可能性に賭けていかなくては…。

街灯かちかちかする通りを1人寂しく歩き、そう思っていた時であった、自分と同じくらいの歳のカップルがそばを横切っていった。互いに片方の手でお互いの手を、もう片方の手で愛犬を連れて深夜デートを楽しんでいた。

そして、その光景を見た太一に、『ある言葉』が蘇ってきた。それは、若菜が太一に教えた『ペットを飼えば、女の子にもモテやすくなりますよ』というアドバイスであった。

振り返ってみれば、確かによくクローバーを口実に有沙と会うことができていた。あれだけ1人の女性と頻繁に会えたのは、相当に久しぶりであった。また、話題がなくなってきた時にも、クローバーを中心としたペットの話題にしばしば助けられたていた。

「何も…自分の『強み』を放棄する必要はないんじゃないか…?」

思い直した太一は、クローバーを置いてきた公園に戻ってみることにした。もうすでに誰かに引き取られていたとしても、それはそれで仕方ないと思っていた。戻ってみると、クローバーはまるで何事もなく太一の帰りを待っているかのようであった。

太一はしゃがみこみ、淡々とクローバーの頭をなでた。 そして、どこか吹っ切れたようにクローバーにつぶやいた。

「よし、帰ろうか。」

後始末を済ませ、クローバーを木から外すと、太一も何事もなかったかのようにクローバーを連れて家路についた。

それからの太一の生活は、基本的にはクローバーを散歩に連れていき、週末は合コンで相手を探すという、いつもの通りのものであった。しかし、楽しめてはいたものの、少しでも気になった相手に対して猛アピールしていたこれまでと違い、メール交換くらいで発展を起こそうとできず、何故か今までのように熱を入れることができずにいた。


人肌恋しい秋、若菜は相変わらず彼氏ができないままでいた。大学時代の友人に誘われて合コンに行ったりもするのだが、職業を聞かれて「女医」と取り違えられ、男性が引き下がってしまうのであった。

そんな若菜のもとに、同じような願望を持った男性が相談に訪れた。広尾太一は地元の大学を出て、地元の市役所に勤務しているとのことであった。

プロフィールを確認すると、さっそく若菜は相談内容を尋ねた。すると、手に持っていたかばんに詰め込めるだけ詰めてきた恋愛に関してのハウツー本を広げた。そして、単刀直入に若菜に
尋ねた。

「これらの本や雑誌の中で、彼女を作るのに今一番参考になるものは何ですか?」

今までには無い相談に若菜は拍子抜けした。ここへ訪ねて来る人は、冷やかしを除けば「今の恋愛が上手く行かない」「好きな人に思い切ってアプローチができない」といった内容だった。冷やかしとは思えないものの、意図がいまいち掴みとれない若菜は、一呼吸おき、太一に尋ねた。

「あの…どういったことを知りたいのかもっと詳しく聞かせてもらえないでしょうか?例えば、デートに誘いたいとか、揚がっちゃう性格を直したいとか…。」

すると、太一は笑顔かつ真顔で驚きの依頼を頼み込んだ。

「とりあえずは一通り全部です。今度の土曜日に合コンがありまして、そこで何とかして彼女が欲しいんです!」

一通り全部か…。まぁ、女性へのアプローチを基礎から教えようと考えた若菜は「話をよく聞いてくれると女性からのポイントが上がる」といった内容の本を勧めた。もちろん、それだけでは足りないのだが、その辺はその場の雰囲気で対応するようにと若菜は伝えた。太一は一礼し、その日はそれで終わりとなった。

2週間後、若菜の診察室に再びバッグに大量のハウツー本を詰め込んだ太一が訪ねてきた。今度はただ相手の話を聞くだけの展開になってしまい、そこからの発展がないのでまた参考になるものを教えてほしいという依頼であった。

半分呆れつつも、今回は目的がはっきりしていたので、持ってきていた本の中から最新の会話術を若菜はいくつか取り上げ、太一にレクチャーした。そして、念を押して帰り際に太一にアドバイスした。

「大事なのは変化に対応できることですよ、頑張ってくださいね。」

合コンとかでかなり頻繁に女性にアタックしている人らしいし、ここまで教えておけばもう大丈夫だろう…。ちょっと特殊なケースだったなとは思いつつ、それ以上若菜は気にせずにいた。

しかし、若菜の読みは甘かった。1ヶ月後、太一がまた訪ねてきたのだ。そして、何があったのか尋ねると、前回同様の展開が待っていた。

「先生からのレクチャーの後、このバッグ3つ分くらいの関連マニュアルに目を通したのですが、何か上手く行かないんですよねー。2人きりですと会話が続かなくなってしまうんですよ。このハウツー本の他に、何か良いものを紹介してもらえません?」


若菜は呆れてその場で深いため息をつきたくなった。テクニックに頼りすぎているこの人は、木を見て森を見ていないようだ…。そんな本音を考え込む素振りで隠した。

そうは言ってもこの現状は何とかして打開しなければならない。目の前の現実に向き合い、若干の荒治療になりそうだと思いつつ、若菜は太一に1つの提案をした。

「そうですね…、ハウツー本ではないのですが、何かペットでも飼われたらどうでしょうか?女の子から譲り受ける形で。それならば、少なくともそれが共通点で話も盛り上がりそうですし、ペット飼っていることだけでも、女の子からのポイントも高くなりますよ!」

求めていたアドバイスというわけではなく、太一はやや戸惑った。しかし、若菜の『恋愛相談医』という肩書きから、恋愛のプロからのアドバイスということで太一は納得することにした。

夕方、ミーティングルームに戻ってきた若菜に和輝が話しかけてきた。

「今度の男性相談者、中々苦戦しているみたいだな。」

和輝からの問いかけに、若菜はため息をつくように答えた。

「そうなんですよ、変化に対応できていないのがほぼ間違いなく彼女を作れない原因だと考えられるんです。ペットを飼いだせば、その辺もある程度は克服できるんじゃないかなと思うんですけどね。」

そう、若菜の狙いはそこにあった。ペットは生き物だ、ゲームやロボットなどの機械と違い、時には想定外の行動もする。マニュアルだけでは対応しきれないはず、そこで1つ殻を破ることができれば…。あまり期待はできなかったものの、何も手を打たないよりは良いかな、そう考えながら若菜は別件の業務に取り掛かり始めた。

翌週の土曜日、太一は職場の同僚3人と合コンをしていた。相手は同僚の史弘(茨城満載の人)がフットサルサークルで知り合った人たちである。

「先日のワールドカップは接戦ですごく興奮した!」

「今年のフットサル大会は柏であるから、去年の茨城よりは移動が楽だね。」

そんな他愛ない会話が飛び交っていた。スポーツはもっぱら野球ばかりでサッカーにほとんど興味ない太一も、この日に備えて知識を詰め込んできており、そこそこは会話に加われた。

やがて、ラストオーダーが近づき、そろそろお開きになりそうな時であった。

「そういえば、姉さんのアパートで1ヶ月前に子犬が産まれたの。でも、数が多すぎて何匹か譲りたいらしいんだ。史弘たちの知り合いに、誰か引き受けてくれそうな人いないかな?」
目をつけていたポニーテールの女の子がそう尋ねると、太一がすかさず反応した。

「いいよ、俺で良ければ引き受けるよ。」

「お前がか?なんからしくねえなぁ、オイ。」

冷やかす連れに、太一は場を盛り上げるように答えた。

「心配ないって。俺んち、昔、犬飼っていたから大船に乗った気持ちで任せてくれよ!」

「その大船って、名前は『タイタニック』かい?」

「トロイの木馬で、昔取った杵柄だから、ボロさの玉手箱やー。」

「って、船じゃないやないかーい」

太一は小さな頃、一度だけ犬を飼っていた。もっとも、実際には両親が太一の産まれる前から飼っていたのであり、物心つく頃にはそこにいたというのが正確な状況であったが。

合コンから3日後、有沙から一匹のを引き受けた。名前は彼女の好きな『クローバー』に決まった。太一がいくつかの候補を用意し、有沙たちに決めてもらった。それからというもの、太一は有沙としばしば落ち合っていた。会話も困った時にはクローバーの話にすることで繋げていけた。