次に小林氏は、足立氏が室町時代の南都七大寺巡礼記の西金堂の記述は、平安時代に大江親通が著した「七大寺巡礼私記」を転載した部分にあたる事で室町時代に「額安寺古像」説が有った事を否定された事に対する反論をされていますが、この部分は史料的価値の疑わしい物に関しての論争だと思いますので割愛させてもらいます。

 その後で小林氏は、「南都七大寺巡礼記」は八部衆像のみ「額安寺古像」説を記しているが、享保二年(1717)の尊像之録や「興福寺由来記」「興福寺濫觴記」等に至っては、十大弟子像と八部衆像の二具の像ともに明らかに「額安寺古像」と記されている事を指摘され、「興福寺由来記」に

十大弟子(各尊名略) 
 各立四尺八寸 
 仏師問答師造 
 額安寺古像
八部衆(各尊名略)
 各立五寸 
 仏師問答師
 額安寺古像

とあるのを引用されています。 
 これについて、安藤足立の両氏が文献として比較的後世のものであり、その記述は「南都七大寺巡礼記」の記事に迷わされたものだと疑っている事に対し、これらの諸文献は「南都七大寺巡礼記」とは全くその性質及び記述を異にしているもので、ことに「南都七大寺巡礼記」の八部衆像のみに記される「額安寺古像」を、他の諸記録には十大弟子像にも、それを明記している事は、これら寺記類の常として、事実を曲げても、その仏像などの由来を自己に主張せんとする傾向と相反するものであるからである。もし、足立氏等の主唱される如く、それらの像に幾分なりと西金堂本来のものとする伝説が存したならば、その八部衆像のみに僅かに記された「額安寺古像」の如きは当然、抹殺されているはずである。然るに之が逆に十大弟子像にまで記されているのは「興福寺由来記」等の記載が「南都七大寺巡礼記」とは異なった別個のものである事を示していると述べられています。 

 また、足立氏が「興福寺濫觴記」の西金堂本尊の記載に 

 上古本尊者 印度之仏師問答師造 今之本尊者 建久時代春日大仏師運慶造之
とあるのを引用され、その当初の仏師が十大弟子及び八部衆像等と同一作者である問答師との伝説に注目され、これによって十大弟子等の像を西金堂当初のものと推定する一助とされ、「額安寺古像」との五文字を全然無意義なものと見ておられる事に対し

 上古之像者 仏師問答師造 今之像者 額安寺古像

と解すれば、その記述法も本尊像と一致する事になると述べておられます。

 そして「興福寺濫觴記」等の記載も、かなり重要な文献であり、即ち、これらによって、十大弟子及び八部衆像は西金堂在来の像が治承の兵火に焼失して、その後、額安寺から移されたとする寺伝は、かなり信ずべきものと思われると述べられ、最後に、足立氏が現存像が西金堂本来のものとしての条件を具備していると主張されている事に関して、その高さは、当初の像は明らかに五尺ではなく六尺で、現存像の実測はむしろ五尺以下で、まず第一に、その丈量に明らかな差を認めなければならないと述べておられます。 
 また、当初像の特色として乾漆造である事を挙げられた事に関しては、当代にあっては、むしろ乾漆が造像の一般例であったのだから、これを以て西金堂の特殊な条件とする事は出来ないと述べられ、足立氏の主張される現存像の様式手法より当初の像への還元は、ほとんど不可能になり、かえって、そこには可なり異なった要素が見出だされるように思われると述べておられます。 

 最後に小林氏は、安藤足立両氏のご高説には、可なりの疑いがあり、それらを以て現存の十大弟子及び八部衆像を西金堂当初よりのものと推定する事は無理なように思われ、現存像に立脚した限りでは、その当初の像は治承の兵火に焼失して、その後、額安寺の古像が移し置かれたとする方が遥かに穏当である。少なくとも現在の遺物及び文献の限りでは、かく信ずべきものの様であると述べられています。