国宝 文珠菩薩像(絵ハガキより)
「興福寺曼荼羅図」に描かれた文珠菩薩像
国宝 維摩居士像(絵ハガキより)
「興福寺曼荼羅図」に描かれた維摩居士像
この日は、まず興福寺の東金堂から拝観させてもらいました。
ここに安置されている国宝の文珠菩薩像と、私が寛治七年(1093)頃に成立したと推理している「興福寺曼荼羅図」に描かれている東金堂の文珠菩薩像が、良く似ている事は前にも書かせてもらいましたが、私は治承四年(1180)の平家の焼き討ちで、この「興福寺曼荼羅図」に描かれている像が失われた後、「興福寺曼荼羅図」の原本か写本に基づいて再興されたのが今の像だと考えています。
しかし、「興福寺曼荼羅図」が、ある時代の景観を写したものではないという説を取られている泉武夫氏は、その二つが極似している事と現在、中金堂像となっている元、南円堂の鎌倉復興期の四天王像と「興福寺曼荼羅図」の南円堂に描かれた四天王像の一致する度合いの高さから、二つの解釈を考えて後者を選択しておられます。
一つは私が考えたように鎌倉復興像が治承以前の像容を忠実に写しているという考えですが、そうすると東金堂文珠の特異な姿は治承以前からあった古式像ということになるし、南円堂四天王像については、鎌倉復興像が図像の一致のみならず腕の振り上げ具合まで忠実に治承以前の古式を再現した事になると述べられています。
そして、もう一つは、少なくとも東金堂文珠と南円堂四天王は鎌倉復興像を反映しているとする考え方を示され、この場合には、「興福寺曼荼羅図」には鎌倉復興期の景観が入り込んでいるという事になり、そうすると南円堂の描写において、壁画は治承以前の状態を示すが、四天王は治承以降を示すという不整合を犯す可能性が出て来ると述べられ、二つの解釈の選択は至難であるが、絵画史の立場からみると、現存像と一致する「興福寺曼荼羅図」の文珠菩薩像の像容の異色性はきわだっており、もしこの像容が治承以前の十二世紀にあったとするならば、「別尊雑記」を始めとする各種の図像集類で触れられるべきであるが実際には関係記述がないので無理のある解釈と思われ、二つ目の解釈に傾かざるを得ないと述べられています。
そして、きわめて細かい描写でありながら「興福寺曼荼羅図」が「写像」にこだわっていないことは西金堂の十大弟子、八部衆の描き方でも明らかで、この「ゆるやかな写像」の態度を考慮すれば、特定の景観年代があると仮定すること自体が問題であると述べておられます。
しかし、果たして、そうだろうかと私は思っています。
確かに東金堂の文珠菩薩像は特殊な像容ですが、平安時代後期に色々作成された図像集類は密教系の仏像を取り上げたものが多く、それ以外の特殊な仏像を全て網羅しているわけではないので、そこに記述がない事を根拠にするのは無理があると僕は考えています。
そして、西金堂の十大弟子と八部衆像については、前に「興福寺曼荼羅図」で描かれた画像を転載させてもらいましたが像容が一致するものは一躰も無く、全く別物であり、それは現存像が当初からのものではない事を証明する事に他ならないと思います。
更に、もし文珠菩薩像を鎌倉復興像を反映して書き直しているとすれば、それと対になる維摩居士像は、どうしてそれに合わせなかったかの説明がつかないと思います。
現存の維摩居士像と「興福寺曼荼羅図」に描かれた維摩居士像は全く別物にしか見えません。
文珠菩薩像は「興福寺曼荼羅図」に基づいて、その像容を写して鎌倉復興像が造られた一方、それと対をなす維摩居士像が「興福寺曼荼羅図」の像容と全く異なる形に造られた事の謎を解明する方が重要な事ではないかなと思っています。