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宇宙(27)

宇宙(26)に掲載の釜山→沖ノ島・田心姫神(たごりひめのかみ)→大島・湍津姫神(たぎつひめのかみ)→田島・市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)のルート図を見ると、 中国大陸・朝鮮半島からの文化伝来の道筋「海北道中(うみのきたのみちのなか)」がよくわかる。


三人の女神、田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)を祀る神官と考えられている宗像氏につき、 説明を加えることとする。


「“海人族(あまぞく)”としての宗像氏」
中央政権と強い結びつきをもった宗像氏とは、どんな一族だったのであろうか。 原始・古代の北部九州には、海に生活の糧を求める”海人族“と呼ばれる集団がいくつかあった。安曇磯良(あずみのいそら)を始祖とする志賀の海人(福岡市東区・志賀島)などがそうである。 なかでも沖ノ島を崇拝する一団は、潜水漁労を中心に、後に高度な航海技術を持ち、宗像海人族と称されるにふさわしい活躍を見せた。
「むなかた」の由来については、胸や肩に入れ墨を彫り込んだことから「胸形(むなかた)」「胸肩(むなかた)」、玉や鏡を「身体之形」にして宗像神を表したことから「身形(むなかた)」「宗形(むなかた)」、釣川の上流まで海が入り込んで干潟を形成していたことから「沼無潟(むなかた)」「空潟(むなかた)」というなど、諸説がある。 また、表記については、「胸肩」「胸形」「胸方」から「宗形」を経て「宗像」に至ってきている。


「宗像一族の活躍」
釣川流域と宗像の平野宗像氏は、現在の釣川流域の豊かな穀倉地帯を本拠地とし、玄界灘の海のルートを支配したといわれている。 4世紀前半、その中から一族を率いる首長が生まれた。
このころ、大和王権の勢力は北部九州に及ぶが、まだ政権は不安定で、九州全域を掌握するには至っていない。 さらなる力を求めた大和王権が目をつけたのが宗像氏であった。 朝鮮半島の加耶(かや)・百済(くだら)との連合をめざす大和王権にとって、朝鮮半島に至る海路は、まさに生命線であった。 このころ、すでに玄界灘沿岸から壱岐・対馬を経て朝鮮半島と結ぶ海の道を支配し、航海術に長けていた宗像氏と手を結ぶことは不可欠だったといえる。


― - - つづく

宇宙(26)

「“神宿る島”沖ノ島」から物語を始めるには、 理由がある。 後々にこの「沖島」が重要な意味を持ってくるからだ。 歴史上の場所、 人物は現在につながる必然性の中に存在していることが次第にわかってくる。 宇宙(25)登場する「三女神」について説明を加えることにする。


「三女神の誕生」
宗像氏が信奉したのは「宗像三女神」と呼ばれる三人の女神である。 『日本書紀』によれば、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、姉の天照大神(あまてらすおおみかみ)に邪心がないことを示すために、それぞれが持っている剣と玉を交換し、誓約(うけい)をしたという。 天照大神が素戔嗚尊の剣をとり、天真名井(あめのまない)にすすぎ、これをかみ砕いて口から息を吹きかけると、その息の中から三人の女神が誕生した。 これが宗像三女神である。


「三女神を祀る宗像大社」
三人の女神は、それぞれ田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)といい、田心姫神は海上に発生する霧を、湍津姫神は潮流の激しい様子を、市杵島姫神は神を祀(まつ)る行為を表すといわれている。 これらの三女神を祀る三社、すなわち、沖津宮(おきつみや)・(沖ノ島)、中津宮(なかつみや)・(大島)、辺津宮(へつみや)・(田島)を総称した社が「宗像大社」である。  沖津宮には田心姫神が、中津宮には湍津姫神が、辺津宮には市杵島姫神が、それぞれ祀られている。


「宗像市と三女神」
興味深いことに、この辺津宮から大島、沖ノ島を延長すると、対馬の北部を経て、韓国の釜山を見通す線上に並ぶ。 古代において、この北部九州から朝鮮半島に至る海の道を掌握したのが宗像氏であり、彼らはまた、この三女神を祀る神官と考えられている。


― - - つづく



thackeryのブログ-沖島 大島 田島の位置


thackeryのブログ-釜山 沖ノ島 大島 田島 の位置







宇宙(25)

国作りに関わる物語を始めたい。 できるだけ順序を追って。 まずは、 外国(中国・朝鮮等)との窓口であった南の島から。 


「“神宿る島”沖ノ島」
玄界灘の洋上に浮かぶ沖ノ島は、北部九州と朝鮮半島を結ぶ直線上の、ほぼ真ん中に位置する。 晴れた日には、西に対馬、西南に壱岐、南に福岡、東に山口県の見島をはるかに望む、まさに絶海の孤島であるが、古くから「神宿る島」、宗像大社のご神域として、人々から篤く崇敬されてきた。
島内23ヵ所に及ぶ祭祀(さいし)遺跡からは、 約8万点もの奉献品(全て国宝)が出土した。 しかも、中国製の青銅鏡や朝鮮半島製の金製指輪、金銅製馬具など、当時でも貴重な舶載品(はくさいひん)を数多く含んでいたのである。 この祭祀遺跡は4世紀後半から10世紀初頭にかけて営まれたと考えられている。 つまり、約600年もの間、これら国宝級の品々が沖ノ島に奉じられていた。


「航路安全と国家神」
4世紀後半、沖ノ島の国家的な祭祀(さいし)は朝鮮半島の加耶(かや)・百済(くだら)との通好の開始を機に、航海安全を祈願したことから始まった。 その後の対外関係によって海の道にも変化が生じ、日本から朝鮮半島や中国大陸に渡るルートはいくつも生まれたが、大和王権による沖ノ島の祭祀は継続された。 特に、朝鮮半島との関係が緊迫したときほど、祭祀が頻繁に行われたことは、沖ノ島の祭祀が航海安全だけを祈願したものではなく、対外交渉に向けた国家鎮護の意味もあったことを示していると思われる。

『「日本書紀」にも記された国家神「宗像三女神」』
「日本書紀」によれば、田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)の三女神は天孫(あめみま)・(歴代天皇)のまつりごとを助けるために、大陸との交通の要路にあたる「道中(みちのなか)」に降臨したと記されている。 このことから、宗像三女神が道中の安全を守る「道主貫(みちぬしのむち)・(航路交通安全の神)」であったことと、中央政権と強く結びついた国家神であったことがうかがえる。 また、約600年もの永きにわたり、絶海の孤島である沖ノ島に奉納された約8万点もの文物は、中央政権にとって、沖ノ島がいかに重要な場所であったかを物語っている。 4世紀後半から10世紀初頭にかけて、沖ノ島は国家的な祭祀場と位置づけられ、宗像氏が祀る地方神であった三女神は、国家神にまで昇りつめる。 それはまた、宗像氏の繁栄にも深く関わった。


― - - つづく