付き合い始めてから3ヶ月経った頃、太一は有沙とのデートを今週末に控えていた。今週の水曜日に和歌山で研修出張があって慌ただしけど、ここさえ乗りきれば…。週末の楽しみに胸を踊らせながら、何か肝心なことを忘れている気がしつつ、飛び交う業者との電話対応に追われていた。

午後になり、デスクで仮眠を取っていた太一のもとに課長が近づいてきた。

「広尾君、ちょっといいかな?明後日の研修に関してなんだが…。」

課長の表情からして、何やらよろしくない内容らしいということを太一は察した。課長は太一に事情を一部始終話した

「先ほど主催の都から連絡を受けたんだが…どうも日程が土曜日に変更になるそうなんだ。何でも、講師の先生が他には予定がつかないらしくてな…。」

更に詳しく事情を尋ねると、研修で招かれた講師に、同じく水曜日に開かれる環境国際会議に関連する依頼が、急遽、体調を崩した師匠の代わりとして舞い込んだためとのことであった。納得いかなかったものの、どうしようもないことと割りきった。太一は携帯を手に取ると、有沙にメールで連絡を入れた。

『今度の土曜日なんだけど、仕事で会えなくなっちゃったよ、ごめんね…。また今度の土曜日に会おうよ!』

終業後、携帯を開き、いつものように有沙から連絡が来ていないか確認した。すると、いつもならばすぐに返信をくれるにもかかわらず、まだ返信メールが来ていなかった。何かまずい内容でもあったのかなと送ったメールの内容を確認してみた。しかし、これといって思い当たることが見つからなかった。翌日も、そのまた翌日も、有沙からの連絡はないまま、太一は研修当日を迎えてしまった。研修中、基本的には集中していたものの、ふとしたすき間の時間に考えるのは有沙のことばかりであった。

研修終了後、受講者同士で杯を酌み交わした。翌日が休みということもあり、夜遅くまで研修仲間との話が弾んだ。太一もアルコールが入り、有沙との現実をしばし忘れることができた。宿に戻ると、どっと押し寄せてきた疲れから、ベッドに倒れ込むように眠りに落ちた。

翌日、チェックアウトを済ました太一は、神戸に住む友人夫妻を訪ねた。

慎吾は小学校からの旧友であり、今は製薬会社で研究者として勤務していた。また、奥さんの楓は太一のいとこであり、3人はよく一緒に遊んだものであった。久々にあった2人は変わらず元気そうであった。

午後、太一はお土産にユーハイムのバウムクーヘンを買いに向かった。すると、偶然通りかかったラジオ局の前で、新人アイドルと思われる3人組がファンの前で公開収録をしていた。トークの内容が、彼女たちが飼っているペットについてであり、太一も輪の中に入っていった。

「うちのハムスターは世界一かわいいの!」

「最近、インコが私の名前を呼んでくれるようになったんだ~。」

そんなアイドルたちのトークを聴き、太一は改めて若菜のアドバイスの的確さに感心した。

収録もそろそろ終了になると思われたその時、司会の男性が切り出した。

「えー、そろそろエンディングに近づいてまいりました。さて、ここ神戸は江戸の開国から西洋との貿易があり、洋菓子が大変美味しい街ですね。そこで今回、2人が総力を挙げて、リーダーのためにとっておきの洋菓子を探して参りました。」

そう言うと、スタジオの扉から、別のスタッフが中に入ってきた。持ち込んだ台車にはデコレーションを施したショートケーキが載せられていた。

「せーの、リーダー、誕生日おめでとう!」

メンバーの掛け声を合図に、会場全体にファンから祝福の声が響いた。最初、太一は何となくその光景を見ていた。しかし、次第に忘れかけていたもやのような感覚が頭の中で渦巻き、輪郭を現し始めた。そして、太一にもそれがはっきりと見えた瞬間、半ばパニックに似た感情を抱く状況に陥った。

先月会った時に、二人は太一の誕生日をお祝いした。そして帰り際に、有沙が不安そうな視線を送りながら太一にお願いをしていた。

「来月の私の誕生日、一緒に祝ってね…。」

運命は皮肉にも、あのメールをその日に太一に送らせたのである。

今までの恋愛歴の中で、最低のミスを犯してしまったことにようやく気づいた太一は、すぐさま有沙に5日遅れのフォローのメールを送った。

『忘れてて本当にゴメン…有沙ちゃん、誕生日おめでとう!』

そして、神戸のロフトで、有沙が前に欲しがっていたリラッくまのお弁当セットをプレゼントに購入した。

夜10時、太一の自宅に戻り、近くの居酒屋に呑みに向かっていた。そろそろ行きつけの立ち飲み屋に着こうとした時、携帯の着信音が鳴った。携帯を開くと、5日ぶりの有沙からのメールが届いていた。

久々の有沙からのメールに、太一は思わず笑顔になった。フォローのメールが上手くいったのだと。しかし、メールを開いてまもなく、笑顔は消え、絶望の淵に落とされることとなった。

『もう…連絡しないで…』

何度こうしてチャンスを逃したか…。頭の中は後悔と無力感が堂々巡りしていた。太一の涙も悲しみの叫びも、2人の恋心とともに、降りしきる雨によってかき消された。


翌日、振替休日であった太一は、部屋の片付けをしていた。愛用の指南書に、こう書いてあるからだ。

『失敗は次への糧、リセットして再スタートを!』

本当ならば有沙との楽しいデートを予定していた太一は、その報わない感情を押し込めるかのように身の回りを整理していった。

「あの雑誌も、このグッズも…」

太一は有沙との思い出のものを次々と倉庫にしまっていった。せっかくのチャンスに自分は何をやっていたんだ…。そんな不甲斐なさを太一はもて余していた。

夜、クローバーを散歩に連れていった。もう片方の手には段ボールが、リュックには水やドッグフードが入っていた。

自宅から少し離れた位置にある公園まで連れていくと、太一は入口から少し入った木にクローバーをつないだ。段ボールの中へ水やドッグフード、そしてクローバーを入れると、クローバーに告げた。

「ゴメンな、もうこれ以上は一緒にはいられない。新しい家で元気にやってくれよ。」

それだけクローバーに言うと、そのまま太一は公園を後にした。

明日からはこれまでと同じ、出会いを求める日常に戻っていくのか…。いつまでも引きずっていないで、新しい可能性に賭けていかなくては…。

街灯かちかちかする通りを1人寂しく歩き、そう思っていた時であった、自分と同じくらいの歳のカップルがそばを横切っていった。互いに片方の手でお互いの手を、もう片方の手で愛犬を連れて深夜デートを楽しんでいた。

そして、その光景を見た太一に、『ある言葉』が蘇ってきた。それは、若菜が太一に教えた『ペットを飼えば、女の子にもモテやすくなりますよ』というアドバイスであった。

振り返ってみれば、確かによくクローバーを口実に有沙と会うことができていた。あれだけ1人の女性と頻繁に会えたのは、相当に久しぶりであった。また、話題がなくなってきた時にも、クローバーを中心としたペットの話題にしばしば助けられたていた。

「何も…自分の『強み』を放棄する必要はないんじゃないか…?」

思い直した太一は、クローバーを置いてきた公園に戻ってみることにした。もうすでに誰かに引き取られていたとしても、それはそれで仕方ないと思っていた。戻ってみると、クローバーはまるで何事もなく太一の帰りを待っているかのようであった。

太一はしゃがみこみ、淡々とクローバーの頭をなでた。 そして、どこか吹っ切れたようにクローバーにつぶやいた。

「よし、帰ろうか。」

後始末を済ませ、クローバーを木から外すと、太一も何事もなかったかのようにクローバーを連れて家路についた。

それからの太一の生活は、基本的にはクローバーを散歩に連れていき、週末は合コンで相手を探すという、いつもの通りのものであった。しかし、楽しめてはいたものの、少しでも気になった相手に対して猛アピールしていたこれまでと違い、メール交換くらいで発展を起こそうとできず、何故か今までのように熱を入れることができずにいた。