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国宝 華原磬(「日本の古寺美術5 興福寺」より)
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「興福寺曼荼羅図」に描かれた華原磬と婆羅門像
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「興福寺曼荼羅図」に描かれた西金堂の全体図

 一番下の青い石段のすぐ上、正面に華原磬と婆羅門像があります


 東金堂の拝観を終えて次に国宝館を拝観させてもらいました。 

 こちらには興福寺の重宝として華原磬の名で有名な梵音具が展示されていますが、古くから西金堂に安置され金鼓(こんく)と呼ばれていたようです。 

 最も古い記載は「宝字記」と呼ばれる流記資財帳で、平安時代に南都を巡礼した大江親通の著した「七大寺巡礼私記」に詳しい記述があり、それらから、当初の形は、獅子は白石の台座の上に坐し、四頭の竜はそれぞれ玉を含み、頂上には回転自在の菩薩坐像が安置され、傍らに高さ三尺の婆羅門像が立ち、鍾木をもって金鼓を打つ姿を見せていた事が分かります。 

 「興福寺曼荼羅図」では、かなり薄くて見づらいですが、一番下の正面に華原磬と、その傍らの婆羅門像が描かれています。 

 ここで、問題になるのが、この華原磬は治承の兵火の時に外に持ち出す事が出来たのか、或いは持ち出す事は出来なくて焼損したのを鎌倉時代に補鋳したのかという事だと思います。

 内部に懸けられている金鼓は鎌倉時代になってからの補作と考えられていますが、それ以外の部分については当初からのものであるという説と鎌倉時代に再造されたという説があったようです。 

「奈良六大寺大観補訂版 興福寺1」によると近年、量感あふれる獅子の造形は唐時代の遺物に通じるものがあるが、竜については誇張的な表現や技巧性が色濃く、類例が宋時代の竜に求められることで、その影響を受けたものと位置づけられるという加島勝氏の説が出され、したがって獅子は西金堂創建当初のものであろうが、竜は治承四年(1180)の罹災時に失われたため、同時に破損欠失した獅子の尾ともども、新補鋳造された可能性が高いと論じられているようです。 
 もし、その説が正しければ華原磬は治承の兵火の時に堂外へ持ち出せず火中において焼損した事になります。 

 西金堂の配置を見ると、華原磬は東向きの正面の扉の前に置かれていて、一番取り出しやすい位置にあったと考えられます。 

 それさえ取り出す事が出来ず、後からの捜索で発見されたとすると、それより中に安置されていた仏像を運びだせた可能性は、かなり低いと考えざるをえないと思います。