宇宙(16)
日本の田舎に目を向けると、 確かにそこには森があり、 清い水の流れもある。 しかし、 そこに活き活きとした若者・子供達の声は響かない。 過疎化であったり、 息子・娘達は街中に出て行き、 後に老人が取り残され、 細々と生きている。 そこに活力を求めるのは無理である。 余命何年あるだろう。 5年、 10年と後僅かである。 しかも、 体のどこかに問題をかかえている。 高血圧症、 膝腰痛、 既に癌を経験し、 胃を切除した人もいる。 勿論、 癌の進行形の人もいる。 これが田舎の現実である。 日本人の原点に森や川があるとしたら、 これは余りにも悲惨な有り様と言えないだろうか。 一方都会は、 どうであろうか。 目を被いたくなることの連続である。 人の命は軽んじられ、 交通事故地獄、 人と自転車、 人と車等等、 命は毎日失われている。 人が人を殺める、 これも毎日報道されている。 世の中、 一体全体どうなっているのだろう。 箍が外れた状態にあると思う。 この「箍」とは、 国の中心にあり、 国を、 国民をしっかりと繋ぎ止めている絶対に欠かすことのできないものである。 この「箍」が外れたとき、 今我々国民の前で展開しているような非人間的な状況に陥るのではないだろうか。 大きく人間の一生を捉え、 皆が幸せに生きていける環境作り、 国作りを切望して止まない。
― - - つづ く
11月4日~17日まで留守にします
読者各位、 恐れ入りますが、 11月4日~17日まで留守にします。 18日より復帰しますので、 それまで私のメッセージはお待ち願いたく。 よろしくお願い致します。
2009年11月3日
Thackery
追伸: 私の不在の期間、 紀行文、 私小説、 詩等をお読み願えればと思います。
宇宙(15)
宇宙(14)に登場する神々、 恐らく読者にとっても初めての体験ではないだろうか。 これ程数多くの神の存在に接するのは。 私も初めてこの存在に接したとき、 感動した。 そして、 古事記と日本書紀の意義を探った。 日本書紀は成立当初から、 正史(国家として正式な歴史書)として位置づけられ、 公のものとして多くの人が読むことができた。 それに対し、 古事記は天皇に献上されたもので、 宮中深く秘蔵され、長くその存在が知られていなかった。 (平安時代頃まで) 日本書紀では同じ部分について、 複数の説が記述されているのに対し、 古事記は一つのストーリーとなっている。 古事記に記載されていない事項を、 氏族の歴史として伝えている有力豪族があったとしたら、 日本書紀のように、 説の一つとしてでも記載されている方が好ましいと感じられるかも知れない。 どちらも8世紀に作られた日本人による日本の歴史書であり、 古事記は西暦712年に作られたと言われている。 天地開闢とともに神々が生まれた話に始まり、 英雄の冒険など、 神話からはじまり、 第33代の天皇までの出来事が書かれている。 日本書紀も同じ頃(720年)に完成した歴史書である。 古事記と違い、 国家事業として作られた。 尚、 歴史書自体は、 他にも(例えば620年頃に聖徳太子がまとめたもの等)もっと古い時代にあったことがわかっているが、 火事で焼けたりしたため、 これらが現存している歴史書としては一番古いということになる。
これらの歴史書を紐解いていくと、 日本の森を中心とした文化、 数多くの神社、 毎年繰り行われる鎮守のお祭り、 日本人の原点(古里)が見えてくる。
― - - つづく