自殺者12年連続3万人超

6月11日14時23分配信 医療介護CBニュース

 内閣府は6月11日、2010年版「自殺対策白書」を発表した。
それによると、昨年の自殺者は3万2845人で、12年連続で3万人を超えた

 白書では、宮崎県のインターネットを活用した相談事業など、地域の先進事例16件を紹介。
また、自殺死亡率を減少させた「自殺対策の先進国」としてフィンランドを紹介している。

 白書は07年から発表しており、今回が4回目。
政府は今年2月の自殺総合対策会議で
「いのちを守る自殺対策緊急プラン」を策定し、
国および地方による積極的な施策が必要としている。

 政府はこれまで、例えば自殺の原因・動機で最も多い「健康問題」について、
「かかりつけ医のうつ病対応力向上研修」などを実施してきた。
ただ、現在の自殺をめぐる厳しい状況を踏まえ、
緊急プランでは新たに
「うつ病の診療技術の向上」
「精神科医と救急医の連携強化」などを打ち出している。

 また介護では、地域包括支援センターを中心とした相談体制の確立が必要とし、
ケアマネジャーなど介護サービスの従事者の研修などを通じ、
高齢者の自殺予防に関する知識の普及を図ってきた。

 今後は緊急プランに基づく各府省の取り組みを強化する一方で、
自殺関連のデータの蓄積と分析を進めながら地域ごとの対策を推進。
12年に政府の自殺対策の指針である「自殺総合対策大綱」を見直すことを視野に、
国の対策の効果についても検証する。


~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ 


自殺原因の概要を見ると、

「健康問題」    48.3%で最も多く、以下は

「経済・生活問題」 25.5%、

「家庭問題」     12.5%、

「勤務問題」     7.7%、

「男女問題」     3.4%の順。


「家庭問題」のうち、「介護・看病疲れ」による自殺者は6.9%だった。


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悲しいことですが、なかなか改善しないですね。



以前、書いたのを自分でも再度見返してみました。


医学界新聞 ~ 多くの自殺者が医師の前を通り過ぎている




医療の分野でも、出来ることはまだあると信じて、

出来る限りの対策をしてもらいたいと思います。







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6月11日付 編集手帳

正の10を、10個集めると100になる。

負の10同士を掛けても100になる。


〈答えは同じでも、正を積み重ねた100には陰翳がない〉。


異端の技法をも大胆に用いて“負数の王”と呼ばれた歌人、

故・塚本邦雄氏の言葉である


◆悔いの種をまき散らしながら、人は生きていく。

 まれに正数積み重ねたような、

 挫折を知らぬ人に接したときに薄っぺらな印象を受けるのは、

 陰翳が欠けているからだろう。

 悔恨あっての、負数あっての人生である


◆川崎市で中学3年生の男子生徒(14)が自殺した。

 いじめられた友人を救えなかったことを悔やむ遺書があったという


◆詳しいことはまだ分かっていないが、

 友をいたわって自身を責(め苛んだとすれば

 気持ちのやさしい、正義感の強い少年であったろう。

 生きて欲しかった


◆「日本一短い手紙」の秀作集から引く。


〈あのとき

 飛び降りようと思ったビルの屋上に

 今日は夕陽を見に上がる〉

                     (中央経済社刊)。


心の傷口から血の噴き出す経験をした人だけが、眺めることができる。


負の陰翳を身に刻んだ人の目にだけ映る。


そういう美しい夕陽が、きっとあるものを。



2010年6月11日02時07分 読売新聞)



馬上少年過ぐ (新潮文庫)/司馬 遼太郎
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この男(河井継之助)の学問観は、

学問とは自分の行動の力になるものでなければならない

というものであった。


あるとき、股に大きな腫物を作って、身動きするのも苦痛なようであった。

無隠が「塾をお休みなって治療されたらどうです」と忠告すると、

「おれは自分の学問を試しているのだ」

といった。腫物の激痛と闘うのがこの男の学問らしかった。


「学問とは自分の実践力を拡大するものであるべきだ」といった。


詩文や古典の瑣末な解釈などは何もならない、というのである。


天保の乱の大塩平八郎と同じ思想の

「陽明学」の行動主義に心酔しているようであった。


当時の官学である朱子学は、まず理を窮めてから行動する、というもので、

自然、行動よりも知識偏重になっていたが、

王陽明の儒教は、知ることと行うこととは同じであるとしている。


行動的なエネルギーをもった知識であらねばならず、

その行動の主体である自分をつくるのが学問であるとしていた。


王陽明の言葉ですでに通俗化しているほど有名な句がある。


「山中の賊を破るはやすく、心中の賊を破るは難し



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医療の現場で、力を発揮するようなことをこそ、

学んでいきたいです。


陽明学、懐かしい言葉ですが、

改めて知行合一の言葉を読んでみると、

重みを感じます。



医療倫理、死生観教育、などなど、

現実に即したものを学んでいきたいと思います。








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生命学をひらく 自分と向きあう「いのち」の思想/森岡 正博
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■ こころの問題


 ここで言いたいのは、こころの問題です。


体の治療はずっとやってきて、これ以上はすることはない

あとに残るのは、こころの問題です。

それが大きく浮上してくる。


患者さんがこころの問題を、

医療にたずさわる人に問いかけることは、じつは多くあります


それを、看護婦さんが担ってしまっている。

ところが、看護婦さんといっても、熟練した、

人生のことをよくわかった四十代、五十代の人ばかりではありません。


あなたたちくらいの、二十代の看護婦さんもすごく多い。

そういう人たちに問うわけです。


五十代、六十代の患者さんが。


あなたたちならどうしますか。


看護師を目指す人は、

自分の将来のこととして考えてほしい。

医者になりたい人は、

もし自分がその場に居合わせたらどうするか、考えてください。


自分はまだ二十代で、

真っ暗な夜に患者さんのベッドのそばへ行って、

もうすぐ死ぬとわかっている患者さんに、


「自分はどうなるんでしょう」


と言われてごらん。


つまり、あなたたちのお父さん、お母さん、

おじいちゃん、おばあちゃんくらいの人たちに、

そういうことをぼそっと言われてごらん。


これからの医療は、患者さんからのこころの悩みや訴えかけ

つまり専門用語で言うと「こころのニーズ」を受け止めなければならなくなるんです。


いまのところ、病院の中では、

そういうことをあまりちゃんとやってはいません。


なぜかというと、日本の医療はとにかく

病気を治す、骨をつなぐ、死にそうな患者さんを生き返らせる

というようなことを、まず先にやらなくてはならなかったから。


日本の医療は、患者さんのこころの問題にまで手を回す余裕がなかった

日本はまだ貧しかった。


でも現在、日本も豊かになりました。


ほとんどの人が病院で死ぬようになりました。

体のいろんなところを修理するような医療は、かなりできるようになりました。

今後はもっと治るようになるでしょう。


最後は、死に直面した患者さんのこころの問題が、

ごそっと残るのです。


病院の中で彼らが、


「死ぬってどういうことなんでしょう」


「死んだらどうなるんでしょう」


「私は心細いんです」


と訴えかけたとき、

看護婦さんやお医者さんは、


「それは私の専門じゃないからわかりません」


と言って済むか、ということです。



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将来、問題になることが分かっているならば、

こういう問題も、教育の一環として、学ぶべきだと思います。


「私の専門じゃないから分かりません」


と言われてしまう患者さんは、もう心を開いてくれることはないでしょう。


(たとえ分からなくても、そんなことを言う人は少ないと思いますが。。)



哲学の分野なら哲学を、

宗教の分野なら宗教を、


食わず嫌いではなく、

綺麗ごとでもなく、

生きる力をもった智恵として

そういうことも、できるだけ学んだうえで、

患者さんに接することが出来ればと思います。








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がん患者 治す力 (朝日文庫)/帯津 良一
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解説 患者が変えていく日本の医療


     田口ランディ



多くの病院は本書の巻頭にある通り、

医師が「余命宣言」をした後、


あとはもう 「死ぬまでお好きに生きてください」

患者を突き放してしまいます。


でも、患者側が最も望んでいるのは、

「いっしょに治療しましょう。いっしょに生きましょう」と、

生きるための援助をしてくれる医療だと思います。


そのような医療に巡り合えてやっと、

人は落ち着いて自分の死と向き合い

死ぬ覚悟と同時に生きる力を獲るのだと思います。


でも、最初から 「もう終わりです」 と云わんばかりに突き放されてしまったら、

そんな淋しい状況で、とても死など受け入れることはできないでしょう。


また、多くのホスピスや緩和ケア病棟は

「治療をあきらめて死を受け入れる場所」であり、

治療の選択肢を病院側からは提供してくれません。


でも、あらゆる方法を試して

最後まで生きようとするのが人間ではないでしょうか。


生きて生きて生き果てた先に死があり、人は死んでいくのではなく、

生きながら死に入っていくのだと思うのです。


(中略)


およそ人間にとって恐怖という感情ほど

扱いにくいものは無いと思います。


とりわけ死の恐怖は誰でも持っています。


誰でも持っているからこそ厄介なのです。


それは患者さんだけでなく、

治療者も持っている、

ご家族も持っているからです。


患者さんを取り巻く人々が、それぞれに死の恐怖をもっている以上、

それは伝播していきます。


なにより医師が抱えている死の恐怖は

ダイレクトに患者さんに影響を与えます


ですから、本来なら医療に携わる人たちこそ

己の死生観が必要であり

およそ死生観をもたない医師に治療されることほど、

恐ろしいことは無いのではと思います。


医療者の側に「死は敗北である」という死に対する恐怖がある限り、

死にそうに見える患者さんは医療者にとって恐怖の対象なわけですから。



ですが、医師教育においても、

医療現場における医師の過酷な勤務事情から察しても、

医療者側の適切な死生観を育む知的な場が日本にあるとは考え難く

現段階では患者の側が変わるしかないのです。


私たちはそのことを肝に銘じなければなりません。


現実的に帯津先生のような医師はそう沢山は存在しないのです。


私たちは、自分ががんになったとき、

自分の意志で死生観を探り、手に入れ、

ガンとともに生きていく方法を模索しなければなりません。


逆にいえば、患者側がその覚悟をくくり、

多くの患者さんが己の目で自らの死と生を見つめるようになった時、

日本の医療は劇的に変わらざるを得なくなるでしょう。




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今、病に伏している人も、

まだ元気な人も、

同じように、確実に抱える未来が死であればこそ、

共感できることでもあると思うのですが、


同じように、不安な未来を抱えているからこそ、

その死への恐れが伝わってしまい、

目を背けようと思えば、まだ背けられる元気な人は、

逃避してしまう。

そして、逃げたくても逃げられず、追い詰められている患者さんだけが、

独り取り残されてしまい、孤独に耐えながら、独りぼっちで死んでゆかねばならない。



医療者の死生観教育の必要性は、強く感じます。







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がん患者 治す力 (朝日文庫)/帯津 良一
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死を想うことの大切さ



人はみな、この世に生れ出て、生きて、そして死んでいきます。


死は誰にでも訪れるものであり、

それも一生にたった一度きり。
絶対にやり直しがききません。


死は、誕生の瞬間と同じように、

一世一代の大事なセレモニーなのですが、
日本人の多くは、死について考えたり、

心の準備をしたり、語り合うことを忌み嫌います

日常生活から切り離して、

自分とは遠いことのように思い込んでいます。



「死の準備?とんでもない!」

「死生観?それって何なの」


という感じで、

はお寺さんと葬儀屋さんのテリトリーのように思っています。

それは日本人の民族性によるものでしょうか。

「死は恐ろしいもの、恐いもの、一巻の終わり、

自分の生命は露と消え、すべてが無に帰する」

そんな固定観念があるせいかもしれません。


特に「不治の病」とされてきた、がんの患者さんの周囲では、

「縁起でもない」ということで、
死についてはよけい口を閉ざしてきたように思います。


思えば日本では、病院自体が最も死を嫌っているのかもしれません。

私自身も、帯津三敬病院をつくるまでは、

医療は知識と技術をもって患者さんを「生かす」仕事だ・・・

という信念に燃えていて、死について考えることはありませんでした。

心に目を向ける重要さにも気付いていませんでした。


自分の病院をもち、患者さんの生老病死に寄り添う医療をするようになって、

初めて死生観に目覚めたのです。



メメント・モリ・・・ラテン語で「死を想え」という意味ですが、
これこそ、患者さんにとっても、医師にとっても、そして健康な人が生きる上でも、

最も大切なことだと思います。


患者さんの中には、医療者の予想をはるかに超えて、症状のよくなる方がいます。

また、がんと上手に共存して、一定の小康状態をキープしつつ、

驚きの生命力を発揮される方もあります。


そんな患者さんに共通するのは、

「あっ、この人は何かが変わったな」と、

ふっと感じさせる瞬間があることです。


そうした変化を境に、病状が好ましい状態へと変わってゆくのです。

何かが変わるその源に、死生観の確立があると、私は思っています。



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「病院自体が、もっとも死を嫌っている」


そうなのかもしれませんね。


死を嫌うからこそ、必死の救命活動が行われるわけですし、


生を望みながら、死を見つめることは、

簡単なことではないと思います。



問題になるのは、


「死を見つめる」 「死生観」


とは、どうすればいいのか?



必ず死んでゆかねばならない現実を見つめるとき、


絶望以外の、何か希望は見いだせるのか?


限られた時間であることが分かるほど、


「悔いのない生き方とは?」


「自分の人生にとって、『一番』大事なことって何だろうか?」


と思わずにおれなくなると思います。



「今はまだ生きている」


その貴重な命で、何をすればいいのかを

真剣に吟味せずにおれなくなるはずです。



その答えになりうるものは、どんなことなのか、


それがまた難しそうではありますが。。。






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死ぬときに後悔すること25―1000人の死を見届けた終末期医療の専門家が書いた/大津 秀一

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24 神仏の教えを知らなかったこと


●健康なうちに宗教について考える


最期まで宗教について知ろうとしていた、

永遠の学究の徒である八十代のある患者は、

様々な宗教について一心不乱に勉強した後、私にこう遺言した。


「自分の目で考えることが一番大事である」

それが彼の辿りついた真理だった。


宗教を通し、真実を見通す目を養わなければいけないと思う。

しかしそれを余命数カ月となって初めて開始するのは、

いささか荷が重かろう。

神や宗教について考えるのも、早いに越したことはない。

そのほうが、いざというときの後悔は少ないはずだ。


毛嫌いしないで宗教書に目を通してみると、思いがけない発見があったり、

古今東西 人の悩みや疑問は一緒だなあと癒されたりする。


なかなか侮れないものである。



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哲学中心に学びたいとは思いますが、

時代を超えた、人間の悩みや疑問に対する答えは、

宗教、特に仏教(日本の古典)に求めたい気はします。


「生老病死」に関する問いは、

徒然草や、方丈記、平家物語から、歎異抄など、

諸行無常をテーマにしているものは多いですし。



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日本人と日本文化 (中公文庫)/司馬 遼太郎

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キーン

 昭和二十三年に戦犯で死刑に処せられた人たちの

 最後の手紙を集めた書簡集というものがあるのですけれど、

 最後の手紙を書くような人は、もちろん特殊の人だったに違いないのですが、

 だいたいにおいて仏教のことを書いている

 仏教のことに言及しない人のほうがむしろ少なかったようです。

 神道のことをかいたものは一つもなかったと思います。(中略)


 いちばんの危機に直面する場合、そのときこそ、

 そのときまであまり大事にしなかった

 釈迦とか阿弥陀仏をはじめて信ずるようになります

 あのときに、もう近いうちに死刑に処せられると思っていても、

 天照大御神の名まえは言わないですね。


司馬

 それは天照大御神はけっして頼りにならないからです。

 死後の世界を救ってくれませんから・・・。(中略)

 いよいよおれは死ぬということになると、阿弥陀仏になるのですよ。

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気になったので、その書簡を探してみました。




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巣鴨の生と死―ある教誨師の記録 (中公文庫)/花山 信勝
¥857
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この『正信偈』の中には、信ずるということを、
何べんも繰り返していわれているですね。
初めには 応信如来如実言、
終りには 唯可信斯高僧説、



その他お話の中にもあったように、ということをくどくどいっておる。


有り難いですなぁ。

私のような人間は愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ。
私の如きは、最も極重悪人ですよ。
本当の仏様の目から見れば実に極重悪人ですよ。

例えば肉を食うとか、米を食うとか、米にも生命がありますよ。
そういう食事のことからだけ考えても、

それらを食わねば生きて行けない人間だということは、全く極重悪人です。

それがよくわからないと、極重悪人がわからない
ちっぽけな智慧、それが禍いしてくるのですね。

だから、知識人は信仰に入れないのですね。


……首切られる時はただ南無阿弥陀仏以外にない。
人間は、生死を超えなければいかんですね。



(中略)



人間は、宗教に入らなければ、人生は歩めない。
上っ面ばかりの生活では、とてもだめだ。
黒潮の流れの上だけをみているような生活では、

真実の人生は味わえない
しかし、なかなか、若い者は宗教には入らないですね。



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宗教の問題は、なかなか難しいところがありますが、
最初から敬遠してしまって、食わず嫌いになると、
ちょっともったいない気がします。

否定するのは簡単ですが、

確かめてみる価値はありそうです。


個人的には、司馬遼太郎氏の言葉を信じてみて、

学ぶなら歎異抄がいいかなと。


宗教に無知なままだと、いざという時に、

変な宗教にすがってしまう気もしますし。




上医は、未病を治す。


備えあれば、憂いなし。








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生きて死ぬ私 (ちくま文庫)/茂木 健一郎
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すべり台



人生は、いつ地面に着くか分からないすべり台を

滑って行くようなものではないだろうか?

すべり台を滑りながら、周りに色々な風景が見えてくる。


その風景を眺めながら、私たちは、色々なことを考える。


そのまま滑って行ってしまえば、いつかは地面についてしまう。

地面に着けば、衝撃とともに、

人生の終わり=「死」が待っている


だけど、私たちには自分が滑り落ちていくのを止めることはできない

時間の経過とともに、私たちはすべり台の終わりに近づいていく。


滑っている間、じっとしていてもつまらないので、

私たちは色々なポーズをとってみる。


ポーズをとりながらも、

すべり台を滑って行くことには変わりがない。


すべり台の終わりがどこにあるか知っているもの(=神?)にとっては、

そのことも知らずに懸命にポーズをとっている私たちは、

滑稽な存在に見えることだろう。

私たちは、毎日どのようなポーズをとろうか苦心している。

だが、どのようなポーズをとるかということよりも、

すべり台を滑って行くという事実の方が、

人生にとっては重要なのかもしれない。


哲学者の口にする、


「人生とは、死に対する準備のようなものである」


という言い方は、このようなことを意味しているのであろう。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



いつも気にしているのは、


周りから、どう見られているか、

自分なりに、かっこいいと思えるか、


そんなことばかりで、


刻一刻と近づく終末は、まったくと言っていいほど考えていない。


病気じゃないから、

まだ若いから、

元気だから、

やらないといけないことがあるから、

・・・・


なんだかんだと理由をつけて、

縮まり続ける命には想いを馳せない。



・MEMENTO MORI (死を想え)


・諸行無常


などの言葉を、なんど目にしても、

そのたびに、はっとさせられるのは、

ついつい、事実、現実を忘れてしまうからだろう。


現(うつつ)を抜かす、ともいわれるが、

夢をみてばかりいては、足元が疎かになる。


肝心な着地を忘れて、

ポーズのことで頭がいっぱい、カッコつけてばかりいる姿は、

想像するだけでも滑稽だ。


他人事ならば・・・。



やはり、医師にも「哲学」が必要だ。









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死ぬときに後悔すること25―1000人の死を見届けた終末期医療の専門家が書いた/大津 秀一

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23 生と死の問題を乗り越えられなかったこと


●生の意味、死の意味を考える


 さて、先の項で挙げた17歳の彼女は、

「自分の生が、死が、意味あるものでありたいと思う」

と記した。


これは本当のことだ。そして切実なものでもある。

誰もが、自分の生や死が意味あるものであることを願っている。


生が無意味なら、人は死ぬしかなくなる。

死が無意味なら、人の死は無駄死にだと感じる。

だから人は、生と死の意味を求めてやまないのである。

それが無意味であることを恐れている



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生きることに意味がなければ、


延命治療も意味がなく、


安楽死も止める理由もありません。


そして、自殺も。



逆にいえば、


自殺が、12年も連続で3万人を超えるのを止められないのも、


安楽死に反対する理由があいまいなのも、


延命を目的とする医療が、何かやりきれない最期を迎えてしまうのも、


生きることの意味が分からないからなのかもしれません。







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司馬遼太郎全講演 (1) (朝日文庫)/司馬 遼太郎

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私は兵隊に行くときにショックを受けました。
まず何のために死ぬのかと思ったら、腹が立ちました。
いくら考えても、自分がいま急に引きずり出され、
死ぬことがよくわからなかった。
自分は死にたくないのです。
ところが国家は死ねという。
(中略)

死んだらどうなるかが、わかりませんでした。

人に聞いてもよくわかりません。


仕方がないので本屋に行きまして、

親鸞聖人の話を弟子がまとめた『歎異抄』を買いました。


非常に分かりやすい文章で、

読んでみると真実のにおいがするのですね。


人の話でも本を読んでも、空気が漏れているような感じがして、

何かうそだなと思うことがあります。


『歎異抄』にはそれがありませんでした。


(中略)


ここは親鸞聖人にだまされてもいいやという気になって、

これで行こうと思ったのです。

兵隊になってからは肌身離さず持っていて、

暇さえあれば読んでいました。


私は死亡率が高い戦車隊に取られましたから、

どうせ死ぬだろうと思っていました。


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その歎異抄を読んでみました。


ここまで来ると、

一流の人同士しか分からないような世界が展開されてる感じが。。。



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歎異抄をひらく/高森 顕徹
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18 人類の常識を破り、生きる目的を断言された、
                       親鸞聖人のお言葉



原文 - 煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、
    万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、
    ただ念仏のみぞまことにておわします

                         (『歎異抄』後序)


意訳 - 火宅のような不安な世界に住む、

     煩悩にまみれた人間のすべては、
     そらごと、たわごと、まことばかりで、真実は一つもない。
     ただ弥陀より賜った念仏のみが、まことである。


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「この世のことすべては、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない」

 親鸞聖人は断言される。

人間のあらゆる営みを否定する、

反社会的、反道徳的、常識破りの発言が繰り返される『歎異抄』。

だが、すべては真実信心のむき出しなのだ。



「信心」と聞くと、無宗教のおれには関係ないよ、

とソッポを向く人があるかも知れぬ。

だが“イワシの頭も信心から”というではないか、
広くいえば、仏や神を信ずるだけが信心ではなかろう


 明日もあると「いのち」を信じ、まだまだ元気だと「健康」を信じる
夫は妻を、妻は夫を、親は子供を、子どもは親を信じて生きている。

 金銭や財産の信心もあれば、名誉や地位の信心もある。
マルキストは、共産社会こそ理想と信じている人たちだ。

 何を信ずるかは自由だが、なにかを信じなければ生きられない
生きるとは信ずることだから、誰も無信心ではありえないのだ。

 信ずるものに裏切られると、たちまち苦悩に襲われる。
健康に裏切られたのが病苦であり、

恋人に裏切られたのが失恋の悲しみだろう。

 夫や妻を亡くして虚脱の人、子どもに先立たれて悲嘆の人、
財産や名誉が胡蝶の夢と化した人、

みな信ずる明かりが消えた、暗い涙の愁嘆場である。

 皮肉にも、信じ込みが深いほど、

裏切られた苦悩や怒りは、ますます広まり深さを増す


 生きるため日々悪戦苦闘する我々だが、

決して苦しむために生まれてきたのではない。
生きているわけでもない。

唯一生きる目的は、

生命の歓喜を追い求め、獲得するためなのだ。

誰しもこれに異存はなかろう。

 ならば信ずるものの真贋に、

尋常ならざる真剣さが要請されるのも当然ではなかろうか。

果たして我々は、裏切るものか否かの吟味に、
どれほど深刻に考慮し、神経をとぎすませているだろう。


 地震、台風、落雷、火災、殺人、傷害、窃盗、
病気や事故、肉親との死別、事業の失敗、リストラなど…。
いつ何が起きるかわからない泡沫の世に生きている。

 盛者必衰、会者定離、物盛んなれば即ち衰う。

今は得意の絶頂でも必ず崩落がやって来る。

出会いの喜びがあれば、別れの悲しみが待っている。

 ひとつの悩みを乗り越えても、裏切りの尽きぬ不安な世界だから、
火のついた家に喩えて聖人は、「火宅無常の世界」と告発される。

 たとえ災害にも遇わず病にもかからずとも、冥土の道に王は無いのだ。

 いざ死の厳頭に立てば、どうだろう。
財産も名誉も一時の稲光り、かの太閤の栄華でさえもユメのまたユメ、
天下人の威光は微塵もなく、不滅の光はどこにも見られぬ。

 己の信ずるものは永遠だと、なおも幻想する人たちに、

聖人の大音が響流する。


「万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなし」


そらごと、たわごとに例外はないのだ。


「死んではならぬ」「強く生きよ」と高々と、命の尊重を説いた先生が、
あっさり首を吊って世を驚かす。

なぜか有名人の自殺は美化されるが、

生命の尊厳性が確認されない限り、
自殺の是非も、そらごとたわごとのひとこまにすぎない。

 そらごと、たわごとに生きるのは、噴火山上の舞踏に等しく
不気味な不安に耐えきれず、死を選ぶのもむべなるかなと思われる。


 さればこそ、聖人の大啓蒙だ。


「ただ念仏のみぞまことにておわします」

“みな人よ、限りなき生命の歓喜(摂取不捨の利益)を獲て、
 ただ念仏するほか、人と生まれし本懐はないのだよ”


親鸞聖人九十年、唯一のメッセージを伝えんと、
泣く泣く筆を染めた渾身の書が、『歎異抄』と言えよう。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




いざ、自分が死ぬとなって、それでも信じられるものを、

まだまだ死なないと思っている自分は、何か持っているだろうか。。。


自問自答せずにおれません。



決して、苦しむために生まれてきたのではない。

生きているのでもない。


命を延ばすこともまた、苦しませるためではない。


生命の歓喜を味わって頂きたくて、

そのためだけに、医学も発達してきたはずです。



「なぜ生命は尊厳なのか」


これが分からない限り、

自殺の是非も、そらごとたわごとであり、

また、延命の是非も、同じことになってしまうと思います。


事実、延命の是非は、一向に結論が出そうにありません。


どちらも、それなりの言い分はありますが、

どちらも、根拠、決定打に欠ける感があります。


「なぜ命を延ばすのか」


ここが、当たり前のようでいて、

実は、きちんと分かっていないことが、根本的な原因なのでしょう。


生命の尊厳性を信じることができなければ、

患者さんも生きる気力がもてないし、

医療者も、命を延ばそうとする自分の行為を信じることができません。


生きるとは、信じることであり、

命を延ばすことは、命の意味を信じることです


死の厳頭を前にしても揺るがぬ信念を貫けるよう、

歎異抄も学んでいきたいと思います。







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